2017年6月30日金曜日

つい見過ごしてしまう景勝地

松本清張のゼロの焦点で一大脚光を浴びた能登金剛。先般の能登地震で関野鼻が崩壊したという。私が能登金剛へ行ったのは、昭和38年の転勤直前に職員家族慰安会が実施されたとき、バスで訪れたことを思い出した。2度めは子供を連れて親子4人で行った。
ごつごつした岩と、荒波と波の花が舞う奥能登外浦、白砂清松の内浦、能登の観光地の景色は両極端だと言っていいだろう。

白砂清松の内浦の代表格に「九十九湾」がある。遊覧船乗り場から乗船し、典型的なリアス式海岸の変化を楽しむ観光客は多い。
私も何度か遊覧船に乗船した。湾の畔に金大の水産研究所があるのだが、そこへ行くにはどうすれば良いのか今もわからないでいる。

殆どの観光客は遊覧船で九十九湾観光して満足して他に足を向けている。だが、本当の九十九湾の良さがわかるのは他にある穴場である。
ところが、そこに行くには非常に分かりづらい。遊覧船のりば付近の県道の坂道を登り、やがて海岸が見える付近から脇道に入って駐車場がある。その施設の名称を「のと海洋ふれあいセンター」という。
位置図
駐車場前の案内図
この施設には展示場や映画館まで整備されている。私が行った時には立体映画が上映されていた。スクリーンから大きくはみ出して魚が泳いでいるシーンは圧巻であった。
館内
このふれあいセンターから4,50m離れたところが九十九湾である。そして海中に整備されている遊歩道が素晴らしいのである。
プールよりも透明度の高い海水、湖より穏やかな海面。海藻と魚の群れ。正に別世界。


この遊歩道は1kmにも及び、ここが本当に海?と驚きの連続なのだ。





遊歩道とは別なのだが、九十九湾の崖の上に百楽荘というホテルがある。この崖をくり抜いて設置されたエレベーターを降りるとレストランや釣り桟橋に行ける。
家族連れで大賑わいの素晴らしいところもあるので一度如何でしょうか。
釣り桟橋

2017年6月29日木曜日

高齢者はもっと笑うべし!

抱腹絶倒、腹を抱えてひっくり返るほど大笑いすることをいうが、最近は若い頃ほど腹がよじれるほど笑う機会が無くなってしまった。
それが体に良い訳がないらしい。もっと生活習慣に笑いを取り込めと医学界でも推奨するようになった。
公民館の教室で、元アナウンサーの横田幸子氏を招いて講演会を開いたことがある。テーマは「笑顔のチカラ」だった。横田講師は笑顔の効果を実践を通して語られた。

横田幸子講師
この話の中で、笑いは免疫力を高めると解説された。笑うと免疫力が高くなることも医学的に実証されたと新聞報道があった。
免疫力が高まる!
笑顔の作り方の指導を受けた
そこでもう少し突っ込んで笑いについて研究してみよう。
「笑わない人は損なんですよ! 今日は笑いましょう。ハッハッハー」と、自ら軽やかに笑ってみせるのは永井博弌さんという人に登場してもらおう。

笑いは単に、楽しい感情をアウトプットする行為にとどまるものではないという。永井さんによると、私たちの心身において笑いが作用する対象は大きく3つあるのだとか。
さらに2つ目は、脳。脳内麻薬と呼ばれるドーパミンやエンドルフィンの分泌を促すほか、脳内の血流量を増加させる働きもあるという。

そして3つ目が、免疫力。笑いには、免疫細胞であるNK(ナチュラルキラー)細胞を活性化させる作用がある。これは、笑いによって分泌されるエンドルフィンの働きだと考えられている。

NK細胞は体内をパトロールして、ウイルス感染や細胞の悪性化が起こっていないかを探るほか、異常が発生した際には最前線で防衛部隊として働くという重要な役割を担う。「ただし、非常にナイーブな性質をしており、ストレスや加齢などによるパワーダウンは避けられない。そこで、弱体化したNK細胞を活性化させ、十分な免疫力を発揮するために有効なのが、笑いの力なのです」(永井さん)。

こうした効能を証明する調査結果は、すでに多数発表されている。
たとえば、2062歳のがん患者を含む男女19名に約3時間にわたって漫才や喜劇を鑑賞し、大いに笑う体験をしてもらう。その前後のNK細胞活性率を調べたところ、もともとの活性率が低かった人は上昇し、高すぎた人に関しては低下するという結果が見られた。つまり、笑いの後には総じて、NK細胞の活性率が正常に近づくような調整作用が起こったというわけだ。

