2018年4月30日月曜日

にわかに信じがたい話

今まで生きてきた経験が自信過剰気味になっているのに気付かないで、新しい事象の変化に中々溶け込めない、否、溶け込もうとしない後期高齢者の一人なのだが、先日目にしたニュースに「3Dプリンターで24時間で家が建った」というものがあった。「エーッ、そんな馬鹿な」とにわかに信じがたい話であった。
プリンターは一般家庭にほぼ100%普及しているこの時代だが、3Dプリンターなるものができたというニュースはここ2,3年前くらいだっただろう。そのプリンターで樹脂で人形が作られたという話を聞いた。紙にプリントするのではなく、3Dのデータをインプットした機械を動かして製作するのだという。


リコーが開発した3Dプリンターは7500万円だという。この機械でどんなものができるのだろう。
製品ボリュームが1m3くらいか?
ところが海外では建築用3Dプリンターが開発され、既に実用化されたというではないか。

家を建築中の3Dプリンター
3Dプリンターで完成させた実例
ドンドン活用事例が増えている
アメリカ・サンフランシスコに拠点を置く会社「アピスコー(Apis Cor)」に依頼すれば、かかるコストは約113万円。わずか24時間で家が完成してしまうというのだからすごいではないか!
3Dプリンタの大きさは、アームが4m、高さが1.5m、重さが2トンと、建築機材としては意外とコンパクトなのだ。必要に応じて伸び縮みし、目的地まではクレーン車で運ばれるという。アームは最長で8.5m、高さは最高で3mにもなるという。

3Dプリンタのなかにはコンクリートを混ぜるためのミキサーが内蔵されていて、1台で1日あたり最大100平方メートルの建物を出力することが可能。ホームページによると、必要とする人員は事業管理をする人と材料供給をする人、合計2人だけなんだと。

インストールとセットアップにかかる時間は、だいたい30分。必要とする電力は電気ポット5台を同時に使用するのと同じ、800kw。回転式アームですいすい基礎から着工、内装外壁屋根のすべての製作を3Dプリンタが担当するらしい。

おおかた完成したら、今度は人間の出番。壁を塗り、屋根に耐久シートを張り、壁面に断熱材を注入。窓などを取り付け家具を入れたら、3Dプリンタハウスの完成!

こんな話はやはり俄かには信じがたいなぁ。



2018年4月29日日曜日

ナスカの地上絵が新たに多数発見


1000年以上も前に、ペルー南部の高原の砂漠に描かれたナスカの地上絵は、私たちの想像力を刺激してやまない。ナスカ周辺の砂漠には巨大な地上絵が1000点以上残されていて、雨乞いの儀式と関係があるのではないかと言われているが、確かなところはわかっていない。

このほど、ドローンを手にしたペルーの考古学者たちが、ナスカのすぐ隣のパルパで、地上からは見えない、かすかな線で描かれた地上絵を新たに50点以上発見した。さらに、地元の人々だけに知られていた地上絵をドローンで初めて調査し、これまでにない詳細な地図を作ったという。


新たに発見された地上絵のなかには、この地域で西暦200年~700年まで栄えたナスカ文化のものもあったが、その多くはもっと古く、紀元前500年~西暦200年のパラカス文化やトパラ文化のものと考えられている。 有名なナスカの地上絵は、大半が上空からしか見えないが、それより古いパラカスの地上絵は山腹に描かれていて、ふもとの村から見ることができる。二つの文化は、芸術的なテーマも違っている。ナスカの地上絵の多くが直線や幾何学図形であるのに対し、新たに発見されたパラカスの地上絵の多くは人間を描いているのだ。

この絵は漫画チックである
ナスカの地上絵が現在まで残っている理由がある。それは年がら年じゅう雨が降らない高地にあるためだという。今回新たに発見された絵は山肌に描かれたものがあるという。これだと地上の離れた位置から誰でも眺めることができる。


