2017年4月29日土曜日

新幹線工事監理業務3年目(その2)

広島新幹線工事局大野工事区は前年、新幹線ルート変更を強硬に主張していた大野町が協定に応じたことから、3kmの明り区間の高架橋起工式が大々的に執行された。
大野高架橋起工式
廿日市トンネル出口から400mほどが盛土区間で、600mほど高架橋の1工区、2工区と3工区は全区間が高架橋であった。
私の担当は3工区で着工時から完成まで数えきれなほどのトラブルに見舞われた。地質調査では無いことになっていた転石のため、高架橋の構造変更、既成杭から場所打ち杭の変更、杭基礎構造を一部直接基礎に変更を余儀なくされた。

担当は高架橋だけではなく、大野トンネルがメインなのだ。
大野トンネルは着工時に保安林関係でトラブルがあったが、それ以降、導坑掘削が日進20m以上を記録するほど急ピッチで進んだが、前年の年末に断層破砕帯にぶち当たり、導坑が300mほど埋没した。このため1か月ほど中断、請負業者、当局幹部等工事担当者間で善後策を協議し、破砕帯の手前300mから迂回坑を新たに設け破砕帯を直角に横断させ本坑に到達させて導坑掘削を進めることに決定した。
破砕帯部分の支保工補強
迂回坑のアプローチ部
迂回坑の断層破砕帯も難なく抜けて本坑掘削を進めた。
ある日、役場から「上水道用貯水ダムが渇水で空っぽになっている、この原因はトンネル異常出水と考えられるので至急善処せよ!」と高飛車的な大野町の主張。それこそ寝耳に水の話が持ちあがった。
トンネルの排水量は常に観測しているが、何か月も同様の排水量であった。不思議な気になり、念のため隣接工事区の担当者にトンネル出水量に異常がないか問いただした。担当者曰く、「数日前、毎分6tの異常出水があった。これは現在も続いている」と報告があった。

トンネルの工区境はサミットと称され最も標高が高く設定されている。東工区と西工区の境界の位置が大野町にあった。このため、西工区の渇水対応は大野工事区、即ち我々が行わなければならないのである。
早速、貯水池の調査に行った。そこは見事に空っぽであった。しばらくすると、「池の鯉200匹が死んだ」、「沢の水が枯渇して田植えができない」、「井戸の水がなくなり風呂に入れない」と苦情の波が押し寄せてきた。
応急措置として、業者にポリタンクを用意させて事務所の水道水で満タンにして軽トラに積み込み配達して回った。

この年昭和48年は広島地方が渇水に見舞われた。良くないことが重なる場合が多い。渇水補償は用地課が対応することになった。

この年の秋、悪戦苦闘した導坑が貫通見込みとなって、貫通式が行われた。
貫通の最後の発破ボタンを押す局長
西工区と酒樽交換の儀
貫通点で担当助役と主任、技術掛 この3人が頑張った!
貫通祝賀会

祝賀会の模様
貫通式ほど感動的なことはほかにはない。それは開通式の喜びさえ遥かに上回るものである。

昭和48年はオイルショックがあった。これは工事にも多大な影響を及ぼした。労務賃金、建設資材がどんどん上昇していった。
請負業者に工事代金が2か月毎に支払われる。いわゆる出来形払いである。トンネルの場合は毎回1億円を上回る。ところが、資材や労務費が高騰するため請負代金の変更業務が必要となる。請負契約書にスライド条項がある。適正な請負価格に変更する業務が必須となって、業務の繁忙におまけがついた。
毎日終業が午前2時。当然土日の休みなし。こんな生活が3年間も続いたのである。

2017年4月28日金曜日

新幹線工事監理業務3年目(その1)

運転免許試験で路上試験が導入されたのが昭和48年度からであった。
私はその7年ほど前に運転免許を得るため自動車教習所に通ったことがあった。仕事の合間で教習を受けなければならないので10時間ほどやったが、忙しくなって免許取得を断念した。

昭和48年になって4月から路上試験が導入されるというので、その前に免許を取得しようと考え隣町の教習所に単車で通った。ここでも毎日ではなく都合のつく日だけ通ったので日数がかかった。
そして広島市の運転免許試験場で受験することにした。元飛行場だったところだけあって、試験場は広大であった。

