2013年5月30日木曜日

青春時代の真ん中(その4)職場レクで大忙し

現場事務所(工事区)において、営業線に近接した工事を担当する者にとっては、工事施工による列車運転事故防止に細心の注意力が求められ、平日、休日、昼夜を問わず常につきまとう。このため、精神的疲労が蓄積していく。
その現場勤務から本局勤務になり、精神的な解放感に存分浸った。
昭和42年4月から昭和44年9月広島転勤までの2年半は吾が青春時代の真ん中、仕事は人並みにこなしながら余暇は人並みの倍以上活動し青春時代を謳歌した。
局内では各課対抗のテニス、卓球、野球、ソフト等の各種競技大会が開催され、選手として出場した。
岐阜県立球場で
バレーボール大会で優勝!
代表選手
冬はスキー大会・舟山スキー場
7月中旬から8月末まで「夏季鍛錬」と称して1週間に2回半休が付与された。
この期間だけ有効の雀荘割引券や長良川水泳場更衣室割引券が発行され、スキー山岳班による平湯キャンプ場が開設されて家族連れで賑わった。局内にはスキー山岳班のほか麻雀班、茶道班、生け花班、撞球班、野球部があり活発に活動していた。100人以上が参加する麻雀大会の情景は壮観であった。
敦賀松原海岸海水浴で
課の青年部まとめ役に祭り上げられたが、やるからには徹底して任務を果たそうと努力した。
岐阜市近郊へハイキングの引率
伊吹山へ青婦部のハイキング
彦根城、竹生島へ旅行会
土木課青年部で保古湖の天然スケート場へ
土木課青年部で三河湾旅行会
昭和42年頃から全国各地にボーリング場が開業した。時流に乗り遅れないように昼休みに岐阜駅前のボーリング場に通った。また、工事局サッカーチームが発足しユニフォームを揃えて長良川グラウンドへ練習に通った。だが、各務ヶ原自衛隊チーム等と試合をしたが、ついに1勝もあげられなかった。
秋には岐阜大学付属小学校のグラウンドを借用して局内運動会が開催され職員家族が1日を楽しんだ。
応援合戦で沸いた
勤務時間中に横断幕や応援グッズを製作しても、どこからもクレームはなかった良き時代だった。

2013年5月26日日曜日

青春時代の真ん中(その3)4回目の青春

私は日本人男性の健康寿命である70.4歳の今、24歳の出来事を振り返っている。当時の写真を見ていると、それなりに青春を謳歌していると思う。そして、わが青春に悔いはないと満足感を抱いた。
そんな時の23日、三浦雄一郎さんが世界最高峰のエベレスト登頂に成功し、世界最高齢者の記録を樹立したと報道された。
80歳の三浦さんは「4回目の20歳だ」と元気そのものである。
この快挙は高齢者にとって「自分もまだまだ何かやれるかも知れない」と若返りの秘訣を教わった方も多いだろう。私もそのうちの一人である。
登頂成功(ネットより)
今朝の朝日新聞「天声人語」に三浦さんにまつわる記事が掲載されていた。その記事に深く共感を覚えたので皆さんに紹介したい。

天声人語 朝日新聞H25.5.26
登った山からは下りなくてはならない。史上最高齢でのエベレスト登頂のあとの、三浦雄一郎さんの下山の苦闘を、続報記事がうかがわせる。無事に生還してこそ成功なのだと、自分に言い聞かせつつの一歩一歩だろう。細心と不屈に頭が下がる
▼頂(いただき)の栄光にくらべて、下りる行為は地味だが侮れない。事故はむしろ下山で起きている。東京への電話で、ご本人は「ふらふらで歩く幽霊みたい」と語ったそうだ。登ったら終わり、ではないから登山は厳しく、難しい
▼三浦さんは、若き冒険スキーヤーだったときにエベレストに惹(ひ)かれた。初登頂者ヒラリー卿の家を訪ね、飾られた写真を見てのことだ。「滑降したい」と言うと「クレージー」と笑われた
▼だが「やってみたらいい」と励まされた。「人間はいつだって不可能かもしれないことを超えてきた」と。三浦さんの信条である「目標を持って生きれば、わくわくできる」の源流だと、前にお聞きしたことがある
▼三浦さんはその後、エベレストを高所から滑降し、今回は自身3度目の頂を踏んだ。英国隊の初登頂から今年で60年。今は天界に昇ったヒラリー卿も、冒険心を失わぬ80歳のがんばりを見守ったことだろう
▼青春とは年齢ではなく、心のあり方だと言われる。似た意味で、高齢の人には三つのタイプがあるとも言われる。まだ若い人、昔は若かった人、そして一度も若かったことのない人。快挙に励まされて「まだまだ若い人」が世に増えそうな、明るい予感がする。   以上

