2017年1月31日火曜日

奥能登の夜明けを告げる記録写真

歴史的な出来事の記録となる1枚の写真があった。
時は今から遡ること54年前の昭和38年5月。
蒸気機関車C58が能登町田ノ浦海岸付近を走行する写真である。機関車先頭部にしがみついている4人の姿が写されている。左右に制帽の職員、その間に二人のハンチングを冠った姿がある。ナンバープレート前面の白い帽子を冠っている人間は何と二十歳になった頃の私の姿である。
制帽の二人は金沢鉄道管理局所属の職員で、ハンチング帽の二人は岐阜工事局小木工事区の建設関係職員。機関車が現場内を安全に走行できるように誘導するのが任務である。

前年、宇出津駅から松波に向かって軌道敷設工事が着手され、能登小木駅付近までの約10kmの軌道工事が進捗して完成したことから、「踏み固め試運転」を実施したときの写真である。


時ならぬ蒸気の排気音と汽笛に驚いた地元の住民が、一斉に外に飛び出て嬉しそうな笑顔を浮かべて手を振った。この時ほど郷土のために貢献したという気持ちが強く湧いたことはない。
この時代、トンネル工事を除いて一般的な工事関係者はヘルメットを冠らなかった。建設業者の作業員でもねじり鉢巻きか麦わら帽の時代だった。全職員のヘルメット着用が義務付けされるには後2年を要した。

七尾線の旅客列車や貨物列車の牽引はC11が使用された。
C11型蒸気機関車
C58とC11の違いは牽引力に格段の差がある。C58はテンダー車という石炭と水を搭載した車両を連結してセットになっているが、C11はタンク型と称し、機関車と一体化したタンクに石炭と水を積んでいた。

踏み固め試運転には重量のあるC58以上とすることが義務付けられていた。
踏み固め試運転の実施要領は時速5km、10km、15kmで3回走行することが定められているので、10kmを3往復して試運転が終了した。

今はもう能登線は既になく、七尾線には電車やディゼル車が軽やかに走行している。時代の変遷に往時の記憶が薄れゆくのが歯がゆい。
最近になってC58の復活に取り組む動きが出てきたのが嬉しく思う。


2017年1月29日日曜日

台湾人の日本語


中国と台湾ではこの時期は春節(旧正月)で、長期連休にあわせて金沢にも大勢の観光客が訪れているという。
以下、産経記事から
台湾の蔡英文総統が28日の春節(旧正月)に合わせて英語と日本語で新年のあいさつをツイッターで投稿したところ、中国から「なぜ中国語で書かないのか」と批判の書き込みが相次いだ。これに対し日本や台湾からも反論が投稿され、激論となった。台湾紙、自由時報(電子版)が28日、伝えた。

 蔡氏は大みそかにあたる27日、英語と同時に日本語で「日本の皆様、今年は実のある素晴らしい一年となりますよう、心よりお祈り致します」と書いた。

 中国からは「ごますり」「日本が台湾を侵略したことを忘れたのか」などと批判が殺到。逆に日本からは日台の絆の重要性を訴える投稿が相次ぎ、台湾からも「中国は干渉しないで」といった反発が出て白熱した論争となった。

 蔡氏は、日本語でのツイッター利用者が多いため、日本語でも書いたという。(共同)

蔡英文総統は日本語が堪能と見られる。
歴代大統領の「掟」を破り、トランプ大統領が蔡総統と電話会談して「一つの中国」の殻を破った。日本はアメリカに倣って表向きであるが国交がないことになっている。しかし、民間の交流は盛んに行われているのは承知のとおりである。

丁度20年前、私は台湾に旅行した。台北には大正時代の日本の街並み風景が残っているのには驚いた。自由散策で台北市内を歩き回ったときに道に迷った。地図を見てもさっぱり見当がつかないので、恐る恐る洗車をしていた老人に身振り手振りで道を尋ねた。ところが、「そこを右にまわって100mほど進むとそこに行けますよ」と流暢な日本語が返ってきた。「エーッ何で?」と驚いてありがとうと礼を言ったら「どういたしまして」と返答された。
台北駅
ラッシュアワーで凄いことに
そればかりではない。台湾の東側海岸のほぼ中央部に花蓮という都市がある。ホテルの向かい側に土産物屋があった。
日本語の旗で誘客
40代の店主が日本語で営業していた。聞く、話す、ほぼ満点に近い。「店の奥に母親がいます。日本のことが大好きなんです」というので奥に行った。品のいいおばあちゃんが座っていた。にこにこしながら「ようこそいらっしゃいました」とあいさつ。そして昔の話を語り始めた。純粋な日本語に聞きほれた。「昔は何をされていたんですか」と聞いたら「小学校の先生をしていました」と。
この時はまだ「八田與市」のことを知らなかったので聞くことできず残念に思う。