笑いの効果は絶大だということは理解できたのだが、高齢になるほど生活習慣で笑いが遠ざかっているのが現状である。長年生きてきた経験の積み重ねで、ちょっとやそっとのことで「笑えなくなった」と考えられる。
だが、笑顔でいる時間を増やすことは容易なように思える。笑顔でいればきっと「抱腹絶倒」の機会が訪れるに違いない。


2017年6月28日水曜日

職務パスと組合員証

国鉄には職務パスというものがあった。
正式名称を鉄道乗車証という。
これは全職員一律に支給されるものではなく、職階で使用範囲が何段階にも分けられていた。


乗車証の有効期限は1年。区間は国鉄全線が最上級。最上級パスはだいたい40歳を超えないともらえなかった。
私は34歳で助役を拝命した時、全線パスをもらったが、1年後本局勤務になって一般職員に復帰した時には中部支社管内に降格されたものである。
支社管内の下位に管理局線管内があった。これは職員採用の2年後以降でないともらえなかった。

私は昭和36年3月1日に臨時職員、4月1日試用員、6月1日職員に任ぜられたのだが、この職務パスは職員任命の2年後まで出ない。
だが、この職務パスと全く同じ色合い、字体で労組から組合員証が配布された。
もちろん有効期限や区間といった文字はなく、発行者は地方本部長となっていた。これが職務パスと同等の効力を有していたのである。

当時、総評傘下の国労は私鉄総連と相互乗車の協定を結んでいた。
昭和36年6月から6週間、三島の学園で研修を受けたのだが、土、日にはこの組合員証をフル活用した。箱根周遊、伊豆大島方面、東京、三浦半島、東照宮方面の旅行を大いに楽しんだ。
組合員証の効力は絶大で、箱根のロープウェイ、芦ノ湖遊覧船、六国峠のケーブルカーまで組合員証が有効であった。
だが、国鉄は国労以外の当局寄りの組合所属職員もいて、この職員は相互乗車を違法乗車として見つけ次第厳しく取り締まったのである。

三島から丹奈トンネルを抜けると熱海駅である。熱海見物を終えて駅改札を通ろうとしたとき、駅員に組合員証を取り上げられ、大勢の乗客の切符を切りながら厳しく詰問された。
「そんなもんで乗れると思うのか。君はどこのだれか・・・」など長時間公衆の眼前でさらしものにされた。
立山登山から富山駅に向かう際に地鉄に組合員証を提示したら、「うちはだめです。乗車券を購入して」と断られたこともあった。彦根付近で車掌が検札にきて、また組合員証を取り上げられ違法乗車をきつく咎められたこともあった。金沢には新国労の組合員が多くなっていたので、相互乗車をためらう私鉄社員がいたのだが、北鉄は長くそれに応えてくれた。

2年後、晴れて管理局線管内パスをもらうことができて安堵したものである。



2017年6月27日火曜日

北陸線終着駅上野のあれこれ

急行能登や白山が活躍した時代の話である。
金沢駅を午後10時前後に出発した夜行列車は、信越線を経由して早朝6時に上野駅に到着した。上野は全ての東京以北の始発駅であり終着駅であった。
そのころの東京駅は、大阪・九州方面の始発・終着駅。

中学・高校の修学旅行は関西九州方面だったので、東京は昭和36年に就職して三島の中央鉄道学園三島分教所へ6週間の研修に行った際に、初めて訪れた。本社見学のほか、浅草、皇居等を見物するため2,3度訪れた。

そして能登線建設のため2年半ほど能登勤務をして、昭和38年10月、岐阜工事局本局に転勤の途中、姉の結婚式のため家族全員と上京したのが2度目であった。
たまたま昭和38年の上野駅ホームで列車到着の写真を目にした。


当時の服装や手に持った旅行バッグ、風呂敷づつみ、小荷物運搬車など、とても懐かしい情景を捉えている。
この上野駅は昭和7年に完成したという。


現在の上野駅
この駅にそっくりな駅が中国にあるのをご存じだろうか。
その駅は大連駅である。
中国・大連駅
大連駅の竣工は昭和12年で、ほぼ当時の姿のまま現在に至っているという。設計を担当したのは南満州鉄道株式会社の太田宗太郎。2階が出発、1階が到着というようにフロアを分けた構造になっているところは空港のようであるという人もある。

上野駅の駅舎は大連駅の5年前に完成しているので、大連の方が上野を参考にしたと考えられる。上野駅の設計者は鉄道技師であった酒見佐市という人。上野駅の外壁には腰部分に稲田産花崗石、壁の部分には多胡石や小松石の砕石を混ぜたモルタルが使われている。日本では、大正12年に発生した関東大震災以降、耐震基準が見直され、駅舎の建物にも十分な強度が求められたとされる。
大連に地震が多いという話は聞いたことがないが、まだ大震災の災禍の記憶が生々しく残っていた時代に日本の建築家が第一に考えたのは、やはり安全性だと思われる。大連駅の設計思想が、装飾性を排除した安定感のある凸型の直方体に落ち着いたのも、時代の流れだったのかもしれませんね。


