惜しまれて閉店 |
小松を代表するご当地グルメ「塩焼きそば」発祥の店として知られる小松市土居原町の中華料理店「餃子菜館 清ちゃん」が29日に閉店したという。北陸の中華料理店の草分けとされ、多くの人の胃袋をつかんできたが、店主の高輪清さん(90)が高齢となったため。創業から65年を迎え、高輪さんは「さすがに体力の限界。ここまで続けることができて、お客さんに感謝や」と最後の日まで料理を作り続けた。
惜しまれて閉店 |
商店街の現在 |
北海道に生息する絶滅危惧種のシマブクロ |
児童の通学で、朝は子ども会のお母さん方、午後の下校時は町内高齢者で組織する安全パトロール隊が交差点歩道で安全誘導を行なっている。10年前には20人を超えるメンバーが二箇所の交差点で誘導をしていたのだが、数年前から1箇所だけとした。足腰が痛み引退する方が増え隊員は9人に減少してしまったためだった。
朝の集団登校時 |
下校時の誘導 |
吾々の年代になると、誤送金事件の経緯をたどってみても、オンラインカジノだとか、決済代行業者等々、初めて聞く言葉ばかりで何のことか理解しがたい。
この闇の会社はネットカジノ急成長の産物のようだ。警察が捜査対象にするのを恐れてカジノに注いだ金額を慌てて送金したと考えられる。
何と3年で120倍なのだ! |
フェリーが着岸している42年前(昭和50年) (モノクロ写真を着彩) |
昨日9時前に能登町に向け出発、11時頃到着し即、座敷の書院障子戸をきっちりと4枚建付けした。続いて10枚の障子戸を外し障子紙をはがす作業。それが終わると障子紙を枠に合わせてカッターで切りそろえ、ノリ置き作業。これがとても面倒な作業となる。その上に切りそろえた紙をぴったりと貼り合わせる作業。これは一人では不可。夫婦一体で呼吸を合わせ紙を下ろして貼る。この作業でへとへと。ま、娘を嫁に出す心境で少しでも見栄え良く印象がいいようにと自分に言い聞かせながら疲れに耐え、午後6時となって作業打ち切り終了。
眺望絶佳、大浴槽は快適 |
今回は国民宿舎で宿泊した。予約は洋室にリニューアルした部屋に。県民割3千円とショッピング券1千円と4千円もお得だった。夕食後に入浴。広々とした浴槽に3人、ぜいたくな温泉気分だった。今朝は5時半起床、6時朝ぶろへ。フロントで100円の髭剃りを買い求めてから入浴した。誰もいない独り占めの温泉。おまけに快晴のもと、朴ノ木が茂る林の見える景色はなんと贅沢な空間だろうと。
7時朝食、8時再び家で掃除を開始した。空き家情報掲載に伴う現地立ち合いは13時半なので、昼食なしで作業を続けた。カッターで障子紙を切り障子戸を所定の場所に戻した。玄関回りを水洗いし立会人が来るのを待った。1時半、立ち合い人2人と司法書士をしている娘が来て立ち合いが開始した。町側の出席はなく、二人は不動産関係者だった。写真をくまなく撮影した人は社長だということを名刺でわかった。もう一人の女性はその会社の方だった。その人は間取りを調査された。
調査が終わってヒヤリングが行われた。先日もこの近くで成約物件があったという。字絵図を広げられて未登記物件について経緯を聞かれた。現状になって70年が経過しているが、時効成立は簡単な事務処理ではできないという。登記処理をきっちりと済ます必用があるという。ま、娘が動いてくれると信じることにした。父母が使用していた物品は山のごとく存在する。その処分に頭を悩ませているのだが、社長はシニア人材センターが品種ごとに仕分けして処分してくれるのだが、一般業者の1/3くらいで済む。かつ、能登町の処分費補助制度があるので皆さんに喜ばれているという。
そんなことで、実家の処分に明るい兆しが見えて来た。疲れたが、今日はいい日だった。
能登町のホームページに空き家情報という頁があって、それに掲載する申請書を提出していたのだが、25日に能登町・不動産業者・建物所有者の三者が現場立ち会いすることが決定した。家は25年前まで両親が住んでいたが、急病で入院して以降は空き家となっている。敷地80坪、建物延べ面積100坪と能登では一般的な広さとなっている。
玄関上がり口 |
漆塗りなので艶は衰えない |
連休中に実家の掃除や障子の張り替えと除草をしたが、書院の障子張り替えが思ったより手間取り、残った障子戸の張り替えや両親が棚にしまい込んだ物品の確認をするため、明日国民宿舎に1泊することにした。県民割りは23日で終了したと伝えられたが、直ぐ後に延長されたので適用されると聞いた。
9尺床の間と書院 |
2階床の間と違い棚 |