問題は上図のように上空からのみ見える絵は、果たして誰のために描かれたのか。この推理に興味が尽きないのである。
地上絵を描いている想像図
古代ペルー人は、地表の石を動かして線の縁を際立たせ、縁の間の土をかき取って下の白っぽい土を露出させるという方法で地上絵を作った。
描いた人間がどんな絵になっているか確認の方法がない。だから地球外生命がやって来たに違いないという説も捨てがたい。


ナスカの地上絵は想像が限りなく広がるのである。


2018年4月28日土曜日

88年前(昭和4年)の金沢駅発汽車時刻表

88年前の時刻表をネットで見つけた。それも汚れやしわもなく、極めて保存状態のいいものである。博物館でもこのような時刻表は保存されていないだろう。


北陸本線では上り下りそれぞれ12本の列車が運行している。上りの行き先は大阪と思いきや、明石、姫路、神戸、名古屋、米原、それに大聖寺行きが2本ある。
下りでは上野が2本、青森、新潟、富山が3本となっている。
往時の汽車の旅はどんなものだったのだろう。私が中学の修学旅行は関西方面だったが、金沢を朝方出発して京都に夕方到着したのだろうが、あまり記憶に残っていない。
その頃はまだ複線電化されていなくて、今庄から敦賀までスイッチバックをしながら急坂路を喘ぎながら登って行ったのだろう。

一方の七尾線はどうかというと、午前、午後各4本計8本が運行している。行き先は中島となっている。この時刻表のできる1年前の昭和3年に七尾・中島間が開業した。
昭和7年、穴水まで開通、その3年後の昭和10年、輪島まで全通した。

ついでだが、輪島まで全通した24年後、能登線穴水・鵜川間が開通した。能登線全通は昭和39年だった。だが、穴水・輪島間、穴水・蛸島間の線路は廃線になって久しい。
自動車に鉄道が駆逐されてしまったのである。北前船は鉄道に駆逐された歴史がある。

祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり、おごれるもの久しからず、盛者必衰の理を表わす・・・か。


2018年4月27日金曜日

ウチのハナミズキが満開

ウチの庭で春になると最初に咲く花は姫こぶし、次にウメ、アンズの花が目を楽しませてくれる。
今、咲き誇っているのがピンク色のハナミズキである。このハナミズキは植栽して20年なのだが、植えた当初は樹形が申し分が無かったが、日当たりの関係で低い枝の花が咲かなくなって、やたらひょろひょろと伸びて軒より上に花を咲かせるようになった。





ハナミズキが終わると次にヤマボウシが咲く。この花はまるで蝶が葉の上に止っているように見え、締めくくりとなる最後の花は夏椿。この花は一晩しか持たなくてすぐ地面にボタボタと落ちてしまう。だから写真を撮るチャンスがないのだ。
花を愛でるのは1年のうち3カ月だけの楽しみである。

2018年4月26日木曜日

川遊びする少年の姿は同世代

こんな写真が見ることができるなんて、ネット時代ならこそである。
その写真には大勢の子供たちが川遊びに興じている姿と、屋根に石ころが載った街並みが写っている。場所は主計町界隈の浅野川である。まず、ご覧あれ。

主計町地内の浅野川で遊ぶ少年たち
年代を推定すると終戦直後だと推定するのだが、道を歩行している男性は着物姿であることから、もう少し遡るのかも知れない。このあたりは水深が浅く、格好の遊び場だったのだろう。私の少年時代も近くの川に10時頃から正午近くまで遊んで昼飯を食べすぐ川に向かった。夕方近くまで素潜りを続けているため眼が霞んだものである。

今の主計町の佇まい
今でこそ東の茶屋街の街並みと主計町のそれは何ら遜色がないが、この時代は明らかに格差が大きかったのだと思う。
現在はどちらも観光客で溢れかえる街になった。


2018年4月25日水曜日

15年ぶりに再会した豪華客船

昨日の午前中のTVニュースを見ていたら、金沢港に豪華客船ダイヤモンド・プリンセスが入港したという映像が流れた。ダイヤモンド・プリンセスは平成15年に長崎に出張した際に、長崎港の三菱重工で建造中だった様子を目の当りにした。その船影を佐世保に向う船上から写した写真がある。