それにしても、現在も二駅とも第一線でそれぞれの国で、十二分に機能を発揮していることは愉快に思うのである。

2017年6月26日月曜日

婚活で大活躍した生保のおばさん

昭和30年代から平成に入る頃まで、日本全国津々浦々に個人情報をたくさん持ったおばさんが大勢いた。
ある玄関先の立ち話。
「どこどこの〇〇さんは25で、5人兄弟の長男さん、銀行に勤めていて車も持っているんだって。どうやろ、あんたの娘さんにぴったりだと思うけど」
生保の営業でいろいろな所を回り歩き、大量の情報を得ることができた生保のおばさん。
こんな話を村の隅々まで持ち歩いた。

平成に入って生保のおばさんがめっきり減ってしまった。
加入募集から契約締結までパソコンで簡単に手続きが終わってしまうように時代が変わった。
これに合わせたように、結婚をしない男女が増加している。
男性の未婚率
この表を見て驚くのは、40歳で30%、65歳でも11%も未婚の男性がいることである。
では、何故結婚しないのか。

大半の男女は、まだ適当な人に巡り合わないからと回答しているところから、かつて大活躍した生保のおばさんが今いてくれたら随分未婚率は減少すると考えるのだが・・・・。


未婚率の推移を見ると、やはり平成時代に入る頃から急激な上昇率を示している。
終身雇用という日本企業の伝統が崩れ、非正規労働者が増えた頃と一致している。
平成22年で生涯未婚率が男性で20%を超えているではないか!
20年前、香港へ旅行した時、香港の女性は結婚年齢が急激に上昇しているという話を聞いたことがある。そのころの香港は道行く殆どの男女は携帯電話で話しながら歩いていた。日本はそんな風景になるまで5年くらい要した。そしてやはり香港と同様に女性の未婚率が上昇した。


未婚の男女も増えているが、離婚して子供を連れて実家に帰ってくるパターンも、近所でさえ多くあるようになった。親の経済力がそれを許しているのだろう。

さて、生保のおばさん、隠れていないで出てきて何とかしてー。

2017年6月25日日曜日

石川産の農作物に高評価


ある農産物の規格がある

〇笠の直径が8センチ以上

〇厚みが3センチ以上

〇巻き込みが1センチ以上

〇形は丸く、割れなどがない

この農産物は一体何なのだろう?
正解はブランド名を「のとてまり」という。

超高級ブランドシイタケ、石川県の奥能登で栽培される「のとてまり」である。1箱6個入り3万5000円――。3年前に金沢市中央卸売市場で行われた初競りでは、1個6000円前後の値がついた。この値はもちろんマツタケをも超える。
1箱6個入り35,000円

この椎茸は「noto(のと)115」という椎茸菌を原木に植え付けし、一本から一つしか取れないような貴重な椎茸で、しかもその中で協会に『のとてまり』と認定されるのは収穫量全体の45パーセント程しかないといわれる椎茸である。
能登の気候がシイタケ栽培に適しているからなのだろうが、生産者の並々ならない努力が実を結んだのだろう。

もう一つ脚光を浴びてきた石川ブランンドがある。
そう、「ルビーロマン」である。
この甘くて大きな葡萄の誕生には、知られざる様々な苦難の歴史があるという。 ブドウで生計を立てている農家の願いと、美味しいブドウで育った石川県民の願いをかなえようと、22年も前に、石川県農業総合研究センター砂丘地農業試験場では、「藤稔」という黒色の大粒ブドウから採取した種400粒を試験圃場の片隅に播いた。

1人息子のように大事に大事に育てた幼木は、平成9年頃から実を付け始めた。しかし、400本の樹の中で赤い実を付けたのはわずかに4本だけ。この中から、味、色、房や粒の大きさなどの品質、栽培のしやすさなどの地道な調査を繰り返し選ばれた1本が、「ルビーロマン」の原木となったのである。

1箱110万円で落札
そして、その後も大切に育てられ、種を播いてから品種登録申請(平成17年3月)にこぎつけるまで11年。その間、10数人の職員が“夢を引き継ぎ”育成に関わってきたのである。長い歳月を経て、多くの人の夢と期待を背負って誕生したのである。
農業総合研究センター砂丘地農業試験場でこつこつと努力された関係者の皆さん、本当にご苦労様でした。