4車線のコースにダンプやバス、オートバイ等の試験が同時に実施されているので、教習所で練習した者にとっては緊張感と同時に恐怖心を持って受験した。交差点の右折のタイミングが特に難しかった。そのため4回目にようやく合格することができた。
免許は3月末までにと思っていたが、予定がずれ込み4月となって路上試験を受験しなければならなくなったのである。
事務所の車に、後輩の免許所持者に指導者として乗ってもらい、国道1号線を恐る恐る走った。そんなことを経てようやく免許証を取得した。

3月に免許が取れるものと考えて、中古車を注文していたら免許の前に車がきてしまい、事務所の駐車場に鎮座していた。いすゞベレット1500ccであった。
4月中旬、めでたく免許証を手にした。毎日洗車していたら先輩が「そんなに洗うとペンキがはげるぞ」と冷やかされた。

4月のある日、事務所に一人の老人が私を訪ねて来た。大野町に来て借家を探しに歩いたのだが、広いがあまりにも古かったり、新しい貸家は余りにも狭かった。が、事務所に近い場所で新築している家があったので、建て主である老人に借家の申し込みをした。ところが、その老人曰く「この家は養子縁組が決まり甥が東京から帰ってくることになり、この家を新築している。そんなわけで貸すわけにはいかない」と。
非常に残念な思いでその家を借りることを諦めていた、その1年半後、老人が私をわざわざ訪ねて来てくれたのである。

「家を探しておられたが見つかりましたか?」、「いや、中々これという家がないのでまだ単身赴任を続けている」、「それなら私の建てた家に入られませんか」、「だけどあの時、養子縁組でお断りされたが」、「その話はなかったことになってしまった」というやり取りがあって、「それなら喜んでお借りする」と話がまとまった。
6月末、広島県安芸郡温品町の国鉄アパートからトラックに荷物を積み込み安芸郡大野町に引っ越しをしたのである。

大家の老人は90歳近かった。村にまだ勤め人がいなかった頃、国鉄職員をしていたと自慢していた。助産婦をしていたおばあちゃんと二人暮らし。家の前がかなり広い畑でいろんな野菜を作っていた。収穫した野菜が借家の玄関前に積んであることが度々あった。家は6・6・4.5畳に6畳くらいのダイニングキチン、ただ、風呂が五右衛門風呂でマキで沸かすという前時代的なものであった。
そのマキは、老人が宮島の倒木を船で曳いてきて乾燥させて切りそろえたものをドーンと風呂の前に積んでくれた。もちろんお代はいらないという。

この家に昭和50年3月まで住んだ。そんなある日、話があるというので大家に行った。老人曰く、「私たち夫婦に子供がいない。甥の養子縁組も破談になった。そんなことで無理な話かもしれないが、私の養子になってもらう訳にはいかないだろうか」と。
老人夫妻にとっては真剣に話し合って決めたことなのだろう。だが、「能登の長男」として育てられた私には到底考えられない話であったので、丁重にお断りした。
老人夫妻の落胆した顔が忘れられない。

昭和48年10月に次女が誕生した。出生地は隣の大竹市の大竹国立病院であった。夕方、3歳前になる長女の手を引いて病院に向かった。難産の末ようやく生まれた。

大家の老人が「どうぞ食べてください」と段ボール箱を置いて行った。開けてみると殻付きの牡蠣がぎっしり入っていた。天然の牡蠣で、船で宮島付近で採るのだという。
次の日も「事務所の皆さんと召し上がってください」とひと箱。達磨ストーブの上に乗せて焼いて食べた。余ったので皆に分けて家に持ち帰ってもらった。
今から思えば随分贅沢な思いをしたものだと・・・・。



2017年4月24日月曜日

昭和の郷愁

昭和から平成に変わっていから、来年で30年の節目を迎える。
だが、45年間を昭和という時代に生きた身にとっては、全身に「昭和」が染みついているのである。

市内電車が至る所に走っていた風景が思い起こされる。香林坊交差点の「でべそ」といっても理解できる人は少なくなったであろう。あの狭い穴倉で市電の分岐器を方向別に切り替えていたのである。むろん夏場でもエアコンはなかった。
金沢駅前の市電
写真左は緑色の電車で、スピードを上げると船に乗っているようによく揺れた。その点、後ろのボギー車は乗り心地が良かった。白銀町から駅前は単線で都ホテルの前に小立野、寺町方面の乗り場があった。市電の運転士をしていた人から聞いた話だが、「運転士はよーもてた。若い女の子が横に来て離れなかったもんだ」と自慢していた。毎日不動寺の自宅から公園下の本社まで毎日自転車で通勤していたと話された。むろん砂利道をである。