この文章に、青春とは年齢ではなく、心のあり方だ・・・・・というくだりがある。
「まだまだ若い人」が世に増える一員に加わり、私もまだまだ青春を謳歌できるよう心掛ける決意を持った。

2013年5月25日土曜日

青春時代の真ん中(その2)

着任して間もないころ、岐阜祭りがあった。当時はおおらかな時代で、祭りの日は午後から勤務解放された。だが祭りを見に行く者は一人もいない。混まないうちにと雀荘へ走ったのである。
職場は日中各現場からの電話で喧噪の中で明け暮れた。
土木課には50名の職員で8つの係があり、係に2台の電話があった。あちこちの電話中の声でしばし会話が支障するくらい騒々しい職場環境であった。現代のようにメールができたなら静粛な職場風景だったに違いない。
庁舎内に食堂があった。だが、せいぜい50人ほどしか入れなかったので時間差で食事してもいいことになっていた。それを口実に11時30分になると食堂に急いだ。12時には食事が終わるので駅前周辺の喫茶店に行った。実質的な休憩時間は1時間半なのである。
三時の室内体操が終わるとあみだクジ。買い出しは誰か、金額はどれだけかとクジに注目し梯子の線上を辿る鉛筆の行方を見ながら歓声が上がった。
構内に床屋や物資部があって、一般の店舗より格安に商品が購入できた。そこで当番が茶菓子を購入して課に持ち帰って分配する。
勤務時間は5時までであったが、殆どの職員は2時間前後の超勤は当たり前に行なっていた。傍から見ていると中年層は生活給の足しにするためのように思われる人もあった。余談だが、庁舎内に床屋があって、勤務時間中に床屋に行っても何もお咎めはなかった。今から思えば良き時代だったのである。

連休が間近に迫ったある日、山陰方面へ旅行しないかという話が持ち上がって4人で行くことになった。
岐阜駅から夜行急行に乗り12時間かけて朝8時ころ小郡に到着した。そこからバスに乗り換え秋吉台に向かった。
秋芳洞で
広大な鍾乳洞とカルスト台地に感動した。
その日は湯本温泉に泊まる予定で観光案内所で旅館を紹介してほしいと頼んだが満員で不可。
7,8km離れたところなら宿泊可能ということで俵山温泉と聞いたことがなかった温泉に行くことになった。そこは湯治宿で粗末な旅館だった。近くに「摩羅観音」という祠があると聞いて見に行った。男性のシンボルが鎮座しており、湯治客が書いた安産の祈願札が何枚も掛けられていた。
翌日、仙崎に寄り、山陰本線出雲大社に向かった。縁結びの神様と聞いて、俺にも良いご縁に恵まれますようにと祈った。
出雲大社
出雲大社から日御碕灯台に行った。手の届くような近くの島に海猫の大群が羽根を休ませ、賑やかな鳴き声を上げていた。

日御碕灯台
再び出雲大社駅に戻り山陰本線で米子に向かった。宍道湖を左に見ながらやがて米子に到着した。米子から境線に乗り換え、境港へ。港は漁業基地として活気を帯びていた。そこからバスで美保関に向かった。関の五本松と民謡に歌われている五本松公園に寄ったが写真がないのでどのような場所であったか思い出せないのが残念に思う。
再び米子に戻り山陰本線で列車に乗り東郷湖に面した松崎で下車した。そこに松崎職員宿泊所が設けられていたので1泊した。
そんなに暑かったのかな?
翌日は鳥取砂丘に行った。日本一の砂丘だけあって、海が見えなければサハラ砂漠もかくのごとしかと思われるほどスケールが大きいのに驚いた。
広大な砂丘の風景