最近、京阪神の料亭で加賀野菜が好評なのだという。
魚はのどぐろ。水揚げは他県のものが殆どというが、なぜか金沢の「のどぐろ」を食べに大勢の観光客が押し寄せている。
七尾では「のとふぐ」のアピールに懸命である。人気沸騰を期待したい。

2017年6月24日土曜日

論より証拠

単調な日常生活を繰り返していると、時間や年月の経過に疎くなってしまうものである。
10年前の自分の姿の写真を見ても今とそんなに変わっていないように思う。
ところが、である。
10年前の子供と一緒に写した写真と、今の子どもの写真を較べた時の衝撃は極めて大きいものがある。
12年前は二人の孫を腹の上に乗せて遊ぶことができた
平成17年だから私は62の現役時代である。
そして63歳の私の誕生日に写された写真があった。

コーヒーの豆を挽いていたら孫がよこせという。下の孫もいっしょになって「タケルもー」と要求している。
そして今年の二人の誕生日の写真である。
5月15日が下の孫
5月27日が上の孫
12年でこれだけ成長するのである。
と、いうことは、それだけ自分も年取ったということだ。
そんなことを思うと、これからの毎日は漫然とした日々を送るのではなく、充実した毎日を過ごさねばと思うのであるが・・・・。

2017年6月22日木曜日

心に引かれ尊敬できた上司、怨念今も冷めぬ上司

46年間もサラリーマンをやっておれば、いろんな上司や同僚、部下との出会いがあった。
ここでは数知れない上司との出会いについて記してみよう。
豊富な経験と部下の能力を見極め、仕事の方法、仕事の量、必要となるその期間について的確な指示を行うのが上司の役目である。

特に記憶に残る上司の一人に、多治見工事区勤務時代の上司である助役であった。
彼は海軍兵学校の最終卒業年次組で、頭脳明晰、指導力、人とのコミュニケーション能力も抜群であった。
理路整然としていて納得できる指導、第三者と仕事上の利害関係が生ずれば率先してホローしてくれた。独身寮で寝食を共にしてもセンスのいい好感の持てる人物であった。
だが、能登線建設の鵜飼工事区で短期間一緒だった区長が、中央本線中津川工事区長に赴任すると同時に私をスカウトしたため、5カ月という短期間で別れを余儀なくされてしまった。決してスカウトされてうれしく思わなかったのである。
その助役とは上司と部下になる関係はこれ以降なかったのである。

その9年後、広島県大野工事区勤務で上司だった人はやはり助役であった。ちなみに私は主任という立場であった。
彼は旧制岐阜中学卒。在学中に学制改革があり、高校3年生として残ることもできたが卒業の道を選び国鉄に就職した。技術畑に飛び込み優秀な技術者になっていた。
国鉄技術陣で主にトンネル畑を歩み、大野工事区赴任の前は六甲トンネルの難工事を担当した助役であった。
確固たる信念の持ち主で、断層破砕帯に遭遇し掘削面崩壊となっても的確な指示で請負者を指導した。オイルショックで業務量が爆発的に増えたが、この人と仕事をしている時が楽しかった。
この後長野県に転勤され、塩尻・諏訪間の塩嶺トンネルの難工事を担当された。その2年後、国鉄最高褒賞である功労賞を受賞された。だが、受賞後体調を崩され現職のまま亡くなられた。

もう一人尊敬する上司がその大野工事区におられたのである。役職は現場機関トップである区長。
時季は昭和49年の年末であった。現場は50年3月岡山・博多間開業に向けて列車の試運転が行われており、工事は列車運転がない夜間作業で実施されていた。夜明け前までの深夜工事監督業務は体が冷え切って震えながらの仕事であった。夜明けに仕事が終わり事務所に帰るのだが、事務所のストーブ全てに区長自ら火を入れて職員を迎えてくれた。
信頼関係も厚かった。

広島の仕事が終わり岐阜市へ転勤したのだが、1年後に豊橋工事区に転勤命令が出た。職名は助役。仕事は新幹線の保守基地増強工事であった。
保守基地工事の一つに分岐器組み立て台新設工事というのがあった。
工事用資材は材料置き場から在来線で積み込み、新幹線を亘って現場まで運搬する業務があった。トロリー(トロッコ)運転手続きは在来線保線指令や新幹線指令の許可を取らなけらばならない。これが煩雑で中々許可が出ない。どうしようか悩んでいたところ、新幹線豊橋駐在助役から「全部私に任せなさい」と思わぬ展開になった。
その助役は私より10年ほど先輩の高校の同窓生であった。この人も心から尊敬した上司である。