6年前に町会の会館が新築されたのだが、18年間も毎月500円づつ積み立てて資金を作って建てられた会館なので、皆でフルに使おうと申し合わせて10種類以上の同好会を立ち上げた。クラフト、カラオケ、料理、生け花、茶道、映画、パソコン等々、現在も活発に活動している。6年前に選出された代表者の皆さんは今も献身的に協力していただいている。町会の絆づくりに大きな役割を果たしているのである。

65インチのディスプレーと優れた音響のスピーカーを備えたカラオケは、発足時に十数名の会員がいた。が、会員が高齢化し亡くなった人、病気で入院した人、けがをした人が続出し現在は5名に減少してしまった。しかし、会員は意気盛んである。癌を克服して復帰した人、眼と耳が不自由な人もカラオケを楽しんでいる。
週2回の定例会では新曲のほか、懐メロがよく歌われる。歌ったり聞いたりする昭和の歌は、流行した時代の出来事が昨日のように蘇ってくる。そして当時の思い出話に花が咲くのである。

パソコンのオペレーターは私だけなので、健康に留意して1日でも長く続けていきたいと願っている。


2017年4月21日金曜日

奈良市内に八つの世界遺産(その2)

前回は八つの世界遺産のうち①東大寺②春日大社③興福寺④元興寺を紹介した。
今回は①平城宮跡②唐招提寺③薬師寺の三か所である。
平城宮跡は近鉄電車で大和西大寺駅で下車し、徒歩で現地に向かった。私が訪れた時は発掘調査が盛んに行われており、埋蔵物等の出土品は倉庫に整理格納されていた。

平城宮の跡地はべらぼうに広い。南の端に朱雀門が見えるのだが、中々たどり着けないのである。
平城宮エリア
平城宮だけでも広大なのだが、平城京は縦・横ほぼ5kmの壮大な都市計画に基づいて造成された。工期はたったの三年、人口10万人が住んだという。時は西暦700年ちょっと。長安をまねて計画されたのだが、なぜ急いで造成されたか。それは日本の国力を誇示するため背伸びをしたのだ。
唐との交流が盛んに行われたが、唐の役人を呼び日本も中国に引けは取らないことを示したかったのである。
朱雀門の復元
だが10万人が生むには問題が多く発生した。水がない、水運がない、これが致命傷となって50年くらいしか機能しなかったのである。

ここから2kmほど南へ歩くと唐招提寺である。
私が訪れた時は大改修が行われていて、建物がすっぽりとテントの中に隠れていた。
何千枚もの瓦に番号が付けられ、広場に整理して積まれていた。
唐招提寺全景
工事中の本堂の屋根組が見学できた。明治時代に改修が行われたが、平成の大改修は大規模なものとなった。金堂には仏像が安置されていた。
金堂の仏像群
唐招提寺は、鑑真が建立した寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山である。開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。

唐招提寺から徒歩数分で薬師寺に行ける。
薬師寺
左側が国宝の東塔である。
現在寺に残る建築のうち、奈良時代(天平年間)にさかのぼる唯一のもの。総高34.1メートル(相輪含む)。日本に現存する江戸時代以前に作られた仏塔としては、東寺五重塔、興福寺五重塔、醍醐寺五重塔に次ぎ、4番目の高さを誇る。屋根の出が6か所にあり、一見六重の塔に見えるが、下から1・3・5番目の屋根は裳階(もこし)であり、構造的には三重の塔である。仏塔建築としては他に類例のない意匠を示す。塔の先端部の相輪にある青銅製の水煙(すいえん)には飛天像が透かし彫りされており、奈良時代の高い工芸技術を現代に伝えている。

金堂には薬師三尊が安置されている。
薬師三尊
実物は大きい。写真では本体の色が金色のように見えるが、実物は鼠色と濃い緑色が混ざったような色合いである。薬師如来像を見ていると、あらゆる病気が治るような気持ちになるのである。
薬師寺は檀家が一人もいないという。維持管理・運営費用はどこから捻出されるのだろうか。

薬師寺から奈良駅前のホテルまで歩いて帰ったのだが、田んぼの中をとぼとぼ歩き遠いなぁと何回もつぶやいた。




2017年4月20日木曜日

奈良市内に八つの世界遺産(その1)