聞くところによると、台南市の公園に高齢者の集いがあって、その時、参加者全員が日本の軍歌を合唱しているという。本気で「日本に戻りたい」という声があるのだとか。

竹島に上陸した知事がいたり、慰安婦で謝罪を求めたり、数々の反日活動が活発な韓国。
同じ時期に日本の植民地であった両国だが、この違いは一体何だろうと不思議に思う。



2017年1月27日金曜日

常識が覆る世相

アメリカファーストという言葉は都民ファーストという言葉より新しいが、比較にならないほどその影響力は大きい。
トランプ大統領が就任して1週間に過ぎないが、矢継ぎ早に13の大統領令に署名したという。歴代大統領が築いた功績をいとも簡単に覆している。そしてまた、たった140字で世界が踊らされている。類い稀にみる賢者なのか愚者なのかまだその真の姿が見えない。

だが、クリントン候補が得票数が多いという結果をねつ造だと断言し、就任式典で集まった群衆が歴代大統領で最も少ないという写真を嘘偽りだと喚き、支持率41%という調査結果も嘘の記事だと強弁するあたりから、その真の姿は後者のような気がする。
米国第一!と演説するトランプ大統領
中国、メキシコ、そして日本もターゲットにしているという。米国で日本車が売れているが日本では米車が売れていない。貿易が不均衡の証明だという論法らしい。来月10日、日米首脳会談が予定されているが、凶と出るか吉と出るか予断は許されない。

一方、小池都知事の都民ファーストは、知事就任以降小池劇場が連続して続いた。否、今も続いている。
歴代の都知事の中で、一挙手一投足がこれほどテレビを賑わしたことはない。
初登庁
 豊洲の盛土問題、地下汚染水、オリンピック会場建設費等、これらは舛添知事が交代していなければ世間に明らかになることはなかったことだろう。
毎週末、湯河原別荘への議会答弁
対馬のお寺から韓国の窃盗団が仏像を盗んだ。その仏像は500年前、倭寇が強奪したと認め韓国の寺に所有権があると判決が下りた。余りにも馬鹿々々しい話で、韓国は常識が通用しない国であることが証明された。






2017年1月24日火曜日

アパの客室設置図書は撤去せず!

中国政府がアパホテルに設置されている『本当の日本の歴史 理論近現代史』等について、南京大虐殺を否定するものだとして批判的なコメントを発表した。
動画がインターネット上にアップされたことをきっかけに、意見や問い合わせが殺到しているという。
TVバラエティ番組でもこの問題が取り上げられ、客室に設置された図書の撤去は考えていないとする元谷代表の見解に賛同する意見が相次いでいる。
中国人がいなければ・・・と以外にも宿泊予約が増加しているという。
元谷代表が藤誠志のペンネームで毎月発行しているapple townの社会時評エッセイを1冊にまとめた書籍なのだ。
中国メディアは元谷代表について日本の右翼だと決めつけている。

私は25年前、土地開発関係の仕事で元谷代表と何回か会ったことがある。金沢駅前と大垣駅前のホテル建設関係の業務であった。
アパホテル金沢駅前
アパホテル大垣駅前
当時のアパグループは信開グループと称していた。本社は大豆田大橋北詰のマンション1階にある。(現在は本店)

「信開は自転車操業で間もなく倒産する」という風評が流れていた時代で、私もそのような先入観を持って対面した。本社1階の奥まった部屋に社長室があった。当方の関係者3名が入室を終えた直後、自動的にドアがロックされたのには驚きを禁じ得なかった。社長室には旅客機2機のモデルが飾られていた。「趣味ですか?」と尋ねたところ、「イギリスの旅客会社にレンタルしている我社所有のモデルだ」と。そして、「この旅客機の資金調達を投資信託によったが、その償却期限が間もなく終わるため利益に課税されることになるので資金運用の新たな方策を考えねばならない時期にある」と。
「最近、複数の銀行が我社に金を借りてくれと言われている」。