砂上にJNRと描いてから砂丘に登り撮影した
 砂丘見学のあと鳥取から城崎温泉にほど近い玄武洞駅に下車し、船で対岸に渡り玄武洞を見学した。
玄武洞
頭上に落下するかも
そこは人工的に積み上げたような6角形の石柱が何本も並んでいる不思議な場所であった。
再び駅に戻り列車で宮津に行き、天橋立を見物した。
ロープウエーで
天橋立で股覗き 絶景かな!


 その日は国鉄共済組合橋立荘に宿泊した。
翌日は一路岐阜へと向かった。車中泊1、その他3泊、4泊5日の楽しかった思い出が詰まっている山陰珍道中であった。
 

2013年5月23日木曜日

青春時代の真ん中(その1)

昭和42年4月初旬、約2年3か月過ごした中津川から3年ぶりに岐阜市に戻った。
職場は3年前と雰囲気ががらりと変わっていた。第三次長期計画により輸送力増強と合理化に向け設備投資額が驚異的に増加したのに伴い、昭和40年、昭和41年に新卒者が大量採用されたためであった。
この新規採用者を収容する独身寮も整備されていた。木造オンボロ寮にすし詰めされた生活が一変して場所も1kmほど西に変わっていた。
大黒寮新築概要
鉄筋コンクリート造5階建、全収容員数224名、1室2名二段ベッド、机、スタンド付、スチーム暖房完備であった。

正面、平面
入寮して間もなく自治会長を選出するため適任者を投票することになった。誰が仕組んだのか分からなかったが、どういう訳か私の投票が7票あって、これが何と最多得票なので自治会長をやれということになってしまった。早速、入寮者のために何かやらなければと考え、図書部を創設して数万円を投じて書籍を購入し貸出することにした。
昭和42年度の岐阜工事局所管工事
一方、岐阜工事局の工事量が中部地方一円に信越地方にまで拡大していた。
北陸本線では富山~直江津間の頸城等の長大トンネル、中央本線中津川~塩尻間、東海道本線静岡、浜松、名古屋駅近鉄線改良受託工事等のほか、信越本線、篠ノ井線、金沢車両基地も着工された。
私の当面の業務は本社提出用の中央本線洗馬・日出塩間の使用開始予報作成を急ぐよう指示された。
土木課で30歳未満が20名を数え、課の青年部責任者を選出することになった。ここでも私ともう一人が得票同数となって決選投票が行われた。自分自身一切望んだわけではなかったが、その責任者に祭り上げられた。
そんなこんなで私の青春時代の真ん中がスタートした。

