2013年4月27日土曜日

中山道中津川宿(その4)超繁忙対策

国鉄は第2次5か年計画により近代化を推進してきたが、資金不足のため昭和39年度で打ち切られた。そこで昭和40年度から新たに多額の資金を借入れして、昭和43年10月を目標とした「第三次長期計画」を策定し、輸送力増強を推進して国鉄の屋台骨を再構築することになった。
部内では「ヨンサントオ」と呼称され、吾々技術系職員にも大きな影響を及ぼした。
日本海海戦の開戦にあたり、東郷連合艦隊司令長官が隊員に訓令した「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ。」の同義語として、あらゆる機会に「ヨンサントオ」と檄が飛ばされ尻に鞭が当てられた。
国内公共事業や民間設備投資が年々増加の一途をたどり、建設技術系新卒者の需要数が供給数を大幅に上回る現象が顕著となった。国鉄にあっても近代化・合理化を図り輸送力増強を急ぐ必要があった。
このような情勢により、国鉄の建設事業費が飛躍的な伸長をした結果、人員不足が慢性的となって吾々にしわ寄せされていた。毎月100時間を超える超勤が当たり前になったのである。
そんな中、岐阜工事局でも昭和40年新卒者が大量採用された。応募が少ないため中々採用予定数に至らず、二次三次と追加募集され、人事担当者は九州地方の高校にまで募集に出かけた。
4月早々、新採者たちは現場勤務を命じられた。
中津川工事区でも1名が配属され、私の部下となった。
新採者の指導
人員強化のほか業務改善策として、個人的な技術力に依存していた構造物設計を、標準図として統一されつつあった。外部委託も導入され始め、コンサルタント業が脚光を浴びてきた。
国、地方自治体においても設計業務の外部委託導入が始まった。
後年、道路や河川工作物、上下水道、都市計画関係業務等の全てがコンサルタントに依存するようになってしまった。その結果、国鉄も含め役所の建設技術者の技術力が失われてしまう弊害が発生した。
現場調査測量をして詳細設計ができる技術者は、現在では存在するところがなくなった。
コンサルが設計した図面が適正なのか判断できない幹部が、国や地方公共団体に大勢いるのはそういう職場環境が失われた結果の事実である。
また、工事予定価格を算定する積算業務も、個人的に現場経験を積み上げて作業種別ごとに就労人員を査定する能力を鍛えてきた。しかし、個人差があり時間もかかった。増大する業務を消化するためには、積算基準書の整備を行い効率化を図る必要があった。5,6年後、積算業務のコンピュータ化が実現することになる。この業務においても、積算歩掛とはなんぞやと理解して積算できる人間を失う結果を招いている。
現場調査から詳細設計ができる人間は昭和の化石となった。

2013年4月26日金曜日

中山道中津川宿(その3)不思議発見!

昭和40年7月、現場事務所すぐ傍の中津川が豪雨により増水した。濁水が急流となって今にも堤防を越えようとしていた。そして異様な音に気付いた。「ガラガラガラ、ドスン」何だろうと地元から通勤している運転手に聞いた。「石がぶつかり合って流れている音だ」と。
金沢の犀川や浅野川が増水してもこのような音は発しない。中津川は一抱え以上もある石で河床が埋め尽くされており、河川勾配が急であるため石が流されるという。増水が治まるまでそれは不気味であった。
運転手が「いいもんを見に行かないか」と誘ってくれたので、若い衆と連れだって徒歩10分くらいの桃山公園というところに行った。
そしてあ然とした。何と男女のシンボルそのものの形をした巨石が、しかも揃って鎮座しているではないか。
それにしても「でかい」
自然?人工?不思議!
男女の位置関係
自然にしてはうまく出来すぎと思うし、人工だとすれば加工、運搬で莫大な費用がかかるだろうし、いやはや不思議な女夫岩ではある。
ついでだが、愛知県小牧市付近に田県神社という神社がある。ここにも行って見たことがある。
この神社の神様は男根。豊年祭りには男のシンボルがつけられた神輿と女のシンボルが大きく描かれた幟旗が町を練り歩く。
神輿が凄い!
意外と若い女性たちも大勢見物しているのである。こういう祭りも一度は見物してみては如何か。