長崎で建造中のダイヤモンド・プリンセス
時は流れ、あれから15年、金沢港にその船がやって来たという。見たい!という欲求にかられ、みなと会館の駐車場に向かった。ところが、あたり一面が仮囲いで覆われており立ち入り禁止となっているではないか。会館の案内に「写真を撮りたいのだが、どこから入るのか」と聞いた。この埠頭にはいませんとつれない返答。「どこ?」と聞いたら「大浜埠頭だ」と。金沢港の一番奥の埠頭だと分かった。

雨の中、大野川の橋を渡り砂丘を登ると「石油基地」。ここは進入禁止なので直進。すると小松製作所の広大な工場があった。そこをなお直進し突き当たりを左折すると駐車場があった。駐車場には2,30台が駐車しており、次々と入って来た。駐車場の横から小高い場所があったので、そこに登ってみた。船首の前にクリーンが鎮座しているため、写真にならない。
クレーンが邪魔!
そこで船の傍まで行ける場所に行ってみることにした。400mくらい離れたところに受付が設けられていた。住所氏名電話番号を記入したところ、「身分証明書の提示をお願いします」と。免許証は駐車場まで取りに行かなければならない。かんべんして!とお願いしたらOKが出た。ガードマンが何人も配置されており、ものものしい警戒ぶりである。
50mほど歩くとようやく通路用のテントに入った。

船客のおもてなし
この圧倒的ボリューム
向こうに乗船口
このテントは見学者用
間もなく出航
こんな豪華客船での船旅は羨ましい限りだ。



何時かは乗ってみたい!だが、その夢は永遠に実現しないかも。
金沢港にはこんなに外国船がやって来るという。


6月に3,500人を乗せた船が入港するという。金沢港も有名になったものである。

2018年4月24日火曜日

国立工芸館の起工式

国の地方創生の一環で、東京から金沢に移転する東京国立近代美術館工芸館の起工式が今月8日、建設地の金沢市出羽町で開かれた。日本海側初の国立美術館として、2020年の東京五輪・パラリンピック期間中の開館を目指すという。

起工式
石川県によると工芸館は、県立美術館といしかわ赤レンガミュージアムの間の敷地に整備し、建物は旧陸軍第九師団司令部庁舎と金沢偕行社を移築・復元して活用する。
また、県では、移転に先駆けて機運を盛り上げるため、2017年から毎年、工芸館の所蔵品を展示する、「東京国立近代美術館工芸館名品展」を開催している。 



そのほか、5月には、移築に向けて現在解体中である、旧陸軍第九師団司令部庁舎と金沢偕行社の内部を見学できるツアーを開催するとしている。
今後、2020年東京オリンピック・パラリンピック開催期間中の開館を目指し、準備を進めるのだとか。 

起工式に出席した独立行政法人国立美術館の柳原正樹理事長は「日本全国、世界へ発信できる工芸の館になるようまい進していく」と話した。
おめおめとよくも起工式に出席できたなぁと思う。昨年、富山県庁で「金沢に移転する国立工芸館に誰が行くというのか」、「21世紀美術館の入場者数は入口と出口の人員を合計して発表している」とボロクソに石川県民・金沢市民を侮辱する発言をしたのである。後日発言の謝罪をしたというが、美術工芸館長という立場で県民を侮辱した発言は永久に忘れることができない。

2018年4月23日月曜日

元治さん、出番ですよ

昨日は4月の気温としては史上最高を更新した場所が全国各地であったという。金沢でも27°前後の真夏日となってとても暑かった。
新聞には能登の塩づくりが始まったと報じた。