一方、今でも怨念が晴れない上司もいる。端的に人間性を表現するとすれば、「出世はゴマすりである」ことを実践して国鉄関連会社の部長にまで上り詰めた人である。年休は全て上司との接待ゴルフにあてたことを自慢していた。飲みに行くとあれがどうの、これがどうのと因縁付けて延々と語る。
上司に対する態度が良くないとケチを付けて説教するのである。「俺の顔をもっと立てろ」という要求なのだ。あまりにも不愉快なので「バカバカしい話は不愉快だ。帰る」と座を蹴ったこともあった。要するに自分に対してもっとゴマをすらんかい!ということなのだ。私は根からそんなことは大嫌いなので、私が退職するまで嫌がらせは続いた。今もその怨念は晴れない。

清算事業団が廃止されることから、国鉄を55歳で退職し県に再就職した。人事課長の面接を受け採用されたが、純粋な県職員ではなく県の出資会社で社団法人の職員となった。
その社団法人は県職員の出向者で構成されていた。
その出向者が私の給与等の処遇を見て不満を抱いたらしい。何でそんなに給料が高い?こんな思いを持つ職員はやはり「いやがらせ」をするものである。
現場管理で外出中でも昼食時には必ず帰れ!と指示を出した。大聖寺や小松へ出張していてもそうしろという。これは私という人間を頭から信用せず、単純な嫌がらせなのである。
これには耐え忍ぶしか方法はなかったのである。失業すれば即、大学と高校の娘の経費捻出に支障が出るのだ。この人間も嫌な上司なのかも知れない。


2017年6月20日火曜日

耳鼻科でCT検査と聴力試験

高齢医学科の主治医に難聴の経緯について話をしたところ、難聴は認知症に繋がる場合があるといわれ紹介状を作ってもらい前回耳鼻科で診てもらった。その際に、「次はCT検査をしてみましょう」と言われていて、本日医科大病院に行った。
受付を済ませて検査室の前で待つこと20分。すぐ検査台に寝かされた。
CT検査台のイメージ
検査部位ごとに検査台がかなり速い速度で前後に動いていた。およそ20分くらいで検査が終了した。

側頭骨CTとは?
耳を中心に、骨の細かい変化を写す撮影法で、 この撮影法の特徴は、主に4つである。
➀比較的、撮影範囲が狭い。(一般的に乳突蜂巣から側頭骨錐体上部まで)
➁左右対称性の重要性が高い。(ポジショニングが重要)
➂画像再構成には、薄いスライス厚(最低1mm、できれば0.5mm~0.8mm)と高分解能関数を用いる。
➃画像は左右の側頭骨を中心にした、拡大再構成をそれぞれ作成する。(FOV70~100mmф)

なぜ、側頭骨CTは骨に特化したような画像を再構成するのか?
それは、耳の構造の枠組みは、骨によって作られているので、骨の変化を見ることにより、病気の病態を把握することが出来るためだ。

では、実際にどのような画像が提供されているのかというと・・・
耳小骨(ジショウコツ)のわずかな変化もわかるため、中耳炎をはじめとした伝音難聴の診断には非常に有用で、中耳の手術では不可欠といっても過言ではないという。

また、感音難聴の場合も、内耳奇形などで形態的に異常がある場合も多くの例で診断可能です。

ということで検査が終了した。
次に耳鼻科の検査室へ。前回はどこの耳鼻科でも検査している聴力試験だったが、今回は検査方法が全く異なっていた。
ヘッドホンをつけ正常な右から検査開始。80デシベル、65、40と聞こえる音の大きさが違うのだが、何が聞こえたのか所定の用紙に記入せよと指示された。右は殆ど記録できた。
次に左を測定。80デシベルは回答率9割くらいだったが、40では1割ほどの回答率に終わった。

そして待つこと2時間。ようやく主治医の説明を聞いた。先ず、CT画像がパソコンに示された。
画像はだいたいこんなイメージ

先生曰く、「画像を見て骨の異常はないと判断する。今日の聴力検査の結果を踏まえ総合的に判断すれば、難聴の原因は蝸牛という部位が正常に機能していないと考えられる。この治療方法は残念ながらないが、右の聴力は全く支障がないのでちょっとの不都合だけである。したがって、暴飲暴食、タバコをやめて一年に1,2度の聴力試験を行っていかれることが望ましい」と診断された。
藁にもすがる思いで再診したのだが、ま、しょうない・・・か。

