2017年2月28日火曜日

東京漫歩(その6)神宮の杜・竹下通り・渋谷界隈

6週間の研修期間中は土日のほか休日もあった。購入したガイドブックの地図に歩いたルートを赤鉛筆で記したので、ページが賑やかに彩られてきた。だが、歩きたいところはまだまだ残っている。
研修も半ばを過ぎたのでやむを得ずルートを絞ることにした。

東京散策はかなりの回数に上ったが、傘をさして歩いた記憶がない。9月下旬から11月初旬だったこともあって、気候が安定している時期が幸いした。

さて、この週は原宿駅から明治神宮や竹下通り、それに東郷神社を回り、渋谷駅周辺を散策することにした。
原宿駅裏手側に明治神宮の参道入り口がある。本殿までとても遠く感じる参道である。入り口から2,300mくらいの左側に神宮の杜入り口がある。ここはどういう訳か有料ゾーンであった。
そこに入ってみることにした。武蔵野の原生林を歩くような細い道はとても都心とは思えない。
やがて視界が広がり池と芝生の広場となった。
原宿駅

神宮の杜
広場の隅に案内板があった。清正井→と記されていたので行ってみることにした。細い道を10分ほど歩いただろうか。そこには加藤清正が掘ったという井戸があった。掘ったというよりも囲ったという程度のものであった。
清正井
本当に清正が掘った?と思いながらそこを去った。
本殿に参拝し竹下通りを目指した。竹の子族が出没したところだけあって人混みが凄い。細い路地に向かい合って、衣料品店等がずらりとひしめいていた。
竹下通り
そこを後にして東郷神社に向かった。神社の入り口に何やら人の列。?と思って前に進むと受付テーブルが置かれ次々と名簿にチェックマークが。テーブルの前に紙が垂れ下がっていた。そこには「伊〇〇号乗組員親睦会」と書かれてあった。どおりで年配者が多いのだと納得した。戦後45年であった当時、まだこんな懇親会が開かれていることに感心しきりであった。
再び駅前に出て代々木公園へ。ここは広場に行って直ぐUターンした。NHKホールが道のすぐそば。奥まったところにNHK本館があった。

渋谷まで約1.2kmを歩き、駅裏手の忠犬ハチ公像を見に行った。主人が亡くなってからも10年以上も駅まで出迎えに通ったという。東大構内にその主人とハチ公像が今年新しく設置されたという。ハチ公の人気の衰えはない。

広場から道玄坂の入り口が見えたのでそこを歩くことにした。かなりのきつい勾配の坂道に連なる建物はなかなか雰囲気がいいものであった。


そして駅前へ。ここのスクランブル交差点はTVでお馴染みの所である。

道路上を横断している通路が目に入ったのでそこを歩くことにした。駅側から入り通り抜けるとデパートに。東急が経営する「渋谷ヒカリエ」と名がついている。
デパートを徘徊して帰路についた。

2017年2月27日月曜日

東京漫歩(その5)お茶の水~湯島聖堂~~神保町~水道橋

今回は池袋から地下鉄に乗りお茶の水で下車した。
お茶の水のホームから地上に出るには長い長いエスカレーターに乗らなければならない。
お茶の水のエスカ
駅を出ると堀の上。橋を渡りすぐ右に曲がると階段がある。行先は湯島聖堂。階段を降りてしばらく歩くと湯島聖堂の山門に至る。
東京観光の場合、この湯島聖堂は大抵コース外となっている。しかし、我なりに訪れて見る価値は十分と考えた。


構内の孔子像
ここは幕府直轄の学問所だったところで、今でいうと東大に相当する場所か。5代将軍徳川綱吉が創建したもので、孔子廟や神農廟、平昌坂学問所がある。
山門をくぐるとコの字型に建物が配置されている。中国・西安に碑林という論語などを石に掘ってずらりと並べてあるところがあるが、雰囲気的にはそれに近いものがある。科挙の受験には数えきれないその石碑に墨を塗って拓本をとり辞書代わりにしたという。
綱吉公はそれにあやかってこういう施設を設けたのだろうと推測するのだが・・・・。