改築前の建物 旧長崎屋が営業していた |
昨日オープンした |
先日、「母ちゃん防災士」という小坂町の竹川操枝さんの行動を記録した番組を見た。竹川さんは防災士として中越地震や能登地震で防災士として縦横無尽の活躍をされた人として、その活躍ぶりをしっかりとカメラが捉えていた。
TVのタイトル |
校下内外を問わず、積極的に防災指導にあたられた |
近所の人を自宅に呼び、50人分のメッタ汁を作り 災害時には最も喜ばれる料理だと普及を図られた |
近所の人がドッと見舞いに来られた |
8家老と足軽 |
孫が応援に駆けつけてくれた |
60代の足軽は数少ない |
携帯のカメラを取り出して撮影した |
昨日午後12時20分、金沢医科大に向け家を出発し40分に到着。自動受付して採血し、CT検査して泌尿器科受付したのが1時10分、ここからが我慢の待ち時間が始まった。毎週火曜日は泌尿器科教授の診察指定時間なので、朝から待つ患者が多く、特に何組もの夫婦連れの患者が待合室にひしめき診察を待っているから三時間以上はかかる。夫婦連れは深刻な病状の患者に多い。吾が女房殿も4年前、神妙にガンの病状や手術について説明を聞いた。
医科大病院入り口付近の様子 先ず、自動受付機へ |
腎臓にしても膵臓にしても、体調が悪くなって初めて気づき検査することになるが、その時は殆どが手遅れ状態が一般的。それが、暫く胃カメラを飲んでなかったので、4年前に検査することにした。診断結果で心配ないと思うが、念のためにCTを撮りましょうと検査した。結果、胃腸科の先生は異状は有りませんでしたと診断された。ところが放射線担当医師から腎臓に異状が認められるので泌尿器科で精密検査してくださいということになった。腎臓は事前に細胞採取して検査できないため、切除したもので癌か否かを判断するという。ま、100%癌でしょう・・・と。
先端医療ダビンチで手術 |
昨日は天候の様子からしばらく見合わせていたウォーキングをした。ルートは百坂・森本駅・郵便局・福久東の南回り。町内の南小公園に咲き誇っていたツツジが散って路上に貯まっていた。森本駅の階段を二段飛びでかけあがるのだが、この階段にツバメの巣がある。まだ、産卵していないらしく巣にツバメの姿はなかった。階段には新聞紙のふん受けが設けられている。
向こうの階段にも巣がある |
郵便局横の田んぼはまだ田植えしてない |
暫く歩くと広大な田んぼになるが、ここも田植えしてない田がかなりあった |
ままごと農園に植え付けして2週間、やがてキュウリ棚を設置しなければ・・・ |
左側の白っぽい洋服の「妖精」さん ネットでは有名な人 |
ロシアは3日もあれば降参すると観ていたウクライナへの侵攻だが、やがて三ヶ月も猛攻に耐えている。侵攻は戦車とミサイルがメインとなっている。昔は爆撃機による空爆、焼夷弾による焼き尽くしだった。それがロシアはどういうわけか制空権が取れないという。それに、連日のように黒海のロシア艦船がミサイル攻撃で撃沈しているようだ。東部に侵攻したロシア軍が徐々に後退しているという。NATO諸国の武器供与が大きな貢献をしているようだ。強者のおごりが正常な判断力を失っているようだ。
さて、先日、何度も目にしたことがある富山空襲の写真がまた記事になっていた。消失した家々の補償はない。当然、亡くなった者の補償もない。記事によると、焦げた大和デパートは16日後から営業したという。このエネルギーは凄まじい。
中央のビルは富山大和 |
3D映像化するとこうなった |
今日5月15日は沖縄復帰50周年だという。現在の沖縄は新型コロナウイルスの感染者が新記録を重ねている深刻な状況にある。沖縄に旅行するまでは琉球国というイメージで半ば外国のように思っていた。勿論、太平洋戦争で激戦地だったことは知っていた。
最初に訪れたのは21年前の平成13年だった。用務は公務出張で、3日間の建設技術関係講習会のためだった。小松から那覇まで一直線、この日は前泊なのでフリー、午後に到着してすぐ観光バスに乗車した。
最初の観光地は旧海軍地下壕だった |
沖縄にもかなり規模が大きな鍾乳洞があった |
小学生の頃に見た映画を思い出した |
日本三大がっかり?守礼門は想像よりコンパクトだった |
首里城の勇姿は今はない |
1日目はデラックスなリゾートホテルに泊まった |
ホテルではいろいろな沖縄の踊りが披露された |
南国ムード溢れる観光地へ |
最も人気が高い水族館へ |
大水槽のジンベイザメが大人気 |
夜は観光船のライブショーを見ながらの食事 |