2013年4月25日木曜日

中山道中津川宿(その2)

当時の工事発注方式は、トンネル、長大橋りょうを除き、「明かり」と称する路盤工事については標準図を基に概数を算定して請負契約が締結され、現場事務所において現地調査し、詳細設計を行い施工された。そのため、現場で設計が終わらない限り着工ができない。
現場調査測量⇒詳細設計⇒積算⇒設計変更伺(主管課へ提出)⇒局次長決済認可⇒着工という手順を踏まなければならない。
従って明かり工事担当職員は常に設計変更作成業務に追われ放しとなる。同時に現場検査願があればその都度現場に行かなければならない。日中は外業、夜は遅くまで内業となる。現場事務所勤務は「タコ部屋」同然であった。
組合闘争で36条協議破棄(超勤拒否)中であっても、現場職員は超勤拒否どころではなかった。
40年代前半までは現場職員は100時間以上の超勤手当が支給された。基本給を超えることも珍しくなかった。そのほか現場巡回手当、宿直手当、トンネル掘削手当等が支給された。
余談ではあるが、本局勤務者で新婚さんなどは現場勤務を望んだ。現場に出ると自家用車が買えるくらい生活にゆとりができたからである。
さて、1.6kmの各種構造物設計は緊急課題であった。
一部工事着工
橋りょうを最優先に設計し工事開始
忙しさのため女の子にもつい厳しい言葉が
忙中閑あり、5月の連休のある日、15km離れた恵那峡へ行った。恵那峡は関電大井発電所のダムにより観光開発された所である。
関電大井ダム
このダムを見学して高校2年の時にダムの図面を描いたことを思い出した。
我ながらよく描けている
連休が明けて再び深夜までの作業の日々を送った。

2013年4月24日水曜日

中山道中津川宿(その1)

昭和40年1月15日、多治見工事区から中津川工事区に着任した。

中津川市は中山道中津川宿の賑わいを引き継いで、当時48000人の人口で経済・文化活動が
活発であった。
工事区と寮は中津川橋りょう直近に位置していた
【経済の中心地・中津川宿 国境の宿・落合宿】(検索資料による)
 中津川宿は、東濃最大の宿場として経済の中心地として栄えました。古代より交通の要衝として栄えた中津川は、物資の集積地でもあり、木曽や三河、飛騨方面からの品物が集まり、毎月3と8がつく日には「六斎市」という市が立ちました。
経済の中心であるとともに、中津川は文化の中心でもありました。旅人がもたらす東西の文化を取り入れながら、独自の文化を作りげてきました。そのひとつが中津川独自の食文化。そして幕末の頃は情報ターミナルとしての役割もになっていました。
安藤広重 中津川宿
関が原の合戦後、天下統一を果たした徳川家康は、江戸を基点とする5つの街道の整備に着手した。その中で、江戸と京を結ぶ街道が東海道と中山道だった。海沿いを通る東海道に対し、日本の屋根といわれる山岳地帯を通る中山道は、東海道の裏街道として整備された。東海道は比較的平坦な道が多く歩きやすい代わりに、大名行列などの交通が多く、また大河越えや舟渡しなど、天候に左右されやすい道でした。中山道は急な山道を通ることが多いのですが、天候に左右されることなく旅程がたてやすい道でした。そのため、滞ることを嫌うお輿入れ行列は中山道を使うことが多く、別名「姫街道」とも呼ばれた。また、「上松」「馬籠(まごめ・孫目)」など、縁起のよい地名があることも、中山道を好んで使った理由といわれている。中津川市内には、木曽路の入り口として、商業の中心地として栄えた中津川宿、美濃国と信濃国の国境にある落合宿、島崎藤村の小説「夜明け前」の舞台となった馬籠宿の3つの宿場がある。