まっすぐ北に1kmほど歩くと湯島天神だ。お蔦、力の物語が有名。そこからUターンして次に向かったのはかなり距離があるが、ニコライ堂を右に見て町ぐるみ古書店街といわれる神保町へ。
どの本屋さんもお客はそこそこいるのである。特に買いたい本があるわけではなかったが、いずれ必要な本を買う場合もあろうかと下見をした。
古書店街
歩き疲れで空腹感を覚え、近くの吉野家に入り腹ごしらえをした。水道橋駅まで歩き電車で帰ることにした。

2017年2月26日日曜日

東京漫歩(その4)現場研修

休日てくてく歩きは3回目を数え、研修期間も半ばを過ぎた。
その間、業務の研修では幕張地区開発とみなとみらい21の現場見学が実施された。

京葉線海浜幕張駅を降りるとすぐ、広大な開発工事中のエリアが眼に飛び込んだ。ペデストリアンデッキが張り巡らされ、新しい都市づくりはこうなるのかと目を見張った。
広大な開発エリアの中でポツンと既に完成しているビルがあった。そのビルは幕張テクノガーデンだが、荒野の中にそれは際立って聳え立っていた。完成して5年目となったそのビルで開発プロジェクトの説明を聞いた。

バブル絶頂期のこの時期、千葉県は海を浚渫し海浜を埋めて土地造成し、そこに幕張新都心を計画していた。分譲予定地は飛ぶように売却できたようだ。千葉県職員の説明では、「笑いが止まらない」ほど儲かった時期の最中なのだ。サンドポンプで吸い上げた砂をばら撒くだけで高級分譲地になるんだ!
そのビルを出て京葉線の下をくぐり抜け、幕張メッセを見学した。べらぼうな大きさに舌を巻いた。
どこかの企業が社内運動会をやっていたが、運動会は床面積の半分に過ぎなかった。

幕張新都心
みなとみらい21の見学では、桜木町駅を降りてすぐ、ここもペデストリアンデッキが出来上がっていた。ランドマークタワーは半分ほど立ち上がっており、スケールの大きさに呆然と見惚れた。
だが、そこから海岸までは埋め立てたままの状態で、国際コンベンションセンターが完成していたのみで、造成地の大半は荒涼とした風景が広がっていた。
本当にこの大規模で夢のような開発計画が実現するのかと疑問に思ったものである。馬鹿げた計画!と思ったほどだ。
その片隅に奇妙な建物の工事が進められていた。聞いてみるとヨットをイメージしたホテルなんだとか。日建設計が工事監理をしていたので、その事務所で説明を聞いてから工事現場に案内された。ハの字の先端部分はバスルーム。1泊15万円を予定しているそうな。風呂につかりながら横浜ハーバーを眺める、何と贅沢なことだろう。
MM21の位置図
25年後の今
今からもう10年もたったのだが、再び現地に行く機会を得た。あちこちにビルが林立し、地下鉄も開業し大いに活気づいていた。本当にできるのか?と心配したことが杞憂に終わった。


2017年2月25日土曜日

東京漫歩(その3)新宿御苑から日本青年館・迎賓館界隈

研修センターでは、札幌ビール工場開発プロジェクトや恵比寿地区開発プロジェクトの研修講義で、現在地が開発でどのように変化するのかをCGで見せてくれる研修があった。建物の外観、内装仕上がりの姿が手に取るように示した動画CGであった。
開発計画図を見ても完成すると建物群がどのようになるのか全体像を掴むのが難しい。だが、CGだと空間構成はもちろん、ドローンで撮影したかのような動画で現場にいるような疑似体験ができるのである。
首都高速道を走行する風景の移り変わりと計画地までの風景、そして完成後の現地の姿をスクリーンに映し出された。このCG作成は大成建設のスタッフが講義に間に合わせるため、1週間も不眠不休で作成したのだとか。
便利な時代になったものだと感心しながら見入った。