「???」。「下馬評とずいぶん違うじゃないか」と内心そんな考えがよぎった。
なお代表の話は続いた。「我社はバブル時に一切土地購入はしなかった。現在は誰もが見向きもしない土地を購入し、付加価値をつけて売却する。これからは金融環境を鑑みて大規模投資を開始する。マンション1万室、ホテル1万室に向かって取り組みを開始する」とぶち上げたのである。

会議を終えて部屋を出てから、「何という大風呂敷!」と思ったものである。しかし、職場に戻って帝国データバンクの資料を閲覧して驚いた。資力・信用とも優良企業そのものではないか。如何に風評とはいい加減なものであるかを知ることとなった。
あれから25年、着々と計画を進め日本全国にマンションとホテル事業を展開し、今ではアメリカでもホテルを開業した。
アパ代表恐るべしである。

2017年1月11日水曜日

能登の親不知

「能登の親不知」は知る人ぞ知る秘境である。
海岸からいきなりそそりたつ断崖絶壁。延長にして僅か550mなのだが、江戸中期まではこの区間は能登最大の難所といわれ交通手段がなかった。
その場所は輪島市曽々木と珠洲市真浦間にある。
私が小学生の頃はバスの終点が輪島方は曽々木、珠洲方は真浦まで。当然この区間は車が通る道路がなかった。

人が通れる道は江戸中期の1780(安永9)年~1792(寛政4)年の13年間に亘ってこつこつと開削し、人が何とかすれ違いできる道が開通した。これを麒山道という。
この難工事に取り組んだのは海蔵寺八代住職の麒山瑞鱗(きざんずいりん)和尚。「能登の親不知」とおそれられた能登最大の難所を「寺で座るのも禅だが、人が安全に行き来できる道を開くのも、これも禅の道」と加越能3か国を回って浄財を集めることから始め、たった一人で13年の歳月を要して麒山道を開いた偉人なのだ。
それから約100年後の 明治20年(1887)、峻険な道に手掘りのトンネルが開通した。 そこを麒山道トンネル(八世乃洞門トンネル)という。
もしかしてこの和尚は、九州にある青の洞門を一人で掘った禅海和尚の50年前の出来事にあやかったのかも知れない。
麒山道は現在、波の花道と命名されている。
トンネル入り口の左側に麒山道のアプローチがある
さて、その波の花道にご案内しよう。
しばらくは平坦な道なのだが
 平坦な道をしばらく歩くと福ケ穴という洞穴に遭遇する。幅10m、奥行き70m。その途中に国道のトンネルが交差している。このため、往時の風情が壊された感がする。
福ケ穴
その最奥に不動明王が鎮座している。小学生だったころ、照明なしで最奥まで行くのは怖い思いをした。
不動明王などの仏像
この洞穴を後にするとすぐ手掘りのトンネルに入る。結構長いトンネルもくぐらなければならない。
このトンネルは「せっぷんトンネル」と命名された
東宝映画「忘却の花びら」のロケ地。昭和32年公開。司葉子のキスシーンを見るためロケには近在のギャルが押し掛けた。今では80歳前後のおばあちゃん達である。

やがて最も険しい峠越えとなる
八世乃洞門付近は断崖絶壁
波の花道終点 垂水の滝付近
かなりのアップダウン、延長550mの波の花道、いかがでしたか。でも最近は全線を歩くことができないようです。途中、通行止めとの情報があります。

波の花道の約500m手前に曽々木の名所となっている窓岩があります。若いころそこに登ってみました。そこから眺める景色は絶景でした。
窓岩
昭和38年に、八世乃洞門と曽々木隧道が開通し国道として車道がつながるが、2007年の
能登半島地震で被災。このため内陸へ迂回した八世乃洞門新トンネルが、 2009年12月に完成した。一度車から降りて散歩されることをお勧めします。駐車場は垂水の滝すぐ傍に無料の駐車場があります。


