2013年7月9日火曜日

青春時代の真ん中(最終章)

岐阜工事局では毎年御用始めの式典後、各課ごとに新館2階会議室で記念写真を撮影した。
昭和43年1月4日土木課一同
昭和43年といえばこの年12月に発生した3億円強奪事件が強烈な印象として残っている。犯人は当時の私たちと同世代である。当時、国分寺市にあった中央鉄道学園に入園していた人の話によると、犯行現場である東京府中市に至近距離の位置関係であったことから、在学生全員が厳しい事情聴取を受けた。
このころから学生運動が過激化してきた。東大では翌年の入試を中止すると発表した。
労働運動も全盛時代を迎え、泣く子もだまるといわれるほど総評の勢力が強大となっていた。
明るいニュースでは、日本南極点踏査旅行隊が南極点に到達し、アメリカ初の有人宇宙船「アポロ8号」打上げ。翌年の月面着陸の着陸地点の調査などを行なった。
国民総生産(GNP)が自由世界2位に浮上して、ジャパンアズナンバーワンに向かってひたすら走った。
 
ヨンサントオを合言葉に尻に鞭を当てられ、合理化の先兵として就労した国鉄技術陣の努力により、ダイヤ改正を可能にした基盤整備により白紙ダイヤ改正が実施された。

それまでの国鉄路線は東海道本線と山陽本線を除けば、幹線といえどもほとんどが単線、かつ非電化であった。また軌道の整備・強化が不十分であり、列車の最高速度も 100 km/h 未満に留まっていた。
日本においては、第二次世界大戦後4回目(S23・S25・S36に次ぐ)の白紙ダイヤ改正に当たる。増発列車キロ数はこの前回の白紙ダイヤ改正である昭和36年10月改正(通称「サンロクトオ」)よりやや少なかったが、無煙化(蒸気機関車廃止)の促進や、全国的な高速列車網の整備など、その後の国鉄の全国輸送体系、ひいては現在に至るJR列車群の基礎を作った画期的な内容であった。

しかし、これが要因となって国鉄財政の悪化が進んだ。
第3次長期計画は3兆円近い膨大な金額の設備投資を伴う計画であった。当時赤字に陥り始めていた国鉄は、対策としてまず運賃値上げを予定し、さらに政府出資や財政投融資等の増額、市町村納付金の減免を要請した。しかし運賃値上げは1年延期され、その他の出資・資金繰りについても政府出資金40億円(国鉄が要請した金額の1/100)が認められたに過ぎなかった。結果国鉄の経営は著しく悪化し、その後の自動車と航空機の台頭による競争の激化を受けて、国鉄財政の破綻を招来することになった。

一方、新大阪まで開業した新幹線関係では、「ひかりは西へ」という大号令が発せられ、岡山までの建設工事が着手された。これに伴い、大阪新幹線工事局が新設され、岐阜工事局職員も20数名が転勤した。私も手を上げたかったが、親から「そろそろ身を固めろ」とうるさく言われるようになって転勤に躊躇した。
昭和44年1月4日土木課一同
昭和44年が明けて間もなく、親が水面下で画策した縁談がまとまり、それに同意した。
3月11日、実家で挙式した。
挙式後披露宴会場へ
披露宴
挙式後、和倉で1泊し翌朝時ならぬ大雪に仰天。積雪は20cmを超え列車が大幅に遅延した。
伊丹空港に出発ぎりぎりに到着してYS11に搭乗し松山空港に向かった。
道後温泉、足摺岬、高知、高松と順に巡り、高松から関西汽船で大阪港へ。大阪から夜行で金沢に到着し七尾線経由宇出津から柳田に戻った。
新居は宿舎代用として国鉄が民間借用したアパートに入居した。6畳と3畳の2間、風呂なしの極めて狭い新居ながら、新婚生活には十分であった。
庁舎から自転車で数分、昼食はアパートまで毎日通った。
このころから岡山・広島県内の山陽新幹線建設のため広島新幹線工事局設置の計画が明らかになった。岐阜工事局と下関工事局から要員を確保する話が組合に提示され、組合は広域配転絶対反対と狼煙を上げた。3月から超過勤務協定破棄として結束した。副青年部長に担がれ抜け駆けの超勤業務者を説得してまわった。
新婚生活者としては超勤手当のない給与での生活は余裕がなかった。給料袋の中を見た女房は「これだけ?」と問うた。「しばらくそれなりで生活せざるを得ない」と説得した。
そんな中、結婚祝いとして120名にも上る職員からお祝い金をいただいた。またあるグループからお祝いとしてテレビをプレゼントしてくれた。
8月、新幹線要員募集が行われた。いつかはこの手で新幹線をという思いは持ち続けていたのでそれに応じることにした。10月1日、「広島新幹線工事局勤務を命ずる」という辞令を受けた。
50年3月まで地獄の業務が待ち受けているとはつゆ知らずにであった。