さて、池袋、巣鴨周辺に続いて、今回は新宿駅~新宿御苑~国立競技場~赤坂迎賓館~東京駅まで歩いた記録である。

新宿駅から数百米ほど歩くと新宿御苑に至る。この公園は六義園のような日本庭園ではなく西洋式に作られている。

子どもと一緒に遊んでいる家族の姿が多かった。新宿門から入場し千駄ヶ谷門まで、立ち止まることなく速足で通り過ぎた。
しばらく歩くと左手に今はもうその姿はないが、すり鉢状の国立競技場を眺め、東京オリンピックで聖火を高々と掲げ点火した様子を思い起こしながら進むと、右手に日本青年館が現れる。


20代の頃、広島で「青年の意見発表会」という催しがあった。主催者は国鉄当局。そこで応募することを決意し、論文を書いて提出したところ、何と何と「最優秀賞」を受賞した。そして全国大会の選考のため論文が本社に送付されたが、発表者が20名限定という激戦で落とされ、発表の幕が閉じられた。しかし、そのご褒美として日本青年館で全国大会の発表会があるので傍聴して来いとなって訪れたところなので、立ち止まって往時を懐かしく思い出した。

神宮球場の前を通り抜けた。この辺りはイチョウの並木道となっており快適に歩くことができた。
道なりに歩いていくと、左手に赤坂御用邸の広大な敷地となり、土塀が延々と続くではないか。
単調な景色が続くので疲れが出始めたが、ようやく赤坂見附。そこを左にまわり込むと迎賓館前に出る。正門はいかめしくも美しい鋼製のゲート。その鉄格子の間から迎賓館を見ることができた。ベルバラに出てくるような外観は本当に素晴らしいものであった。

そこから少し戻って半蔵門前に出た。そこから堀に沿って左に折れ1kmほどあるくと左手に趣きのあるレンガ造りの建物が見える。旧近衛師団司令部があった庁舎である。現在は東京国立近代美術館工芸館となっている。

国の機関を地方分散するという政策が進められているが、その一環としてこれを金沢に移転するという。残念ながら建物そっくりというわけにはいかないようだ。県立美術館と歴史博物館の中間にその施設が計画されている。
ここから大手町を通り東京駅に向かったが、少し歩き過ぎたかな。




2017年2月24日金曜日

東京漫歩(その2)巣鴨界隈

池袋界隈を歩き回った次の週は、池袋駅から山手線2つ目の駅である巣鴨駅周辺を探索することにした。
巣鴨といえば「おばあちゃんの原宿」と呼ばれる巣鴨商店街と「とげぬき地蔵」だ。
商店街の入り口は駅前広場からすぐの位置にある。


巣鴨商店街入り口
商店街の店舗に並べられている商品は半世紀前に遡ったような何だか田舎くさい感じの品物がずらりと並べてあった。赤色のパンティーが所狭しと吊りさげられている不思議な光景が続くのだ。行き交う人たちもここは異色。ちらほらのお爺ちゃんに交じって圧倒的におばあちゃんが多いのである。なるほどおばあちゃんの原宿といわれる所以が解った。
何でそうなのか?
そのわけは高岩寺のとげぬき地蔵にあった。体の痛いところを地蔵さんのその部分を洗うと痛みが取れるという御利益がある人気スポット。
高岩寺入り口

私が訪れた時のお地蔵さんと大幅にイメージが変わった今のお地蔵さんがこれ。お地蔵さんではなく観音様のイメージ。
確か御影石造のお地蔵さんだったように思うが、調べてみると平成4年に新調されたようなのだ。
この地を訪れたのも平成4年。おそらくその年の年末に建て替えられたと想像する。研修にはカメラを持参していなかったので自分が撮った写真がないのが悔やまれる。

高岩寺から400mほど北に歩いて本妙寺に向かった。明暦の大火の火元とされるお寺なのだが、文献によると火元身代わり説が有力らしい。真実は向かい側の老中屋敷が火元らしいのだ。
江戸の大半を焼き尽くした火元が老中屋敷では幕府のメンツが立たない。それで火元をお寺になすり付けた。後日、このお寺はそれ以降、幕府の手厚い保護があったそうだ。
本妙寺山門
なぜこのお寺に興味を持ったか。それというのもガイドブックには江戸時代の有名な人達のお墓があると記されていたからである。遠山の金さん、千葉周作、歴代本因坊等々。