2017年1月9日月曜日

日本の砂浜が壊滅の危機

現在、日本全国の砂浜の浸食が激しくなっているという。代表的な砂丘である鳥取砂丘も自然的な砂の供給がなくなり、その対策に大わらわだったり、九十九里海岸では14の海水浴場が閉鎖になったり、天橋立の松林が連なった細い砂浜も浸食が進んでいるという。
全国的に稀な渚ドライブウェーとして有名な千里浜もその例外ではない。
原因は河川の砂防設備が整備されたことによるものである。
千里浜は大古の昔から近代に至るまで、手取川から自然的に供給された砂で出来上がった。
昭和43年に撮影した写真があるが、現在の状況と比較すると極端に違ったことがわかる。
現在の状況 幅は30m前後だという
昭和43年当時 幅70mはあったといわれる
手取ダムの完成や白山山系の砂防ダムが整備されたのは近年になってからである。
砂防設備が整備された
それらにより、手取川からの砂の供給が途絶えたのである。
この話を白峰のあるホテルの女将さんとしていた時、突然その女将さんが怒り出した。
「白峰は土砂災害の苦難と長い間苦闘してきた。地元の苦労も知らないでよくもそんなことが言える・・・」と。
そのとおりであるが、千里浜が浸食された原因がこれにあることを知ってもらいたかっただけである。
県はその対策として、人口リーフの離岸堤や砂を運搬して養浜工事を進めている。
養浜工事中
だが、昨年は波浪の影響でドライブウエーの閉鎖率が30%前後に上ったという。手取川から流れ出た砂が、風と潮流により千里浜まで運ばれて広い砂浜ができたのであるが、如何に自然の営みが大きかったかがわかる。
昨年の賑わい 心細い車道となった
砂像まつりが人気である
日本全国の砂浜のジレンマについて考察してみた。


2017年1月7日土曜日

仕事始めを御用始めと言われた頃

正月休みが終わり1月4日は昔から、官庁や企業の業務が開始される日で仕事始めという。
それを私が退職する20年前までは、何の違和感もなく御用始めと称していた。昭和の終わり頃までだろうか。どうして呼称が変わったのかはっきりとした記憶がない。

パソコンデータを整理していたら、私がまだ独身時代の昭和43年の御用始めの写真を見つけた。
その写真を見ながら当時の御用始めのセレモニーを思い出した。
始業は8時30分。自分のテーブルの椅子に掛け、課員と雑談しながら時間を過ごし、10時、局長の訓示を聞くため新館講堂に全職員(約400名)が集合し居並んだ。

局長曰く、「わが国は高速道路の整備に伴い、これから急速にモーターリゼーションの時代となる。やがては皆さんもマイカーを持つことになるだろう・・・」と。
当時の給料は2万円前後。サニーやカローラが70万円、とうてい手が届かない高嶺の花なのに、マイカーブームがすぐ到来するとは信じられなかった。しかし、5年後には私もマイカーを持つことができた。
局長の訓示が終わると各課ごとに記念写真撮影となる。
土木課全職員
各課で40数名がお神酒を酌み交わし、雑談に盛り上がった。
私は労組分会の青年部副部長のポストにあったので組合事務所にも顔を出した。
組合関係者一同
正午前にはお開きとなって、幹部は挨拶回りという名目で各課の業務が解放される。
そして毎年の如く課の有志数名が安全祈願のため犬山の成田山に出かけた。(準公務)
名鉄新岐阜駅から犬山遊園駅まで約50分。駅からモノレールに乗り換え成田山に到着する。
今の犬山成田山
お堂に入り護摩の煙を浴びながらお詣りした。ザルが回され、身に着けている財布等をその中に入れ護摩の煙にかざされる。1年間、無事息災の御利益があるとのことであった。
一方、安全祈願をしなかった者の何人かは、課長の自宅に押し掛けた。課長の奥さんはさぞ大変だっただろうと思うのである。
国鉄分割民営化の20年前の御用始めであった。
今年の石川県仕事始めのセレモニー

2017年1月4日水曜日

海賊と呼ばれた男

出光興産と昭和シェルの合併問題がこじれている。出光の創家側が反対しているためである。
出光興産の創業者出光佐三の経営方針は「大家族主義」。定年制なし、出勤簿なし、労働組合なしで経営を貫いた。
一方の昭和シェルは外資系石油メジャー企業である。合理的経営を旨とする企業とは、交わることがない水と油の関係なのだ。