当時、岐阜工事局では名古屋を起点として中央本線の複線化をめざし、神領車両基地設計計画を始めとして定光寺、古虎渓、多治見、土岐津、釜戸、恵那、中津川、及び坂下に工事区を設置して蜂の巣をつついたような状態で鋭意工事を進めていた。

区長が私をスタッフにした経緯を話してくれた。「設計協議で着工が遅れていたが、ようやく話がついた。これから君に恵那工事区境界から1.6kmの区間をやってもらう。すぐ着工したいが詳細設計は全く手を付けていない。1日も早く着工する必要があり忙しくなるが、君にならやれると考え土木課長に頼んだ。後輩を一人付けるので面倒を見てくれ。」というものであった。
担当する区間には大構造物はないが、細かな構造物がわんさか!
工事区境界から現場を踏査した。大小橋りょうが6か所、踏切道路付替え数か所、横断水路、河川付替え、排水溝、法面工、美乃坂本駅乗降場改築等々、これを後輩と二人で設計から工事管理までやらなければならない。多治見工事区で担当した比ではなく気が遠くなる思いをした。

そして寮に入り自分の部屋で寝てみて驚いた。寮は中津川橋りょうの鉄桁の真下にあるため、名古屋方面から列車が通過する度の騒音が半端でないため、初日はうとうとするだけで夜明けを迎えた。大変な所に来たもんだと今後が心配になった。

2013年4月20日土曜日

トンネル貫通式で美酒に酔う

請負業者の主任技術者から「橋りょうの鉄筋が組み上がったので現場検査をお願いします」と連絡があったので現場に行った。
設計図面を広げ、鉄筋の径、間隔、先端フックの形状、重ね継手等をチェックしていった。
全般的に荒っぽい仕事だと感じたとおり、間隔もまちまち、重ね継手もばらばら、如何にも素人職人の仕事であることが一目瞭然であった。
主任技術者に「全てバラして組み直し!」と指示してほかの現場を巡回し2時間後に事務所に帰った。
帰着すると助役が、「刺青をした下請けの親方が監督を出せと一暴れして行ったところだ。鉄筋をバラせと云われコンクリ仕事もできない、大損だ。監督は細か過ぎる、ぶっ殺してやる、とゆうとった。現場に行くときは気をつけろ。」と指導があった。昔は監督が現場に来るときに足場の上から金槌やペンチが落ちてきたり板切れなどを落とされたこともあった、と聞いた。
このような下請け親方を使っている元請け業者の社員の資質も問題がある。この現場の主任技術者は大阪の出身者で態度が不遜であった。指示を出すと、「あーそっでっか」と、如何にも私を馬鹿にした口ブリに腹が立つことが多かった。
助役から現場代理人に監督者の安全上、刺青した親方を代えよと指示され直ちに措置が行われた。間もなくして主任技術者も交代した。
多治見駅から数百メートル長野方に単線型の虎渓山トンネルが施工中であった。工事が進捗し貫通式が催されるというので、生まれて初めて貫通式に参列することにした。
天井部から滴り落ちる暗くて狭い木材で組まれた支保工の間を通り貫通地点に到着した。
区長による貫通発破のスイッチが押され、タヌキアナと称する空間ができた。こちら側と向こう側から酒樽が担がれ交換された。半裸体の作業員、請負者側社員、工事区職員一同が万歳を三唱し酒樽の鏡が割られ祝杯をあげた。飲めない私にもそれは美酒であった。
祝貫通!前列右端の私とその後ろに上司の助役の姿が
貫通の時ほど仕事の達成感が昂揚する場はない。いつか自分もトンネル担当者となって美酒を味わいたいと思った。
何もわからない状態で着任した私は、4,5か月過ぎる頃には一通りの仕事を理解し任務が果たされるようになった。
そして自分が現場測量をし、図面を描き、積算できるまでになり、現場監督をして構造物が出来上がってきた。
机の上は片付くことがなかった
職員家族慰安会で長良川簗場で鮎料理三昧