国の重要無形民俗文化財「能登の揚浜式(あげはましき)製塩の技術」を継承する、珠洲市清水町の角花豊さん(70)の塩田で21日、今年の塩作り作業が始まった。快晴の空の下、角花さんが勢いよく「打桶(おちょけ)」を振るい、塩田全体に行き届くように海水をまいた。
「打桶」を使って海水をまく角花さん=珠洲市清水町
角花家では家族3人が塩づくりに携わっており、長男洋さん(43)と洋さんの妻祐子さん(43)も手伝った。角花さんの塩田は、3年前に放映されたNHK連続テレビ小説「まれ」のロケ地になっており、移動中に車を止めて作業に見入る観光客の姿も見られた。
元治さんもここで潮を撒いた

塩田にまいた海水は一晩乾燥させ、翌日、塩分が付着した砂を集める。砂を海水と混ぜて塩分濃度が高い「かん水」とし、釜で煮詰めると、まろやかさが特徴の天然塩が出来上がる。

洋さんによると、角花家は10月上旬まで、晴れの日を中心に100日ほど塩作りに励む。県内外から注文が舞い込んでいるが、人気のため在庫が無く、出荷は5月下旬~6月上旬ごろになるという。
角花さんは「この仕事は天候次第。先代から受け継いだ伝統を生かして良質な塩を作りたい」と話した。

この塩田の裏側に海があるのだが、潮汲み場が子供の海水浴場に最適なので、娘たちが2,3歳の頃から毎年そこで遊びながら泳ぎを覚えた。高校生くらいになると沖合の岩場に潜ってサザエを採るまでになった。大卒後、職場の同僚たちと雑談する中で「私、潜ってサザエ採るよ」といっても信じてもらえないと云っていた。

このすぐ隣に道の駅珠洲塩田村がある。町内シニアクラブがそこに訪れ、実際に体験等も楽しんだ。

町会長も担いでみた
潮汲みは中々の重労働なんだ・・・と
それにしても能登で作られる塩は独特の風味がある。品薄のため、現地の販売は一人二袋に限定されている。



2018年4月22日日曜日

能登鹿島駅の桜にまつわるエピソード

今年も能登鹿島駅の桜まつりが盛況だったようである。先日配付された県公報誌春季号の表紙にもこの駅の満開の桜が描かれている。


30年ほど前になるが、金沢駅西のビルに事務所を構えていた清算事業団金沢工事所に1年ほど勤務したのだが、業務は北陸本線や七尾線・能登線沿線の清算事業団に帰属した旧国鉄用地の更地化であった。能登鹿島駅にも清算事業団に帰属した用地があって、この駅の右側に隣接した旧国鉄宿舎跡地の更地化の工事監理業務を担当したのである。

駅のすぐ横を境界にホーム前まで線が引かれ、かなりの面積を有した区画になっていた。


この写真の位置でいうと、右端で円陣を組んだ花見客がいるあたりが境界線だった。
ところが、この区画内に老木だが桜の木が2本含まれていた。事業団としては更地化するにあたり樹木を伐採することになるのだが、地元にその旨の説明をしたところ、「絶対反対!」となった。その理由は、
「この木は坂本三十次先生のおばあ様がお手植えの木である。今日まで親しんできた木を伐採するとは何事か!絶対許せない!」。
そんな経緯を支社トップまで報告し、「やむを得ない。木を残すよう区画を変更しろ」という指示が下ったのである。


桜の名所能登鹿島駅にそんなエピソードがあるなんて、石川県人でもわからないだろうなぁ。

2018年4月21日土曜日

5日ぶりPC復旧

17日にパソコンを修理屋に持ち込んで修理を依頼したのだが、今日午後、修理完了の連絡があり早速受け取りに行ってきた。
店頭でスイッチオンし、作動状況を確認した。
1.Outlook作動OK
2.エクセル完全復旧
3.ウイルスバスターをアンインストール、KCTVの無料ソフトインストール
4.ランダム表示の広告ソフト等削除
5.ハードディスク診断結果→破損は認められない
6.ネット受信状況→良好

修理費は15,000円+5000円(KCTVアンチウイルスソフトインストール手間代)=20,000円
結果的に意外と安く直ったという感じである。
ただ残念なのは、メールアドレスが消えた、送信記録が消えた、受信記録も3月以前のものが消えた。