2013年5月19日日曜日

中山道中津川宿(その12)スケートとスキー

24歳の誕生日が過ぎて間もなく昭和42年が明けた。
3日早朝、実家からバスで宇出津まで出て宇出津駅から金沢行き急行能登路に乗った。金沢駅から特急しらさぎで名古屋に。そこで中央線普通列車に乗り換えて午後11時過ぎ中津川駅に到着した。14時間の旅であった。
帰省時に忘れられないアクシデントがあった。名古屋駅から特急しらさぎに乗車した際、カメラを座席前のフックにぶら下げた。そして米原で進行方向が反対になって座席を回転して座りなおした。
家に帰ってカメラがないことに気付いた。米原でカメラをフックから外して掛け直さなかったのである。列車は帰省客で満員だったのでカメラはもう戻ってこないと諦めたが、一応、駅に忘れ物として届けた。翌日駅から電話があり、カメラが遺失物として保管されているので受け取りに来るようにと連絡があった。例のニコンSPである。これにはとても嬉しく思った。終着駅富山で降りる人がカメラを見つけて車掌に渡したのだろう。感謝感謝であった。
4日、御用始めのセレモニーがあって麻雀でその日が暮れた。そしてスキーに行こうと話が決まってスキー、ストック、靴、アノラックを買い揃えた。当時スキー靴だけで2万円もした。
1月中旬、先輩と二人で藪原スキー場に行くことになった。
藪原スキー場
スキー場に到着して滑降したが、何せゲレンデの踏み固まった雪面を滑るのが初体験。子供のころスキーはやったが、山スキーなので雪面はふわふわの状態であった。慣れるまで怖い思いをした。次の週も一人で出かけた。帰り際にゲレンデで他人とぶつかって転倒した。その衝撃でメガネが飛んで行った。随分探し回ったがメガネ本体はどうにか見つけたが、レンズ1枚が外れて見つからなかった。帰り道は不都合この上なかった。
2月にははるか遠方の赤倉まで一人で出かけた。
赤倉スキー場
この時もアクシデントがあった。レストランで昼食して店を出るとき、自分のストックが見当たらない。あるのは1本が雪止めの輪がないものであった。替えられたのであった。
しかたがないのでそれを持って出た。ところが、輪がないストックはズブズブと雪に沈んでしまい非常に危険な目にあった。そんなことで早々に帰ることにした。
当時はスキー愛好者が激増し、名古屋発夜行の急行赤倉はスキー客で超満員であった。
中津川上流にアイススケート場があった。夏は釣堀となっていた。生まれて初めてスケートをした。
廃業は何年前だろう
この冬はスキーとスケートに明け暮れた。そして4月1日付岐阜工事局土木課勤務の辞令が発せられた。


2013年5月18日土曜日

eメッセ金沢2013

平成25年5月16日から18日まで、石川県産業展示館においてeメッセ金沢2013が開催されました。
開催案内ポスター
千坂校下町会連合会では地域の連携を強化する目的で、金沢市の数多の町連にさきがけ昨年よりNPO法人ケーネット知楽市のご指導を受け町連ブログを開設しました。
ケーネット知楽市のブース
ケーネット知楽市では金沢e広見ブログシステムの普及を図るため、ブースを設け千坂校下町連のブログ利用状況等をモデルとして紹介していました。
その状況を視察するため、町連会長、並びに3名の副会長が昨日(17日)産業展示館に行ってきました。
PR資料
来訪者に説明中

 町連ブログアクセス数は70件/日となっていますが、世帯数からまだまだ伸びる余地があると考えられることから、投稿数を増やし一般住民の関心を高めるため今月15日、各町会からブログ担当者が集まり、講習会で投稿技術を学ぶこととなりました。
なお、講習会で危惧していた公民館のLAN設備が講習会までに整う見込みとなりました。
町連では、自主防災会主催の防災訓練において、安否確認をネットで実施する方向性を打ち出しブログの活用を図ることとしました。
このように、千坂校下の地域が一体となって情報技術を安全・快適な地域づくりに取り込む機運が高まってきたことは千坂校下の誇りです。各町会、諸団体のご支援とご協力をお願いいたします。
多くの来客で賑わっていた
e-messe2013 概要
「未来の技術がすぐそこに さわって、感じて、つぶやいて」
 
e-messe kanazawaは約5万人が参加する日本海側で最大のIT関連のビジネス展示会です。
今回で28回目を迎え、サービス業・食品・繊維・鉄工・教育・建設などさまざまな業種の
方がご来場。北陸地区での営業展開を検討中の企業の皆様、是非ご出展下さい!
 
28 いしかわ情報システムフェア ~ICTビジネスマーケット~
e-messe kanazawa 2013
 
開催日:平成25516日(木)~518日(土)  10001700
 
会 場:石川県産業展示館1号館
     石川県金沢市袋畠町南193(西部緑地公園内)

2013年5月14日火曜日

中山道中津川宿(その11)土木屋憧れの黒四ダムへ

木曽駒登山の疲れが取れた1週間後、工事区全職員でキャンプに行くことになった。
行先は付知峡といわれる名勝地の夕森公園キャンプ場である。
夕森公園キャンプ場位置図
車でおよそ1時間30分で公園内バンガローに到着した。このすぐそばに名勝「竜神の滝」がある。
もう一度行ってみたい風光明媚な場所であった。