だが、なぜこれだけの著名人の墓が集積しているのか、その理由はわからなかった。

最後に訪れたのは巣鴨駅近くの南側にある六義園。


この庭園は元禄8年(1695年)、五代将軍・徳川綱吉より下屋敷として与えられ た駒込の地に、柳沢吉保自ら設計、指揮し、平坦な武蔵野の一隅に池を掘り、山を築き、7年の歳月をかけて「回遊式築山泉水庭園」を造り上げた。面積は8.8haと広大。
六義園は吉保の文学的造詣の深さを反映した繊細で温和な日本庭園といわれ、 庭園の名称は中国の古い漢詩集である「毛詩」の「詩の六義」、すなわち風・賦・比・興・雅・頌という分類法を、紀貫之が転用した和歌の「六体」に由来するのだとか。
六といえば兼六園。どちらも名園ではある。
歩いていると妙になじみ深い景色があった。そこはその筈、「暴れん坊将軍」のロケ地だったのだ。
都心の喧騒をよそに、このような広大な庭園がたたずんでいることが奇跡のように思われ、元禄時代から今に至るまでその庭園があるなんて、何と素晴らしいことだろう!



2017年2月23日木曜日

東京漫歩(その1)池袋界隈

研修センターからJRに乗る場合、至近距離にあるのは池袋駅である。
池袋駅は西部・東部・地下鉄・山の手・埼京線が輻輳する、東京でも最も混雑する駅の一つだ。メトロポリタンと建物がくっついていて、1度や2度行っても方向感覚がつかめず自分がどこにいるのか見当がつかない。
ラッシュアワーが過ぎても、地下へ向かう人、地下から上がってくる人、私鉄各線からの人々、JRの乗降客でコンコースは人々で溢れる。東京駅も多いが、人の流れが整然としているのに反して、池袋駅はごちゃごちゃな動きなのだ。そんな人込みの中にいると息苦しさを覚える。東京暮らしは私には馴染まないと思った。

池袋駅界隈といえば先ずかつて東洋一と謳われたサンシャインビルに行ってみることにした。
このビルは東京都庁ができるまで日本一を誇った。60階の展望台は東京タワーを凌いでいる。

サンシャインビル
ビルができる前は巣鴨プリズンがあった場所で、東京裁判の戦犯が処刑された場所でもある。
だが、今はそんな片鱗はどこにも見当たらない。
ビルに入ってしまえば、普通の商業施設があるだけで何の変哲もないところだった。

次に向かったのは「アムラックス」と呼ばれたトヨタショールーム。
2階に球形の劇場があった。らせん階段を登って映画を見ることにした。恐竜が現れるシーンではドシドシと恐竜が歩くシーンで、椅子が振動する仕掛けが施してあった。お花畑のシーンでは花の香りが漂う。これには大いに感動した。
だが、3年前に閉館したという。
もう一度いきたかったのになぁ・・・と残念に思う。

この日、最後に寄ってみたのは東急ハンズ池袋店。金沢では売っていないものがあっちこっちにずらり。例えばありとあらゆる模型の材料。鉄道模型の豊富な品種が揃っているのに感心して眺めた。

そろそろ帰り支度の時間となった。

2017年2月22日水曜日

50にして「大規模都市開発の研修」を受けろ!

人間50年 化天のうちをくらぶれば・・・と舞った信長だが、この年50となる平成4年、それまで主として事業団所有地の更地化に関する業務をしていたが、新たに開発企画課へ転属となった。都市再開発事業、土地区画整理事業等の担当部署である。とはいえ、最初に手掛けることになった仕事は南方貨物線大府~名古屋ターミナル間の更地化工事費の算定業務であった。

東海道本線を客貨分離するため10年以上も前から着工され、一部区間を除き高架橋や中川運河橋りょうなど4kmが完成していた。それを更地化するにはどれだけ費用がかかるか至急算定しろと本社指令が降りた。