一時は「ファイルが破損しました、初期化しますか」と表示され、パニック状態だったが数時間後初期化したのだがoffice欠落、DVD不作動が確認されたので、悪戦苦闘の末これで全て復旧したと思ったのだが、Outlookがどうしても接続できなかったので修理専門店に救いを求めた。

修理屋のおやじ曰く、「ハードデスクは車のタイヤに例えると、使えば当然すり減る。いつかはパンクしてタイヤ交換が必要になるかもしれない。だが、このパソコンのHDDは今のところは壊れていない。」という診断であった。
明日中にはメールアドレスを作ってしまいたい。

2018年4月16日月曜日

やがて破損と予告あり

パソコン初期化の事後処理で丸二日過ぎた。最後に残ったOutlook2010の回復を何度となく試みても接続が不可だった。自分の知識ではお手上げ状態なので、精通されている人に相談してみることにした。
その人はブログで悪戦苦闘していることをアップしたのを見ておられたようで、電話すると「大変ですね」と陣中見舞いの言葉を頂いた。

大変厚かましいお願いなのだが、パソコンを集会所へ持っていくので見てほしいとお願いしたら快諾してもらった。
パソコン一式を抱えて集会所3Fで据え付け、メール接続のトライをしていただいたのだが、やはりダメだった。webメールのアクセス方法を伝授してもらったのだが、パスワード等の通知書がどこにあるか探さなければならない。

「いずれ、このパソコンのハードディスクは破損する。このタイプ(一体型)のPCは同様の不都合が多く発生している。早めにハードディスクを交換したした方がいい」と云われた。夕方、紹介された電気屋さんにPCの状況を説明したら、やはりやがてハードデスクが破損すると予告され、修理を依頼した場合は6,7万円はかかると宣告された。

その話の内容を集会所で見てもらった人に電話で伝えた。東芝製なので金沢サービスセンターで聞いてみるか、森山町のパソコン救急業にも相談してみなさい、とアドバイスをいただいた。
机の引き出しを入念に点検してプロバイダからの通知書を探した。結果、見つかったので早速アクセスにチャレンジした。繋がった!が、昨日と今日のメールのみ。どうでもいいメールが何と多いことか。肝心の添付書類を見たかったのだが、制限数を超えているため不可だった。

このパソコンを購入して6,7年過ぎた。ハードディスクはいつまで持ってくれるか?

2018年4月14日土曜日

ファイル破損→さぁどうする→初期化だぁ

昨日の朝の出来事なのだが、インターネットが接続できなくなって、何度も修復を試みたがダメだった。どうするか迷いあぐねていたが、ファイル復元しかないという思いに行きついた。
2カ月ほど前の復元ポイントがあったので、ポチッと押したが4時間も復元中という画面。おかしいなぁと思っていた矢先、「ファイルの復元に失敗しました。ファイルが破損しました、初期化しますか」という画面がでた。なんじゃこりゃ、このPCでは初期化はやったことがなかったので思案していたのだが、どうにも埒が開かないので初期化に踏み切ることにした。

個人的ファイルを残すという設定でポチッと。これもかなり長い時間がかかった。ようやく初期化に成功。だが、エクセル、ワード等のオフィスが無いではないか。
メールソフトもなくなってまたまた思案六法。そーか、オフィスのソフトがあったはずだ、それをインストールしようとソフトを隅々探しまくってようやく見つけ出した。Win7からバージョンアップのときは、こんなことは無かったのにと腹が立った。

ところが、である。DVDをプレーヤーに入れても作動しないではないか。ネットで調べるとWin10をインストールすると作動ソフトがないのがノーマルで動かないということが分かった。そのソフトを探したら殆どが有料、ようやく無料にたどり着いてインストールした。
そしてメニューのDVDという項目をポチッと。そうすると動いてくれて胸をなで下ろした。