着任時の現場状況
大がかりな切土現場
鉄筋をバラせと命じた橋りょう付近
自分で設計から工事管理まで行った成果
土木屋の冥利は自分の設計した構造物が何十年と機能し続けていることであろう。10年後、女房が多治見の茶碗祭りに行きたいというので岐阜から車で多治見に訪れた。ついでに自分の担当した現場に連れて行った。苦労した思い出話をしたが、「フーン」と云っただけだった。女には男の仕事はかわらんだろうなぁと思った。
ある日助役から「君が寮長をやれ」と指示された。任務は宿泊客の予約受付、宿泊代金の徴収である。本局からの「缶詰」作業に寮が使用された。賄のおばさんに宿泊客の人数を告げる役目もあった。
寮生活で馴染めなかったのが「赤だし味噌」の味噌汁であった。北陸の人間にとって味噌汁は白みそでなくてはならない。渋くて苦い味噌汁に加えて、強烈なカルキの匂いのした水道水には閉口した。
22歳の昭和40年が明け、一瞬吾が耳を疑う話が出た。今月中旬、転勤命令が出されると。思わず「エエッ」と聞き返した。
僅か7か月、なぜそんな早い転勤命令が出るのか理由を尋ねた。「何か私に非がありましたか」と。
助役曰く、「設計協議が難航していた中津川工事区で、ようやく住民と協議成立調印され遅れていた工事が着工されることになった。新任の区長が本局担当課長に直談判して、担当職員を多治見工事区の君にしたいと指名したためだ。」と。
新任区長は能登線鵜飼工事区で一緒だった区長であった。その区長から絶大な信任を得たことだが、嬉しいのかそうでないのか複雑な思いで命令に服することにした。

2013年4月18日木曜日

新幹線開業と東京オリンピック

井沢八郎が唄った「ああ上野駅」はこの年昭和39年に大ヒットした。
中卒が金の卵とちやほやされた時代であった。
日本は岩戸景気、高天原景気と続いてなお高度経済成長の最中にあった。国鉄は輸送需要予測の対応のため輸送力増強を打ち出し、設備投資額が飛躍的に増大した。東海道新幹線は9月1日開業を目指して追い込み急であった。
これらに伴い、建設技術者不足が深刻な状況となっていた。
昭和39年6月初旬、岐阜県東濃地域の多治見工事区に着任した。
多治見工事区位置図
事務所と寮は駅から西方約400mの駅構内名古屋方終端付近に位置していた。
海軍兵学校最終卒業生であり、かつ中央鉄道教習所専門部土木卒の優秀な助役が上司となった。
その助役から担当する業務の説明が行われた。
「君には土岐津工事区境界から多治見方1km間の新規発注された路盤工事を担当してもらう。
わからないことは何でも相談しろ」と指示があった。
軌道工事しか経験のない私には分からないことばかりであった。
業務担当位置図
鉄道と交差する地下道、河川等の付替え、土留擁壁の設計を短期間に行わないと工事完成期限に間に合わないことがわかった。
複線化工事は左右どちらか一方の工作物を取り壊して実施される。このため土留擁壁に使用されている石積み擁壁の石を極力再利用せよと指示があった。最もてこずったのがこの展開図作成であった。最初は説明を聞いても何が何だかさっぱり理解できなかった。
徹夜作業で設計した石積み土留壁
独身寮は事務所のすぐそばに設置されていた。場所が線路のすぐそばにあって、昼夜を問わず貨車の入替作業が行われていた。このため、深夜になると騒音が睡眠の妨げとなった。熟睡できない日が続いたが10日ほどで気にならなくなった。
8月に入って新幹線の試運転が開始された。工事局関係者と家族に名古屋・豊橋間の試乗券が配布された。
指定された試乗の日、名古屋駅に向かった。駅施設の目に入るもの全てがこれまでの施設の常識を覆したもので完成しており、子供のように列車の到着が待ち遠しかった。
新幹線がもうすぐやってくる!
到着、わお、凄いなぁ!
時速200km、快適!
試乗した感動は今も脳裏に深く刻まれている。よし、俺も新幹線を造るぞ!と。
10月10日、多治見も快晴の日、東京オリンピックのファンファーレが鳴り響き、数々のドラマが展開した。1000円記念硬貨を行列して手に入れたが、どこにしまったか思い出せない。