竜神の滝傍のキャンプ場で

滝の前で
飲みながら食べながらのコミュニケーション
職場や寮では聞けなかった仕事の話、家族の話、趣味の話などで楽しい時間が流れた。
そして、土木屋なら一度は携わりたい大プロジェクト「黒四ダム」を見に行こうと話が決まった。
それが実現したのは晩秋の10月末であった。
 
松本城を見学して美ケ原高原に向かった。美ケ原高原までの道路沿いに連なる白樺の、ペンキを塗ったような樹皮が青空に映えて素晴らしい景色であった。
当時は十分に整備されていなかったが高原の雰囲気は最高
その日は松本城近くの浅間温泉に宿泊した。
翌日、大町で下車し扇沢に向かった。そこからトロリーバスでトンネルに入り、バスガイドから破砕帯に遭遇し莫大な経費を費やしたことなどの説明を聞いた。
現在の扇沢バスターミナル
トンネルを抜けるとそこは別世界。いきなり立山連峰の真っただ中に出た。その景色の迫力に息を飲んだ。

間もなく厳冬が訪れるダムサイト付近からの眺め
トンネル出口付近で

展望台から
点検通路で
黒四ダムの完成は昭和35年、私が高3のとき高校の文化祭で黒四建設記録映画を見た。
厳しい環境の中で建設された、土木事業のビッグプロジェクトに自分も参画したいと思った。
後年、石原裕次郎の「黒部の太陽」を見て、難航したトンネルの貫通シーンで、裕次郎のセリフ「あれが黒部の風だ」が忘れることができない。その短いセリフに土木屋としての事を成し遂げた達成感がこもっている。黒四に行った8年後、裕次郎のセリフを呟く機会に恵まれることになる。
映画「黒部の太陽」

その40年後(H18.9)に再び黒四の地を踏んだ
ダムに立ち、40年前に感動した風景を眺め、わが人生最高!と心の中で叫んだ。


2013年5月12日日曜日

青少年健全育成協議会主催の「竹の子堀り体験学習」

本日(5/12)、千坂校下青少年健全育成協議会主催の竹の子掘り体験学習の行事が開催されました。
参加者は小学生男女27名、父兄4名、千坂小学校々長、教頭ほか先生方、協議会々長(公民館長)、公民館主事のほか、ボランティアスタッフ10名、竹の子採取地所有者ご兄妹の総勢50名でした。
午前9時30分、公民館前から児童を乗せたマナビー号が出発し、朝日町の竹の子採取地に向かいました。
たけのこ採取地位置図
パステルカラーの新緑が朝日を浴びて輝き、里山は陽春に満ち溢れていました。
竹の子掘りにもってこいの日和になりました。

土地所有者から竹の子堀の方法等を説明
千坂校下在住の土地所有者が、数年以上も健全育成協議会にご理解とご協力をいただいて今年も開催されました。前日から竹の子のほか山菜を採取されて、調理用に提供もされています。

これ掘ったよー
竹藪付近に山藤満開
収穫はかくも沢山

収穫を終え参加者は約1km先の上平(うわだいら)地区の旧上平小学校に向かいました。
平成10年3月廃校になった旧上平小学校へ
旧校舎は現在も地域のコミュニティ施設として利用されている。その佇まいは郷愁を呼び起こすのに余りあるものがあった。
グラウンドの維持管理も行き届いていた
校舎から松ヶ枝城祉が望める
スタッフの皆さんが準備された山菜の珍味
昼食会の前に「人権」に関する絵本の朗読が行われた
さあみんなで食べましょう
昼食後、体験レポート提出が義務付けられた
帰りに収穫品が全員に配布された
楽しい体験を存分に味わって「さー帰ろう!」
このような行事を継続している千坂校下は市内でも珍しいと思われます。行事を実施するためには大勢のボランティア協力者がなければできません。土地所有者を含め、ご協力いただいた皆様に心から御礼申し上げます。
                                 千坂校下青少年健全育成協議会長