ワードとエクセルを開いて動作を確認した。次にOutlook。これはまだ機能するまでに至っていない。

パソコンが壊れて動かなくなるということは、実に一大事件だということが身に染みた。
そんなわけで、昨日はブログをパスせざるを得なかった。   やれやれ

2018年4月12日木曜日

水芭蕉のある里

朝から雨模様で、あれっ、天気予報が外れた?と思っていたら10時を過ぎるころから青空が広がってきた。今日は学童下校ボランティアの当番日、11時50分の予定時間通り3人の新入生が同行の先生と一緒に帰って来た。先生に同行されるのはいつまでと聞いたら、今週までと答えられた。明日まで同行されるということである。新入生に学校は楽しい?と聞いたらウンと答えてくれた。

今年の町内の新入生は9人と昨年より5人も増えた。あと6人が来るのを待っていたら、ボランティアメンバーのある人が、「もう来ないよ」というので「何で」と聞いた。
答えは「学童に行った」と聞いて納得して当番を切り上げた。

午後1時半、予定どおりミズバショウを見に行くため家を出発した。私も連れてってと云われていたので途中一人を乗せて現地に向かった。
最高のドライブ日和であった。およそ20分くらい走って国道沿いに設置してある駐車場に車を止めた。既に数台の車が駐車していた。

人がぞろぞろ歩いている方向を見たら、ミズバショウの群生地が特定できた。


国道から斜路を降りて田んぼ道を30mほど進むと群生地に着いた。少し時期が遅れたのかなと思ったのだが、かなり花より葉が生い茂っていた。整備された観賞用歩道の終端まで歩き、花の香りが充満した空気がおいしかった。


葉が大きいかな?
水が滲み出てくる斜面にも群生していた
スケッチをしている人に「ここまで何時間かかりましたか?」と聞いたところ、「3時間くらいです」と答えられた。雰囲気の出ている水彩画だった。
日曜朝市の場所を見て、「まだ一度も来たことがないから、今度来てみよう」と同乗の女性と相槌を打った。

駐車場の少し登ったところにレストランがあったので、その駐車場で降りてコーヒーを飲もうと思ったのだが、「定休日」という札がかけられていた。Uターンして喫茶店に入ろうとキョロキョロしながらとうとう森本駅前に着いたのでコーヒーは断念した。
そういえば最近「喫茶店」が少なくなったと思った。
ようやく念願が叶ったいい日だった。

2018年4月11日水曜日

5時間待ちの診察

先週に医科大泌尿器科で受診した際に10日に予約となった日が昨日だったので、8時40分ごろ家を出発した。前日までの悪天候がうそのように青空が広がっていた。
総合受付をしてかなり離れたところにある泌尿器科の受付を終えて、診察室の前のイスに腰かけたのが9時10分。
イスが足りないくらい受診を待つ人、人、人。

前回の受診時に担当医師から「次回の受診はロボット執刀医の教授になります。教授の担当する患者が多いのでかなりお待ちしてもらうかも知れません」と予め聞いていた。
2時間後、担当医の受診室へ入室の案内表示があったので診察室に入った。
「この後、教授の診察になりますが、私が話したことと違ったことを云うかも知れませんが、ご承知ください。しばらく待合室でお待ちください」と云われて再び診察室前のイスに掛けた。
それからが長かった。12時、1時を回ってもまだ。2時半過ぎ、ようやく受診室へ入ることが出来た。

初対面の教授は物静かな学者タイプのように思えた。診察台に上がるよう指示され、腹部の触診があった。あらかじめ私のデータに目を通しておられたようで、再び「手術を受けられますか」と意思確認。yesと答えると、「泌尿器科のロボット治療は2年前からやるようになりました。手術は最先端の技術を要するので、大阪から医師を呼ぶことになります。また、医療器具の進歩が著しく、高価なのでリース品を使用している。現在、手術は予定で埋まっていて5月下旬か6月となります。大阪の医師の都合や機器のリースの関係もあるので、予定の目途が立ったら電話で連絡します」という話で受診は終わった。時計は3時を回っていた。そして、まだまだ待機の患者が多数いた。
それにしても、医師の休憩や昼食タイムはどうなっているのだろう。

さて、今日の朝刊に水芭蕉が見ごろを迎えたという記事が掲載された。


東原町に水芭蕉が咲くというのは数年前から知っていたのだが、いつも行かずじまいで終っていた。尾瀬まで出かけなくても車で20分ほどで行けるところである。
明日は晴れの予報なので、明日行ってみよう!