2013年4月16日火曜日

中央本線多治見工事区勤務を命ず

昭和39年3月、中央本線高蔵寺・定光寺間線路増設工事の発注業務を急ぐため、係り総動員して持ち出し出張をすることになった。
出張先は地滑り調査に行った定光寺工事区併設の寮であった。持ち出し出張を「缶詰」と称していた。計算機、製図用具、積算基準書等を柳行李に入れ、宿泊箇所に持参して出張期間内に設計図、工事数量計算書、積算書を仕上げなければならない。
早朝から深夜まで、胡坐をかいての作業のため足がしびれ、腰が痛くなる。缶詰とはうまく表現しているものだと妙に感心した。
私の仕事は縮尺1/100横断面図に土工定規に基づいて計画線を記入し、切土、盛土の断面積を求積したり、土留擁壁の面積計算が主であった。
1週間でその作業を終え本局に帰った。きつい缶詰作業ではあるが、出張旅費は宿泊代を差し引いてもかなりの余裕があった。
その浮いた旅費で3月下旬に九州旅行に行くことにした。行先は当時新婚旅行のメッカといわれた別府、日南海岸、鹿児島まで足を延ばした。
日南海岸
青島
新婚さんがいっぱい・こどもの国
4月初旬、岐阜工事局構内に鉄建公団岐阜建設事務所が開設された。この事務所は1年ほど当地にあったが、名古屋の繁華街にある御園座5階に本拠地が移された。
5月中旬、係長から事前通知書が渡された。本局勤務7か月にしてはあまりにも早い現場勤務命令であった。公団転出を断ったためなのかという思いがよぎった。
6月初旬、新勤務地の多治見工事区に赴任した。