完成している高架橋や橋りょうをどのようにして撤去するか・・・、区間は住宅密集地であるため爆破というわけにはいかない。建築物や構造物の撤去に関する資料を集め、ワイヤソーで切断する工法で算定することにした。いうなれば、チェンソーの大型機械化したものである。
結局、極めて高額な費用となった。隣の係では、天竜浜名湖から飯田までを結ぶ佐久間線の撤去工事費の算定に取り組んでいた。道路網の整備と車の普及で貨物が激減、旅客も激減したため、計画線の建設にストップがかかり、とうとう撤去することになった。そしてその土地は建造物を含めて清算事業団に移管された。南方貨物線は国鉄分割民営化直前まで建設していたのだ。

撤去費算定業務に続いては、岐阜駅貨物ヤード、千種葵宿舎跡地の土地区画整理事業計画に首を突っ込むことになった。
換地計画という作業がある。従前地と従後地の計算プロセスが極めて重要である。要するに減歩率が適正かどうかをそれで判定するのだ。本社担当者への説明はいうまでもない。書類をかかえて東京駅北口横断歩道を何往復したか・・・・・。

そうこうしているうちに、研修に行けと業務命令が出た。研修センターは板橋。池袋から東部東上線3つ目で下車。そこから徒歩10分に研修センターがあった。独身寮を急遽改築して研修所としたところだった。

研修期間は6週間。金沢まで毎週帰宅するには余りにも交通費がかかりすぎるので、帰らないことに決めた。そして、その休日は徒歩で東京を探索することにした。ガイドブックを購入し、徒歩ルートを検討した。
歩いて見ると今まで知らなかった東京を知ることができ、驚きと新たな発見があった。
その記憶を何回かに分けて辿りたい。

2017年2月21日火曜日

驚嘆!山下画伯の絵

以前、名古屋市のあるデパートで山下清画伯の絵画展覧会があったのでそれを見に行った。
30数点が展示された作品の中で最も注目した絵が「長岡の花火」であった。
そしてあることに気付いた。
花火を楽しむおびただしい観客数と、打ち上げられて大空いっぱいに広がる7つの大輪の花火が描かれていた。。
その絵は絵具ではなく貼り絵だったのである。
この絵を仕上げるのにどれだけの時間がかかったのだろう。
集中力と根気に驚嘆し、一生懸命に制作に励む姿を想像した。
5色の色紙を切り刻んで絶妙な色合いを表現していた。
切り絵?貼り絵?
テレビドラマの芦屋雁之助演ずる山下清は本人を彷彿させる適役だったことを思い出した。

2017年2月20日月曜日

強い責任感がやがて精神を蝕み過労死に至る

入社して僅か1年の女性社員が過労死したことは、労基局が調査に入って初めて明らかになった。電通のみならず、全国津々浦々のどこの事業所でも日常茶飯事に行われている長時間労働の実態だといっても過言ではない。

女性社員は一睡もしないで仕事を続けた日もあったという。
「これを〇〇日までに仕上げてもらいたい」。上司からこんな言葉が発せられたのだろう。そして、その仕事をやり遂げるためには、膨大な時間が必要と考えたからこそ懸命に取り組んだ。仕事を任された責任感が強ければ強いほど懸命になる。途中で見通しがつかなくなっても相談相手はいないのだ。自分がやらなければ誰がやる・・・、こんな状況が続くとやがて精神状態が普通でなくなってくる。
昭和47年から3年余り、私は新幹線建設の現場事務所に勤務した。その3年間の休日は年末年始と5月の連休の休暇のみ。それも毎日深夜1時か2時に帰宅し翌朝8時半には出勤するパターンが続いた。これは上司の指示ではない。そうせざるを得ない環境にあった。
国鉄職員といえば駅員、あるいは機関士、車掌が大多数だが、この人たちは超勤することはない。交代要員があるからだ。
だが、非現業の人間はその埒外にあった。
工事区といわれる現場事務所に10名ほどの職員が、それぞれ区域を分担して業務を消化していた。私の担当した工区は3工区という延長500mほどの高架橋区間と、2,300mのトンネル工区であった。上司である助役と3つ若い職員と3人のチームであった。