2018年4月10日火曜日

一昨日から気温が急低下

昨日も一日中荒れ模様となり、気温も低くなって冬に逆戻りしたようだった。
桜は思わぬ陽気でパッと咲いたが、満開間もなく強い風雨で散ってしまった。
キゴ山で道に迷った60歳の男性が凍死しているのが発見された。
金沢地方気象台によると、8日は強い寒気が流れ込み、最高気温は金沢9・3度、輪島9・5度と平年を5~6度下回った。山間部では雪が降り、金沢でみぞれを観測した。

金沢市の山間部に立地する医王山スポーツセンターでは、8日の強い冷え込みで降った雪がうっすらと残り、桜の木の下が白く染まった。

強い冷え込みで桜の木の下に積もった雪=9日午前8時20分
(北國新聞記事から)
町会の花見は日曜日としていたが、雨の予報もあって中止となった。先週の日曜日、ぼんぼりを張り巡らして準備万端ではあったがやむを得ない。
花見が中止となったことから、町会は先の豪雪で除雪に貢献された8名の皆さんの表彰式を執り行った。班長やシニアクラブ会長等が出席しお祝いした。

表彰式
町内に「おたすけ隊」が立ち上がって1周年を迎えた。そんなこともあって、除雪に協力される方が8人もあったということは素晴らしいことだと思う。


町会長から、元町会長という立場で来賓として祝辞を、と依頼されたのでお祝いの言葉を述べさせていただいた。
おたすけ隊の現状について22日にその模様をテレビで放送されるという。高齢化の地域に新しい試みとして全国発信されることはとても喜ばしいことである。

2018年4月9日月曜日

150年前、オーストリアの少年が写した日本の風景

2日前の読売新聞に、150年前(明治5年)にある少年が写したという日本の風景写真の銀板が発見され、8000万画素のデジタルカメラで撮影したところ、鮮明に蘇ったという記事が掲載された。
早速その写真を眺めた。
先ずは「お江戸日本橋七ツ立ち」と謳われる日本橋から


銀板写真の精度は驚きである。8000万画素のデジカメで撮影してその写真が復元されたという。
撮影した少年の写真も掲載された。
           日本滞在中の和服姿のミヒャエル・モーザー(1872年)

この少年は どの様な人物かというと、江戸から明治に変わって間もない1869年(明治2年)10月2日、横浜港に到着したオーストリア・ハンガリー帝国の軍艦フリードリヒ大公号に一人の少年が乗船していた。日本と修好通商条約を結ぶため派遣された使節団(東アジア遠征隊)に随行していた写真家ヴィルヘルム・ブルガーの助手で、ミヒャエル・モーザーという16歳のオーストリア人少年だったという


16歳と云えば藤井聡太君と同年代、やはり写真の才能はぴか一だったのだろう。
明治時代の写真を調べていたら面白いものが何枚かあった。

長崎造船所の工事写真
五代友厚所管の長崎造船所
ここが築地とは!
眉唾だが文政4年撮影の兼六園だと
正面は石川門に至る橋?
道路造成に埋め立てする以前の写真。この写真は見たことがあると記憶している。

金沢市電線路建設模様の写真は大正前期
いろいろ調べていて、古くはないが懐かしい写真があった。

ダイエーの駐車場

この駐車場はスロープが狭かった。壁に擦り傷の跡が沢山あったから多くの車が損傷しただろうと思ったものである。なくなってまだ10年くらいだろうか。この道路からバスが発着していて便利だったのになぁ。