2013年4月12日金曜日

公団要員確保の標的は君だ

地滑り対策方針が決定し長期出張から解放されて主管課に戻った。新たな業務として高蔵寺・定光寺間の複線化工事計画が開始された。
緊張の連続した現場業務から室内業務に変わって、精神的に解放感に浸りながら仕事を続けることができた。
昼食時間が近づいてくると臨雇採用の適齢期の女性が、課内職員にパンや牛乳などの注文を聞いて回った。昼になると机の上に注文の品物を配っていた。
局内各課に数人の臨雇女性がいて、タイピストや電話交換手を合わせると80人前後の適齢期の女性がいた。
男性職員は33年採用から増え始めたので、局内では誰と誰とがいい仲になっているという噂が飛び交った。そんな職場環境だったので、職場恋愛で結婚したカップルが続出した。
私は21歳になっていた。ある日、2,3歳年上の女性が労音のコンサートに行かないかと誘ってくれた。
坂本博の「喋々夫人」を一緒に観に行った。オペラは初めてだった。異国情緒たっぷりの舞台装置に魅せられた。観劇が終わって喫茶店へ。オペラの話や趣味嗜好について話が弾んだ。しかし、恋愛感情というものではなく、女の友達という関係であった。その友達の友達も2,3歳年上だったが、3人で喫茶店へよくだべりに行くようになった。
昭和38年が暮れようとした頃、ある日課長補佐が私に話があると云って隣の椅子に腰かけた。
そして話が始まった。「君は来年4月から国鉄の建設業務のうち、新線建設業務が鉄道建設公団に移管されることは知っていると思う。岐阜工事局管内で施工中の能登線、神岡線は鉄道建設公団に業務が移管される。君は能登線建設業務を経験しているので、建設公団に行ってもらいたい。」と切り出された。
私としては組織の実態がない公団に勧誘されても・・・と判断に迷った。しばらく考えさせて貰いたいとその場を凌いだ。
ところが来る日も来る日も課長補佐が隣の席に腰かけ、執拗に公団転出を迫られた。
鉄道運賃割引証が発行されることになったし、給与は現在の基本給に名古屋の地域給を加算し、さらに3号俸アップする。どうだ、こんな好条件に迷うことは何一つない。いい返事をしてくれないか。と毎日毎日繰り返された。あたりを見渡してもそんな勧誘を受けている者はいなかった。私がターゲットになっていた。私の心の隅に「国鉄」に拘るものがあった。近い将来、世界に冠たる新幹線をこの手で造ってみたいという願望がほのかにあった。
そして自分の席になるべくいないように逃避することにした。逃避場所として青写真室や組合事務室を選んだ。そのうち勧誘者はそんな行動に出た私を説得するのは困難だと諦めてくれた。
勧誘にあたった人は公団発足とともに、鉄建公団中部地域を管轄する岐阜建設事務所の調査課長に就任された。
過密状態の寮では20畳敷きの娯楽室が設けられた。そこは麻雀部屋と化した。ネギを背負ったカモもどうにかゲームを楽しめる程度に上達した。
3月中旬、係りの後輩2人と3人で伊豆方面に旅行することにした。

石廊崎灯台で
伊豆市の了仙寺では秘宝の仏像を拝んだ。秘宝はもう見ることができなくなっていると思われる。
「天城越え」で有名な浄蓮滝
またある日は同期生の自宅である蒲郡市や近くの三ヶ根山に出かけた。
蒲郡市の近く三ヶ根山頂上で
このころ社交ダンスやアイススケートが大流行していた。スケートも役所の女性たちと何度か遊びに行った。

2013年4月9日火曜日

52年ぶりの友と再会した同窓会

春の嵐が吹き荒れた4月7日、山代温泉で2年ぶりの同窓会が開催された。
返信はがきに参加〇印した人が82名だったが、体調不調、葬儀等の予期しない出来事で4名から取り消しの連絡があり、開催前日に福岡在住の参加予定者から嵐のため参加取り消しの連絡があって77名で開催することになった。
東京からの参加者のうち1人は開催時刻を過ぎても未着であった。
今回の開催にあたり、加賀市の誘客施策としたコンベンション誘致推進事業補助金交付制度を利用することにした。事前協議書を提出し事前審査を受け、事後報告書一式を揃えて提出後、最終審査で認可されると一人当たり500円が主催者、旅行斡旋業者に同額交付されるという。
約4万円交付してもらうために一般的な懇親会のほか、総会を開催することにした。
25年度総会
宴会場のほか、ホテルと交渉してコンベンションルームを確保して実施した。
関東、東北、東海、阪神等の県外在住者が26名も出席してくれた。今回の同窓会には卒業以来初めて参加した人4名が52年ぶりの同窓生と再会を果たすことができた。
従来の宴席は横一列であったが、テーブルを組み合わせて対面方式とし1ブロック8人となるよう工夫した。結果は上々。どのテーブルも会話が弾んだ。
司会者より懇親会開会宣言
2時間の時間は瞬く間に過ぎ去った。最後に校歌を斉唱することになり、52年ぶりに参加した元ブラスバンド部員に指揮者をお願いしたところ快諾を受け、録音テープから流れるブラスバンド伴奏に合わせ、高らかに元気いっぱいの校歌が会場に轟き渡った。一瞬のうちに全員の気持ちは在学時に戻った。

会場が割れんばかりの万歳三唱!