医科大病院の正面の建物は来月完成だとか。駐車場が近くなるのが嬉しい。

2017年6月19日月曜日

軽トラに外国人が熱い視線


1カ月ほど前になるだろうか、NHKの『所さん!大変ですよ』という番組を見ていたのだが、とある外国人バイヤーの活動が取り上げられた。
このバイヤーが商品として扱っているのはなんとボロボロになった日本の軽トラック。
どうやら製造から25年経過したオンボロ軽トラックを安く買い取ってアメリカで売りまくっているのだ。
しかもこのオンボロ軽トラがアメリカで大人気だというから驚きなのだ。



ボロボロ中古軽トラが売れる謎。なんとアメリカで大人気!アメリカには25年ルールといって新しいものは安全基準があるため古いものしか輸入出来ないらしい。アメリカにはこんなトラックがないから注目されるし改造しやすいと。

「軽トラは修理がしやすくて永遠に乗れる」と話すアメリカ人。

アメリカではそのまま「keitrucks」と呼ばれているようだ。

「軽トラ」の通称でお馴染みの軽トラックは、農家さんや工事関係の仕事の方には欠かせない存在である。
価格や維持費の安さ、性能面はもちろん利便性や扱い安さなどからコストパフォーマンスに定評のある軽トラだが、あくまでも実用本位の評価で、何となくダサい印象も否めないが、そんな軽トラが、アメリカを始めとする海外で人気沸騰しているという。
日本独特の進化を遂げた車種、軽トラックが海外で人気沸騰した理由と評価は25年以前に製造された軽トラなのにこうなのだ。
・軽トラは手頃な価格で買えるのにメチャメチャタフなんだよ、ちょっとした移動から農作業までオールマイティーに使える非常に優れたトラックだ。
・小さいけどトルクはしっかりあるから急な坂道でもアクセルを踏み込めば楽々登れるし、牽引能力も高い。
 しかもエアコンもちゃんと付いてるから超快適なんだ。
 さらに燃費が優れてるのも素晴しい!
・俺は自宅の除雪用に軽トラを使ってるけど最高だわこれ、エアコンも付いてるし快適そのものだ。
・うちでは除雪から荷物運び、ちょっとした移動まで大活躍してる。
(海外では軽トラ用の色んなキットが販売されてたりします。)
アメリカ国内で規制対象外の取り扱いをしている州もあるとか。不思議な国ではある。

海外諸国では殆ど輸入規制されており、公道は走行できない。
だが、価格が安い、故障しない、350kgも積載できる、オートマチック、エアコン完備、強力なトルク値、どれをとっても他の追随を許さないのが軽トラである。25年規制は見直しされるべきであろう。

日本の軽自動車が外国で使用されているのを見たことがある。
場所は中国。車種はスズキアルト。何と、タクシーで使用されていた。
タフな軽四はもっと輸出されるべきである。




2017年6月18日日曜日

永遠にその日は来ないか?トワイライトで豪遊の旅

かつてトワイライトエクスプレスといえば大阪・札幌間を走行した寝台特急列車である。
この列車は29年前の平成元年7月21日に1番列車が大阪駅を出発した。
歴史を重ねたこの列車ではあるが一昨年の2月12日、26年の歴史を閉じ最終ランとなる3月12日の寝台券が、発売の数秒(まさしくアッという間)で完売となった。

下り大阪発札幌行きは1,495.7kmを約22時間、上り札幌発大阪行きは1,508.5kmを約22時間50分かけて運行し、JR分割民営化後としては日本一
の営業キロでの長距離旅客列車であった。上りと下りが13kmも違うとは初めて知った。
金沢駅に停車中
間もなく札幌行き発車
この列車は金沢駅を午後3時40分前後に発車した。糸魚川あたりで日本海に沈む夕日を眺めながらフランス料理を堪能できる!私も乗って食べたかったなぁー。だが、寝台券の購入はいつも高競争率に勝つ必要があった。
シートは全て海側に据えられている
最後部のスイート 贅沢な時間を何人が過ごしたのだろう
さて、昨日(6月17日)、このトワイライトエクスプレスの2代目となる「瑞風」が大阪駅を出発した。 ダークグリーンの「走るホテル」が近畿、中国地方の各地を巡る。
国内の豪華寝台列車は、2013年にJR九州が「ななつ星in九州」の運行を開始。今年5月にはJR東日本の「トランスイート四季島」がデビューしたばかりで、ツアー型の「クルーズトレイン」は競争の時代に入る。


先発のJR九州はブームに火を付けた。安くて30万円、最高額は130万円前後となっており、JR東日本や西日本も高額の価格が設定されている。が、乗車券購入の倍率が7倍以上、日本にも富裕層が大勢いらっしゃるんだなぁーと羨望するのみである。
瑞風の出発セレモニー
餘部橋りょう付近を通過
私は昔々、鳥取から敦賀・金沢を目指して当地を車で走ったことがある。日本一高い鉄橋がここに架かっていたが、老朽化のためコンクリート橋に変わった。手前の橋脚横には当時の線路敷が展望台として整備されている。
旧余部鉄橋
スイートルーム