高架橋区間では当初の設計では基礎杭は既成PC杭であったが地質調査結果と現場が異なり、地下1,2mで転石がごろごろでくい打ちが施工不可能となった。
そのためベノト工法という場所打ち杭に変更しなければならなくなった。工事発注そのものが地元の反対運動で遅れに遅れていた。スパン割の見直しから始めなければならなかった。おまけに高架橋の幅員を40cm広くせよと本社から指示があった。ようやく杭設計、高架橋配筋図変更等が終わり着工となった。ところがケーシングチューブが転石にあたって所定の深度に達することができない。人力でケーシングチューブ内に降りて削岩機で転石を取り除かなければならなくなった。
工期がなくなるという重圧感!

加えてトンネル工事が断層破砕帯にぶち当たり導坑が埋まってしまった。迂回坑を掘って本坑にたどり着く工法に変更を余儀なくされた。
それに加えて付近住民から、「トンネル掘削の影響で渇水になった!池の鯉200匹が死んだ!田んぼに水がまわらなくなった!どうしてくれる!」と矢継ぎ早に怒鳴り込まれた。
こうなるとパニック状態。さあ、あなたならどうする?

差し迫る工期の重圧。あれもしなければ・・・、これもしなければ・・・。
そしてまたまた、インフレに伴う工事費見直し積算作業が加わった!
休日どころではないのである。
30歳前後だから体力的には問題がなかったが、長くこんな状態が続くと精神的な疲労度が大きくなる。それでも何とかしなければ・・・という責任感の衰えだけはなかった。
しかし、「こんな仕事は二度とやりたくない」と考えるようになった。これが終わったら青写真屋の注文取りを本業にしようかと真剣に考えた。

誰に相談しようもない。私の場合は何とかノイローゼになる直前で立ち直ることができた。自殺したら解放されるのだろうなぁと考えたことはあるが・・・・。
上司に「これ以上耐えられません」とは言う気がしなかった。云っても解決する訳がない。労組はどうか。「局全体が火に包まれている。君の所だけではないのだ」と言われてそれまでだ。

40代でこんな状況だった場合、完全に人生に終止符が打たれるだろうと思うと背筋が寒くなるのである。


2017年2月19日日曜日

スカットボール大会で賞品をゲット!

本日(2月19日)午前9時30分から千坂公民館において、千坂校下老人クラブ連合会主催のスカットボール大会が開催されました。
町内の有志4人の一人として参加し、初めてのスカットボールに挑戦しました。
本大会は老人クラブ連合会が予定していた国道歩道の清掃奉仕が雨で中止になったことから、予算消化のため臨時に開催されたものです。
参加者50余名が勢ぞろいし戸水会長のあいさつが終わり、大会の競技説明が行われました。
競技の説明
競技開始
ここにボールが入ったら得点
スカットボールは長い柄のかなづち状のスティックで径10cmのボールを5回打ち、先端部分のボードに設けられた12個の穴を狙い打ちして、それを3回繰り返して得点を競うゲームである。
白山市で考案されたゲームだといい、最近は結構人気があるのだとか。
ただ、用具は市老連が管理するこの3組のみらしいので、大会を開くときは早めの申し込みが必要です。
グラウンドゴルフの経験が生かされる
そして成績が集計され発表された。4人の町内参加者のうち私が「当日賞」、91歳のおじいちゃんが高得点「入賞」、そして会長が「とび賞」を受章する好成績を納めることができました。
小谷内さん、おめでとう!
久しぶりに顔なじみの方にお会いでき、よき休日となりました。



2017年2月17日金曜日

e-taxで1円の還付金

15日から確定申告が始まった。
以前は源泉徴収票や領収書等を揃えて金沢税務署まで出かけて、申告書の作成を助っ人の税理士の方から指導してもらって提出した。
銀座のママさんも e-tax
それが自宅のパソコンで申告書が作成できるようになった。
市役所で住基カードを作成してもらい、電気店でカードリーダーを購入し e-taxで申告するようになった。出かけなくて済むので良くなった。
母が介護施設に入所していたので、介護費用や薬局の領収書を見ながら所定欄に入力した。が、これが大変な作業であった。
医療機関名称、所在地、支払い年月日、領収金額を全て入力しなければならない。
何せ介護費用が100万円前後、薬局の支払いが5万円。膨大な作業量である。