二次会も大盛況
幹事部屋で三次会が深夜に及んだ
翌日、ホテルのロビーにおいて参加した皆さんが帰られる際に「大変楽しかった、ありがとう」という感謝の言葉を浴びた。幹事冥利につきる言葉に感動した。
そのほか、ある女性が1週間ほど前に拙宅に訪ねてこられ、「私は法事のため参加できないが、亡くなられた方に献杯したいという気持ちからその足しにしていただければ」とご芳志をいただいた。自分には考えも及ばない行為に甚く感動した。

健康寿命を延ばして次回同窓会で再会しようと全員で誓った同窓会であった。

2013年4月4日木曜日

木を見て森を見ず・指揮官の能力

列車停止非常ベル騒動があって間もなく、大規模な地形調査測量が実施されることになり、測量隊が編成された。主管課から4名、線増課から8名の12名により、4人編成3パーティが横断測量を開始した。総括指揮官は主管課担当係長が当たった。
足元は急傾斜地で木立が多い悪条件の中、ハンドレベルで高低差を実測することになった。
指揮官は1断面往復測量を行い誤差をゼロになるように指示した。平坦地ならいざ知らず、ロッククライミングしながらの測量でそんな精度が必要か誰もが不思議に思い不平を漏らしたが、指揮官は頑なに自分の主張を曲げることはなかった。
そんなことで作業は困難を極め、終わるのに数日間を要した。
野帳に書き込まれたデータから図面を描くことになり、縮尺をどうするか本社に問い合わせることになった。本社はその図面を基に地滑り対策会議の資料を作成する準備を進めていた。
本社の指示は「縮尺は1/1,000とせよ」というものであった。
縦横1/1000、それを聞いてあ然とした。作業開始前にそれを聞いておけば苦労した精度の高い測量は不要なのであった。1mの高低差を図面に描くとき1mmの線にしかならない。危険を省みず崖を這い木々の枝葉を払いながらの作業は何だったのかと。
いかなる指揮官であっても部下の安全を重視し、合理的に目的を遂行する義務がある。
正に「木を見て森を見ず」の迷指揮官の采配であった。
時を経ず現場で本社幹部を交えトンネル会議が開催された。
本社幹部から意見が述べられたとき、工事区長が「若造に何がわかる!」と怒声を上げた。さすがベテランの区長である。堂々と自分の意見を述べその意見により工事が進められることになった。
その時以降、本社幹部に楯突く地方局の職員の姿を見ることはなかった。自信に満ちた名指揮官としての姿がそこにあった。
昭和45年、その人は山陽新幹線尾道トンネルの長大トンネル施工の指揮に当たった。後に国鉄最高賞の特別功労賞を受賞された。
以上、迷指揮官と名指揮官の采配ぶりの違いである。

2013年4月2日火曜日

スカイツリーの真下と真上から

スカイツリーと花見のツアー募集に手をあげて1か月前に申込みしたのだが、東京はやけに早く満開になってもうだめだろうと花見を諦めていた。ところが一昨日、昨日と上野公園、千鳥ヶ淵、お台場の花見に間に合った。
一昨日はスカイツリーに登った。あいにくの曇天。それでもさすがのスカイツリー。迫力を十分堪能できた。

地上450mから真下を見ると
下の展望シャトルがこのように見えた


真上を見上げるとこのよのように
翌日は快晴。靖国神社に参拝し、すぐ傍の桜の名所千鳥ヶ淵に。
今日は雨、昨日が見納めか
花のトンネル歩道
花吹雪が舞う光景も風情があった。
お台場のしだれ桜は満開
改築された東京駅北口ドーム
孫たちは大喜びのツアーだったようだが、かなりハードな行程がたたり足腰が痛む。もっと日頃の運動量を増やさなければ・・・・・・・。