これが列車か?と驚きの設備である。
一生に1度くらいはこんな旅をしてみたいものだが、その日は永遠に来ないのかなぁ。




2017年6月17日土曜日

守秘義務違反

文科省役職員(元役職員を含む)が加計学園問題で守秘義務違反云々が物議を醸しだしている。
文書があったと証言しただけでも守秘義務違反に問われる場合があると閣僚のひとりが表明した。


これに対して国会では例外として扱うべきという意見や、マスコミにおいては「政権は文書の存在を語る者の口を封じるような行いさえした。(中略)考え違いもはなはだしい」。16日付朝日新聞社説がこう批判すれば、同日付毎日新聞社説も息を合わせて糾弾している。
「告発への威嚇ともとれる発言だ。政と官の関係のゆがみの表れだろう」。
このように「どこか狂っている」という考え方を示した。


平成22年9月に尖閣諸島(沖縄県石垣市)沖で、中国漁船が海上保安庁の巡視船に体当たりする事件があった。当時の菅直人内閣は海保が即日公開する予定だった衝突映像を隠蔽したため、海上保安官だった一色正春氏が義憤にかられ、映像をインターネットに流した。




この時、朝日社説は「政府や国会の意思に反することであり、許されない」、毎日社説は「国家公務員が政権の方針と国会の判断に公然と異を唱えた『倒閣運動』でもある」と決め付けた。菅内閣の仙谷由人官房長官は「由々しき事件だ。徹底的に調べないといけない」と強調していた。


菅内閣の「ご意向」に反する公務員はけしからんと説いた新聞が、今では文書を漏らした職員を英雄扱いして持ち上げている。7年前に立ち返り、朝日・毎日両紙は一色氏に謝罪して出直したらどうかということになる

「職務上知りえた秘密は他に漏らしてはならない」の条文が守秘義務の縛りである。
一色正春氏の守秘義務違反は大多数の国民から支持があるであろう。
加計問題の守秘義務違反とはスケールが全く違う異質なものである。



2017年6月16日金曜日

老い支度や終活に感心ありますか?「いいえ」長嶋茂雄氏

脳梗塞を患って11年たったという長嶋茂雄元巨人軍監督。
朝5時半起床、朝食後6時半から3時間のトレーニング、午後も仕事かトレーニングを日課として続けているという。
年に3足も靴を新調するという。もちろん激しいトレーニングで靴がもたないからだそうだ。

御年79歳、80歳になったら今の体調を維持できるかとの問いに、大丈夫。90歳までいけると答えた。
比較するのもおこがましいが、一昨日、脚立の上で2時間ほど作業しただけで、今日も脚や腕が痛む我が身ではある。80歳近くになっても激しいトレーニングを続けている長嶋氏に敬服するばかりである。

今年92歳の近所の男性は先週から週2回、ディケアセンターに通い始めた。
最近まで町内の集会所で開催している週2回のカラオケ同好会に積極的に参加していた人で、新曲も次々と歌っていた。
75歳まで現役バリバリの電気工事屋さん。退職後は老人会の副会長を長くやっておられ、そのあと会長に就任され10年近く活躍をされた。90名を擁する校下のグラウンドゴルフクラブで常にトップクラスの成績を維持されていたりもした。

ところが3年ほど前から足が痛くてグラウンドゴルフはやめ、また、1年ほど前に、「曜日がわからんようになった」とかで老人会の役員会やカラオケ同好会を欠席される日が多くなってきた。
「今日、自転車に乗っていて2回も溝に落ちた」という話をされたり、ゴミ出しの日に出してはいけないごみも一緒に袋にいれたり、最近になって急激に老化が進んだように見受けられた。
2週間程前にマイカーを処分して免許証も返納したという。何でも、お孫さんから危ないからもうやめろと強く勧められたのだという。

素晴らしい生き方をしている高齢者のモデルといわれ、92歳まで病気らしい病気はしたことがないと自慢していた人ではあるが、このあまりにも急変なことには驚きを禁じ得ない。
明日は我が身かと一抹の不安を覚える。

2017年6月14日水曜日

アンズ豊作!

今年も6月中旬に入って、そろそろアンズの収穫をと考えていたところ、今朝からいい天気なので脚立とかごを持って裏に回った。
アンズは収穫時期の数日前から自然と落下が盛んになる。全部落ちてしまうのではないかと心配になるくらい相当数が落ちるのである。
去年の収穫は6月13日と記録されているので今年は1日遅い。寒かったからなのかな?