世界遺産に認定されるのは容易なことではない。富士山と三保の松原がセットで認定されたのはつい昨日の出来事のように思われる。
そんな貴重な世界遺産が奈良市内に八か所もある。私は奈良市へ出張した際、春日原生林だけは時間的余裕がないため見学を諦めることにして、ほかの七か所を徒歩で訪ねる計画をたて実行に移した。

最初は昼休みの時間を利用して東大寺に行くことにした。東大寺には中学の時、修学旅行で訪れたのだが、ただ「大きいなぁ」と思っただけであったが、あれから50数年も人生経験を踏めば、当然着眼点が大きく異なるのである。
東大寺に入って先ず建物の内部構造、天井、大仏の台座等を細かく観察した。そしてその出来栄えに感動を覚えた。先人の建築、工芸に係る企画設計力と各種技術力に感服した。
大仏殿の内部
台座の彫刻も素晴らしい
東大寺の近くに春日大社がある。奈良公園を横断して春日大社の一角にたどり着いた。
ぐるっと回って正門まで行ったが、ここも修学旅行で来たことがあったので本殿の内部には入らなかった。途中、宝物殿があったので見学した。源頼朝が寄進した弓矢などが眼を引いた。
春日大社
次に訪れたのは興福寺。五重塔の素晴らしさにしばし見惚れた。金堂には仏像が収められている。金堂の左手に国宝館がある。
興福寺
国宝館
この国宝館に入場した。
阿修羅像ほか仏像がずらり
写真を見ると阿修羅像は大きく見えるが、実物はそんなに大きくはないのである。
興福寺といえば猿沢の池とセットになって紹介される場合が多い。猿沢の池の水はもう少しきれいにならないものかと思うのだが・・・・。
興福寺からしばらく歩くと元興寺に着く。ここは何がどうなのかというと、極楽坊という本堂の屋根に飛鳥時代に葺かれた瓦が現存していることなのだ。
元興寺本堂・極楽坊
飛鳥時代に葺かれた屋根瓦
1,400年前の瓦を見ることができるのが驚きである。
本堂の内部は畳敷きとなっており、そんなに広いものではない。
次に訪れるところは平城宮跡地であるが、ここは3kmほど離れているので奈良駅から近鉄電車を利用することにした。


2017年4月19日水曜日

医王山のロッククライミング

ロッククライミングといえば、一般的に岩盤にアンカーボルトを打ち込み、それにロープを取り付けて登っていくことをイメージするだろう。
これは相当訓練した人間でないとロッククライミングは不可能である。
ところが、医王山には誰でもロッククライミングを楽しむことができる場所がある。高低差は200m以上もあり、登っていくにしたがって眺望が素晴らしいのである。山肌は45度程度の斜面だそうだが、実際登って見るともっと急に見える。
スリル満点のロッククライミングができる岩盤
この麓には大沼といわれる池があり、子どもなら浮き草に乗ることもできる。その近くには滝つぼもあって、天然記念物のサンショウウオが生息している。
大沼を眼下に:高所恐怖症の方にはお勧めできない
岸壁の頂上からさらにひときわ尖って天に聳え立っている岩がある。通称「鳶岩」である。
この先端に立つことができるのだ!
鳶岩の頂上に立ってから次に「白禿」へと向かう。
白禿からの眺望は絶佳、砺波平野が一望できる。
砺波平野の眺望
医王山はこのように、とても変化に富む山である。富山県側からの登山客も非常に多い。
石川県人の皆さん、もっと医王山を楽しみましょう!


2017年4月16日日曜日

青年団の演芸会

昭和30年代の前半までだろうか、青年団の活動の中で演芸発表会というものがあった。演芸発表会は旧正月に、会場は小学校の講堂で行われた。
舞台は各教室から教壇が運び込まれ、それで上手く舞台が組み上げられた。演芸会の当日は老いも若きも会場に殺到し超満員の盛況だった。

各在所の青年団は毎晩遅くまで神社の社殿で練習を重ねた。子どもに踊りを教える人は、手回しの蓄音機で何回も同じ曲を掛けて指導に明け暮れた。
婦人会のおばちゃんたちも大勢集まって練習に励んだ。

各在所には得意分野があって、「やくざもの」や「国定忠治」に人気が集まった。舞台の演出にも工夫がこらされ、出し物に決まって漫才をする在所もあった。
中には歌舞伎が演じられ、勧進帳や仮名手本忠臣蔵といった本格的なものまであった。婦人会の踊りも演芸会に花を添えた。

