2018年8月20日月曜日

米軍撮影の金沢の写真公開

今月15日、73年回目の終戦記念日を迎えた。奇しくも最近になって米軍が撮影した金沢の航空写真が公開された。もちろん、金沢空襲計画のためであった。
昭和19年秋から終戦まで、全国で米空軍の焼夷弾攻撃にさらされた都市は、58ヶ所にのぼる。終戦になる直前まで米軍は、大都市だけではなく地方の小都市まで焼きつくした。
その目的は何と何と、空軍の陸軍からの独立を認めさせるために陸海軍や大統領に空軍の力を見せつけるのが目的だったと証言されているのである。そのために何十万、何百万という死傷者が発生したのである。情けないかな、空襲に立ち向かう戦力はゼロ。凌辱の限りを尽くされたのだ。

米軍撮影の金沢
昭和20年7月20日付の金沢爆撃に関する戦闘計画書によると、マリアナ諸島にある基地から出撃した120機程度のB-29が、静岡県の御前崎から本土上空に侵入し日本海側に向け北上、黒部から一旦富山湾に出ると能登半島の穴水から志賀にかけての上空で左旋回してまっすぐ南下、金沢市内中心部を時速310キロで通過しながら、高度4500メートルからレーダー照準により70分以内で爆撃し、帰路は侵入した御前崎から離脱するという作戦だったという。

8月6日の時点では、金沢は今後の爆撃計画の目標リストに載った12都市の筆頭に挙げられたのだが、11日の命令書の目標リストには金沢は何故か除外された。
その何故かについて盛んに憶測されている。
だが、米軍の機密文書によれば、石川県の爆撃目標は、国鉄松任工場と、七尾港の2ヶ所だけという。それに対し、富山県は、不二越本社工場、 日満アルミニウム富山工場など、
工場8ヶ所、港湾3ヶ所、水力発電所10ヶ所、変電所1ヶ所の計22ヶ所もあった。

工業県としての圧倒的な実力の差が、石川と富山の明暗を分けることになった。
福井市は、 20年7月19日に焦土と化し、次は金沢と、誰もが覚悟した。
ところが8月2日、B29の編隊は、金沢の上空を通り過ぎて、富山市に1万2千7百発の焼夷弾を雨アラレと投下した。 11万人が焼け出され、2,776人の死者が出た。

大和デパートのビルだけが残ったが、建物の機能を失い取り壊された
市の焼失面積は95%、焼失率全国一の焼け野原になった。 当時、金沢に住んでいた80代の人から富山空襲の話を何度か聞いたことがある。空襲の夜、金沢の空も明るく輝いていたという。空襲による損害補償を論ずる訳ではないが、家を焼かれ両親を失った子供たちは上野駅の地下道で白い目で見られながら育ったという。もう80代後半になったそんな経験者たちは全員口を閉ざすという。そりゃそうだろうなぁ。誰も同情しないもんなぁ。

焼失率全国一となった富山市街地
さて、金沢の空襲計画が一時的に除外されたとしても、もう2週間くらい終戦が伸びていたら焦土と化したに違いないと思う。
終戦記念日を迎え、ふとそんなことが頭をよぎった。

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