何年かそうした状況が続いたが、母も亡くなり介護費用が無くなって、夫婦の医療控除のみとなった。医療費は年間10万円を超えた分が対象なので、めったにそれを上回ることはない。
一昨年、苦労しながら入力し申告書の作成を終えた。その結果、還付金は1円と算定された。
1円の還付金を受けるために要した労力とのバランスが全く取れないではないか。
従って、昨年から確定申告はしないことにした。
だが、昨年は妻の入院で30万円ほど医療費がかさんだ。さて、どうするか思案六法中。


2017年2月16日木曜日

村の鍛冶屋と長火鉢

原田泰司氏の絵に「かじ屋さん」がある。
この絵を見ると幼い時代が蘇る。
私が住んでいた村に500mほど離れて2軒の鍛冶屋さんがあった。どの鍛冶屋さんも毎日忙しそうに仕事をしていた。その仕事を飽きもせずあっちこっちに行って長い時間じっと見ていた。
ふいごの棒をゆっくり引いたり押したりすると勢いよく炭が燃える、その様子に心が引かれた。
自分でやってみたい!と思う気持ちを鎮めるのに苦労したものである。

いつも見に来る度にじっとその手元を飽きもせず眺めている子供の姿を見て、「いっぺんやってみっか」と言ってくれた。「いいが!」と喜び勇んでふいごの棒を引いてみた。かなり抵抗感があった。そして押した。勢いよく炭が灼熱色に変わった。「面白ーい」と2,3回引いたら「もういいやろう」と声がかかり、しぶしぶやめた。
おやじは修理する刃物を炭に入れ、ふいごを勢いよく引いてまた押す作業を繰り返すと、刃物が真っ赤になり鉄の台に乗せて嫁さんが長い柄の金槌を打ち下ろした。おやじは打ち下ろすたびに小さな金槌で嫁さんが次に打ち下ろす場所を示した。その作業は少しの無駄がなく進められた。

鍛冶屋がなくなって何年たったのだろう。仕事が減って成り立たなくなったのだろうが、鍬は耕運機が普及し使わなくなったためだろうと勝手に想像するが・・・。

何年か前、産業展示館の古物市で長火鉢を購入した。ところが、火鉢に入れる灰の調達に苦労した。そして五徳も数件のホームセンターに行ってもなかった。諦めていたのだが、実家に帰った折り宇出津に行ってスーパーに寄った際、向かいに金物屋があった。ひょっとしたらと思い店に入ったら五徳が2,3点置いてあった。店主に「五徳の需要はあるのか」と尋ねた。「お寺の住職から注文があるのでうちで作っている」という。その店は鍛冶屋兼業だったのである。
つい最近、その金物屋さんが車でかなり遠方まで出前をしている様子がテレビで放映された。高齢のおばあちゃん方が、農作業で使う器具の修理をするお得意さんなのだ。息子さんがUターンして親父の跡を引き継ぐ決心をしたのだという。

孫ができて危ないので長火鉢はお蔵入りしているが、今年高校と中学に進学するまでになったので、長火鉢の出番が近いと思う。鉄瓶で沸かしたお湯で入れたお茶の味は格別なのだ。