戦前、海外の支店で勤務していた出光商店の社員が終戦で続々帰還し、1,000人を超える社員を受け入れたが、仕事は当然皆無。だが、解雇は一切しなかった。
終戦直後、出光佐三は社員を前に「日本には三千年の歴史がある。戦争に負けたからと言って、大国民の誇りを失ってはならない。すべてを失おうとも、日本人がいるかぎり、この国は必ずや再び立ち上がる日が来る」と訓示を述べた。
神戸大学の前身である神戸高商卒。卒論は、石炭と石油の将来性について取り上げ、石油の優位性に軍配をあげる論文を書き上げた先見の明を持った男である。

なぜ海賊と呼ばれたのか。
石油の販売は特約店の縄張りの掟が厳しく、新参者の企業が入る余地は全くなかった時代である。では、どうしたか。
「陸の縄張りは海には関係ない」という誰も考えが及ばない論法で、船に灯油を積み込み、直接漁船に給油して回った。これが「海賊と呼ばれた男」の所以である。
映画のシーン 灯油を積んで売り捌く
ラジオの修理、旧海軍の石油タンクの油かす採取 などで当場を凌ぎ、進駐軍の通訳を介して石油メジャーの割り当て枠を確保し石油販売を続けた。
昭和28年、出光興産所有のタンカー日章丸が神戸港から船長ほか数人のみが目的地を知る極秘裏の船旅に出た。前年、イギリス国営企業をイランが国有化を宣言。怒ったイギリスは軍艦を派遣し石油を積んだ船を拿捕していた。
そんな環境の中、日章丸はサウジアラビアで船長が数十人の乗組員全員を集め、「本船はイランに向かう」と宣言したところ、全員が「万歳」と叫んだという。生命の危険を顧みずにである。
帰りの航路はイギリスの軍艦の目をくらますため、インドネシアの南方を迂回するルートを辿った。
日章丸の帰還ルート
川崎港には世界各国の報道機関が詰めかけたという。世界の主要紙1面にトップニュースとして大々的に報道された。当然イギリスは石油の所有権を主張し裁判となった。裁判長はイギリスの主張を無効であると判決。直ちに控訴したが、世論に押され2日後に控訴を取り下げた。
いわゆる「日章丸事件」と称される。
この事件により「海賊と呼ばれた男」の名声がひときわ高まった。

昨年、ある人(今はもう故人となられた)からこの本は面白いから読んでみたらと勧められた。
百田尚樹著「海賊と呼ばれた男」である。現在400万部を超えるベストセラーとなっている。
先月中旬、イオンの映画館へ。映画化した「海賊と呼ばれた男」である。
岡田准一主演、中々好演であった。
血沸き肉躍る日本男児出光佐三の物語である。ご鑑賞をお勧めします。

2017年1月3日火曜日

元日の初詣

金沢の元日は雪もなく青空が見える穏やかな1日だった。
午前12時前、自宅すぐそばのバス停から乗客2,3名のバスに乗ったが、途中の乗降客もまばらだった。しかし、東山付近は大型観光バスが5,6台が駐車しており、橋場付近まで観光客が大勢歩いていた。新幹線開通以降、一気に人気が上昇し今なお衰えることはない。
香林坊で下車し、徒歩で兼六園に向かった。
兼六園の坂道
目的地は金沢神社。孫が高校受験なので合格祈願をすることにした。
神社前は長蛇の列。ため息が出たが、気を取り直して最後尾に並んだ。
1時間余も並んだ
行列中に立札に気付いた
ここが板屋平四郎を祀る板屋神社搖拝所
このあたりで昆布茶が振る舞われる
合格祈願の絵馬
絵馬に備え付けの筆で祈願文を記しぶら下げた。
伏見稲荷のような鳥居をくぐった
久しぶりに金城霊沢を覗いた
中国語の観光客で賑わっていた
金沢城から玉泉院丸庭園へ
香林坊に戻り、バスで金沢駅に向かった。
観光客は意外と少なめ
大阪方面への乗客が多かった
雨風なし、雪なし、傘いらずの兼六園等を回ることができ、いい1日だった。