収穫作業を進めていると、「今年は豊作なのだなぁ」と思える手ごたえがあった。一昨年、造園屋さんに大々的に剪定をしてもらった。そのせいか、昨年は全部で100個くらいしか実らずの不作だった。いつもアンズの実るのを今か今かと楽しみにしてくれる友人に、「不作なので20個しか持って来れなかった」と詫びたものであるが、今年は5,60個くらいは持っていけそうなので、うれしそうな顔が見られそうだ。

収穫中におばさんが現れて、「それ、アンズでしょ。少し分けてほしい!」と300円財布から取り出して受け取れという。そして「バスの時間がないので後で家にうかがいます」と。「今年は豊作だからあげるよ。あとで家に取りに来てね」と伝え、おばさんはバス停に向かった。大通りから見えにくいのに、どうしてアンズを収穫している姿を見つけたのか不思議に思う。

午前中の収穫

午後、さらに1かご増えた  「豊作だー!」
アンズは熟して食べるのが最も美味い。だが、日持ちが短くすぐ腐ってしまうのが難点。
従って例年は、①シロップ漬け ②梅干し風に漬ける ③ジャム の3通りを作っている。
ジャムはアンズ1対砂糖1で煮詰めるのだが、酸味がかなり強いため孫は食べてくれないが、私はすっぱ味が大好きである。

さて、ほかにアンズのおいしい食べ方がないのかレシピを調べた。
レモンやペクチンを加えると酸味が薄くなるのかな
これは簡単そうだ

アンズの蜂蜜漬けもよさそう
今年は干しアンズにチャレンジしてみよう
毎年この時期にアンズの木にアメリカシロヒトリが巣を作るのだが、どういう訳か寄生していない。
だが油断しているとあっという間に葉を食い尽くされてしまうで、油断禁物である。



2017年6月13日火曜日

ギャンブル&ニコチン依存症との格闘履歴

去年12月、「特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律案」、略して「IR推進法案」が可決された。IRとはカジノだけでなく、ホテルやショッピングモール、巨大なMICE(会議場・展示場等ビジネス関連施設のこと)を含む複合観光施設を指すが、IRで観光客を呼び込み、雇用が生まれ、地域の活性化につながると期待されているのではあるが・・・・

ここで懸念されるのがギャンブル中毒者への対策である。ある大学教授は「これは将来ではなく現時点での問題。国は、公営競技やパチンコなども含め、実態を精査し、総合的な対策の枠組みを制度として設けることが必要」と論じる。すでに日本はギャンブル大国であり、厚生労働省によると536万人ものギャンブル依存症の疑いがある人がいるからだ・・・・と。
例:パチンコ依存症の場合
実は私も536万人の一人であった。最も重症だったのはパチンコ依存症であった。昼休みの時間に職場からパチンコ屋に直行。1時直前に残った玉を箱にいれて店に預けた。夕食後もパチンコ屋へ直行した。日曜日は開店から閉店まで入り浸った。しかし、借金するほどのめり込むことはなかったが、20年間ははまっていたといえる。40代でこれを脱した。

広島在職中は宮島競艇が近かったためボートにはまった。コーナーリングの技術で勝負が決まるのであるが、予想屋を当てにして大いに外れた。競輪や競馬にしても共通して言えることは、負けが込むと財布の中身のお札が紙くずのように思えてくることだ。千円札の値打ちが全くなくなるのだ。レースが終わって、もうやめようかなぁーと思うときもあるのだが、時間がたつとどーしても会場に足を向けてしまうことになる。
宮島競艇場

岐阜では競輪にはまった
私の場合、これらに麻雀が複合していた。現場事務所では深夜に仕事を終え、それから宿直部屋で麻雀をしたのである。麻雀はツケで給料日に精算する。半チャンごとに〆てハンディを胴元が召し上げる。頻繁にやるものだから、てら銭で全員九州旅行に出かけることができたというメリットはあったのだが・・・。
しかし、50歳になる前に一切のギャンブル依存症から脱することができた。
元関脇の貴闘力もギャンブル依存症だったという
どうしても数回のチャレンジを試みても元に戻ってしまったのであった。20歳から始めたタバコなのだ。あれから50数年たって今があるのだが。

5,6年前の大幅な値上げがあった時に女房に、「2万円分だけ買いだめして、それが無くなったら禁煙する」と宣言。ところが、これは無くなってたった1か月の禁煙で元に戻ってしまった。
そして今年の4月末、肺炎球菌とやらで入院。当然入院中は禁煙。約2週間で退院したのだが、何と現在も禁煙は継続しているのである。時々、強い誘惑感に悩まされるのだが、それを乗り越えたいと現在奮闘中である。