2017年2月15日水曜日

上空1万米からみるインフラ格差

飛行場から飛び立った航空機は30分もするとベルト着脱OKのサインが出る。
高度1万米に達し水平飛行となる。
伊勢湾上空
旧名古屋空港(小牧)から飛び立った飛行機は間もなく伊勢湾上空だ。
窓から見下ろす風景は、市街地のほか護岸の整備が行き届いた河川、美しい海岸線、幾何学模様を描いた鉄道が見える。
紀伊半島上空では険しい山岳地帯が広がる。九州上空を過ぎると雲間から海面が見える。
台湾付近では小さな島の上空を過ぎる。搭乗5時間ほどで間もなくダナン上空となる。
ダナン上空
そこを過ぎるとかなり長い時間、人工的建造物が見当たらず原野が広がる。
メコン川上空
カンボジアに入りやがてメコン川を見ることができる。
あたりには道路らしきものはなく、稀に幾何学的線形を描く鉄道は見ることがある。そして何よりも大蛇がのたうちまわるようなメコン川が現れ、自然の流れにまかすまま流れている。護岸はもちろんどこにもない。
ダナンからタイまでの眼下に見える風景を見て感ずるのは、日本のインフラとベトナムやカンボジアなどのインフラの格差が極めて大きいことが実感できる。
日本に住んでいると当たり前に思えることが、海外に出てインフラの状況を目の当たりにして改めて日本の国力の偉大さを覚えるのは私だけだろうか。日本全国どこでも田んぼの真っただ中の2m前後の道も舗装されている日本。これって凄いことなんだ。


2017年2月13日月曜日

高齢社会なのに老人会が衰退する訳

国内の老人会組織そのものが消滅しているのだという。
高齢者が加速度的に増加している今日、何故なのか、それは不思議な現象のように思われる。
新規の加入者が全く無かったり脱退のため減少したり、組織そのものが無くなったりしているが、このことにより何が危惧され何が加入の魅力を妨げているのか考えてみたい。

ある隣町内の老人会長が私に「うちの老人会は解散することになった」と云われた。その理由は?と尋ねると、「私は長年会長をやってきたが、体力的に務まらなくなった。それで後継者をいろんな人に打診してみたが誰も引き受けてくれない。そのため、解散せざるを得ない」と答えられた。そして老人会は解散し、やがて十年を過ぎようとしている。

また、十年前に私の町内の老人会長が相談したいことがあるというので、どんなことか聞いたところ、「長年老人会長をやってきたが、家庭の事情これありで精神的に萎えてしまった。で、気力も失い会長もやめたい。が、後継者が見つからないので解散することになった」とおっしゃった。
「解散はたやすいが、一旦解散した後もう一度老人会を立ち上げることは非常に困難になる。副会長は何故引き受けてくれないのか」と聞いたところ、会長は絶対務まらないと、かたくなに会長の就任を拒んでいるという。
何でそう思うのかと副会長に聞いたところ、「会長のように、たくさんの文書作成は私にはできない」という。それなら全ての文書作成はほかの人にやってもらうことにするが、それでもダメ?」、「それなら引き受けてもいい」という経過を経て、今はその人の二代目の会長が頑張っておられる。

70歳半ばの人に「老人会に入って」とお願いしたところ、意外な言葉が返ってきた。「入ったら直ぐ役をやらされる。それが嫌で入りたくない」。・・・・・こんな理由もあるんだ!と知った。

団塊の世代も70歳となる。この人たちを無視した老人会は成り立っていかないだろう。
だが、この世代より上の人たちも「老人会とはかかわりたくない」という思いを持つ人が多い。なぜ、そう思うのか。
・組織に入ると束縛されてしまう
・何の得にもならん役はやりたくない
・えらそうにふるまっている人の中に入りたくない
・窮屈な思いを何でしなければならんのや・・・
と、こうなっている。

この4年間で町内に4件の孤独死が発生している。男性2人、女性2人。この人たちに共通点がある。それは他人とは接触したくないということだ。自分だけの世界が一番心地よいのだ。
だが人生の終末は孤独死であった。

先日、当町内のシニアクラブ(イメージチェンジのため、3年前に福寿会という名称を変更した)がおそがけの新年会を開催した。食事会が始まるまで客室で待機したが、その間、コミュニケーションの花が開いた。
食事会前の雑談のひととき
会長のあいさつ
飲み・食べ・しゃべる
 
会長は各テーブルを回って話題提供

笑顔は免疫力を強くする!
 
年の差は関係ない!

温泉にも入ったし”大満足”して帰ろう!

食事会も交流で大いに盛り上がった。広々とした野天風呂にも入った。
未加入の人たちに体験入会をして貰えば老人会のイメチェンとなって加入の気持ちが湧くと信じたい。
そして何よりももっと”ボランティア精神”を持ってもらいたいと願う。