旧盆には草相撲大会が開かれた。神社の広場に土俵が設けられ、仮設の観客席まで設置された。青年団が勧進元となり、商店街や旦那衆に寄付を要請した。奥能登一円から相撲取りを招待し、午後から夜9時頃まで熱戦が続いた。大勢の観客が詰めかけ、神社広場の端に縄を張り巡らして目録がずらりとそれに取り付けられた。あの頃の青年団活動はスケールがけた違いに大きかった。
立行司は世襲で何代も続いていた。行司の衣装も本格的なものであった。

青年団の活動が急速に衰えたのはテレビの普及が進んだためである。青年団の演芸会等の娯楽に感心が薄くなったのである。昭和40年代になるとぱったりと途絶えてしまった。
あの活発だったエネルギーがとっても懐かしく思える。






2017年4月12日水曜日

山の境界

「お前の名義で山を買った。買値は50万円、これから山へ行って境界を説明する。この石からまっすぐ上の段まで、山の下側は向こうの道と交差する位置が所有する境界だ」と現地で親父から説明を聞いて60年ほど経っただろうか。

当時、植林して20年ほどした杉林があって、その林の中でクヌギを1.2mほどに切りそろえシイタケの菌を植え付け4,50本並べた。ホダギと称して適度な湿度と空気の流れでシイタケが育った。
親父が亡くなって20年過ぎた。

もう30年ほども山に足を踏み入れていない。山は荒れ放題だろうなぁ・・・とは思うものの、実際実家に帰るのは年1,2回にとどまり、庭の手入れ、家の掃除で時間が過ぎてしまう。山の管理は放棄したと同然の状態である。親父が亡くなる2,3年前、バイパス計画の話があって家が支障移転しなければならないという。直ぐ話が進展するものと思っていたが、バブル崩壊と同時に塩漬けとなってしまった。

娘曰く「お父さん、能登の家はお父さんの代でケリを付けといて!」という。娘に相続することになれば本当に迷惑だろうなぁと思う。

能登の塩田が人気となっている。海水を砂の上に撒いて濃度を上げてそれを煮詰めるという製塩法であるが、最近は砂の上に撒かずに海水を直焚きして煮詰める製塩法が採用されているのだとか。
何でも、燃料は能登地方の廃屋が無尽蔵にあるので殆ど経費が不要で採算が合うという。
どんどん過疎化する能登。私の家もそのうち製塩に使われるかも知れない。


2017年4月10日月曜日

生死を彷徨すること5時間

3月27日付「未体験ゾーン9°8分の高熱3日目 」以降の闘病記録である。

高熱が続いたため3月29日朝、行きつけのクリニックで診察を受けた。体温は急上昇し、ついに40℃を突破、40.3度を記録した時は既に意識不明の状態となった。
女房は「ここでは対応が困難なので紹介状を書きます」と先生に告げられ、直ぐ浅野川病院に向かった。
ストレッチャーに乗せられ診察室へ。血液、尿等の検査を済ませてから病室へ移動したという。
午後3時、意識が回復し、「何でここにいるのか」と女房に聞いた。5時間も生死を彷徨したことになる。

4人部屋の病室。
病名は「肺炎球菌」と診断された。この病気で命を落とす人も多いと説明があった。免疫力が極端に弱くなってこの菌が暴れ出したという。
朝晩2本づつの点滴が日課となった。
部屋は4人部屋。入れ替わりが激しい。やがて97歳という男性は深夜も友人とでも話しているようにしゃべり続けた。これには参った。
入院1週間ほどで点滴が朝晩1本づつに減少した。抗生物質は当分の間続けないといけないという。

看護師が気を利かせて「病室を変えましょうか」と言ってくれた。直ぐOKの返事をして2人部屋に変わった。
回復するにしたがって退屈するようになった。なんせ寝ているのが定位。暇に任せてスマホでネット情報を探った。アメリカがシリア攻撃、オランダでテロ、藤あや子が娘より年下の男と婚約発表・・・等々、暇つぶしにはもってこいのスマホではあった。

そして13日目の本日午後、無事退院して自宅に帰ることができた。
入院中気がかりだった安全パトロール隊の当番表作成に取り組み、明日午前中にプリントして配布を終える見込みとなった。自宅へ隊員から当番表はどうなってる?との問い合わせが数件あったようだ。遅ればせながら登校3日目から学童見守りができるようになった。当番表作成を手掛けて10年も過ぎた。バトンタッチしたいが相手が中々見つからない。