2017年10月31日火曜日

空に舞い上がる滝

能登半島の外浦はこれから厳しい季節風が吹きすさぶシーズンとなる。今日の朝刊にそれに関する記事が掲載された。
曽々木海岸と真浦海岸の境界にトンネルの出口がある。そのトンネル出口から20mほどの岩壁に垂水の滝がある。強い季節風が岩壁に突き当たり、その風が滝の流れを上下逆転させるのだ。


この写真には波の華は写っていない。次々と押し寄せる高波が岩にぶつかり波の華が発生する。その波の華が逆さ滝の水しぶきと交わり、空中を舞う。その光景は圧巻である。この光景は年末あたりからか。
曽々木や真浦の集落には間垣はない。大沢地区は曽々木よりも季節風が強いのだろうか。

垂水の滝付近の海岸は眺望に優れており、海水浴は特に爽快である。海水浴を終えるとこの垂水の滝で打たれ体を洗う。夏場は水量が少ないが不思議と枯れることがない。

50年前に職場の仲間とこの海岸で海水浴をした
2.3カ月前くらいに、このブログで能登の親知らずというタイトルで記事を書いたが、その親知らずの入口にこの垂水の滝がある。
能登には名所が沢山あるが、私はこの一帯の風景が特にお気に入りなのだ。


2017年10月30日月曜日

認知機能検査の受検

今日は運転免許証の更新に必要な認知機能検査を受検した。
試験場は家から車で数分の東部自動車学校。
9:30までに受付を済ませて喫茶店の片隅に受検者用のテーブルが設けてありそこに。
受験者は男3、女2の5人だった。

9:45分となって講習室に入り係員が答案用紙を配付した。「指示があるまでページをめくらないでください」とくどい程注意があった。
ページをめくってくださいと指示があり、1ページを開いた。そのページは年、月、日、曜日、氏名、生年月日、現在時刻の記入欄であった。

次に係員が絵が描かれたパネルを取り出して、大砲、オルガン、耳、ラジオの4種類の絵を武器・楽器・人体・電気製品と覚えるよう指導があった。絵はさらに2枚、トータルで12種類の絵が示され、記憶して後で回答するよう指示があった。
そしてページをめくり、何があったかを全て答えなさいという問題であった。
12のうち3つがどうしても思い出せなかった。

次にページをめくると、パネルの絵に描かれた武器・楽器・人体等を12種類あげて描かれていた物の名称を記入して欄を埋めるという問題。こらは全部クリアーできた。
次は1から9までの数字が並んだページ。これに係員が指示する数字に斜線を引いてくださいという問題。1と4に斜線を入れてくださいというページと、もう1枚には3,5,7に斜線を引くという問題であった。後で見落としがあるのに気付いたが訂正不可。

最後は時計を書けと指示があり、描き終わったらそれに8時20分の針を書きなさいと指示があった。これで試験が完了した。採点に30分必要なので高齢者安全運転に関するVTRを鑑賞させられた。

30分経過し採点結果を一人ひとり呼び出されて通知され、運転講習会の予定日を告げられた。「あなたの得点は92点です。優秀ですよ。」と。
11月16日の講習会で更新手続きに進むことになった。今日は案ずるより産むがやすしの日であった。

2017年10月29日日曜日

雨の中の熱き応援

第3回金沢マラソンの応援のため、町会が60人の動員をかけ午前8時30分、荒屋バス停付近に配車された4台の車に分乗し、指定場所での応援に向かった。
3日前の天気予報では曇りだったのだが、その後、雨の予報に変わった。予報どおり雨は降ってきたのだった。

応援指定場所はファミリーマート千木店前の道路を挟んだ対面だった。8時50分頃には到着したが、選手通過までまだ2時間余もある。イス20脚と飲み物が運搬され、飲み物とメガホン、応援棒等が配付された。

町会長はトイレの場所を確認するためガソリンスタンド裏まで調査に行った。ほかの世話焼きが民家のトイレの使用をお願いして回り、2軒ほど了承してもらったと大声で説明があった。
トラックターミナルのラーメン店のトイレもOKをもらったという。
まだ降り出してはいない
そのうち徐々に応援団が多くなってきた。選手が来るまで雑談に花が咲いた。
11時15分、先頭ランナーが通過した。残念ながらその写真はピンボケで撮影失敗だった。
町会応援団配置完了!
沿道応援団は各町会の動員であるが、十数か所の応援スポットには小学校コーラス、中学高校のブラス、伝統的芸能の太鼓演技等々の出演依頼は各町会連合会が手配、給水所、補食所、交通安全管理等の市管轄ボランティアは4千人を超えるという。沿道応援を含めると、金沢市民総出のマラソンといえるだろう。

今年のランナーは13,000人以上だと聞く。先頭ランナーから10位くらいまでは間隔が疎らだったが、30分もしないうちに道幅一杯にランナーがあふれだした。

二番手はVTRカメラの取材を受けながらの走行
ドッと来た!
かなり雨脚が強くなってきた
荒屋団地応援団のまとまった応援で、ハイタッチの選手が多くあった。応援する者と選手とのふれあい、心の交流があった。
仮装選手もかなりあった
トップランナーが通過して約1時間半、12時半を回って引き上げることになった。
喉が枯れるくらいの大きな声で応援し、選手もそれに応えてくれた。
来年も応援団に加わりたい。

2017年10月28日土曜日

風呂屋の絵

金沢大学病院前にかなり広い道路がある。石引通りに突き当たるまでの200mくらいだろうか。その中間部あたりに大きな銭湯があった。昭和30年代初期、私はこの通りに面した運送屋の2階で下宿していた。当時は風呂のある家庭は殆どなかった。30円持って週に3度くらい銭湯に通った。

そこの銭湯には富士山の絵があった。湯船から眺めた大きな絵は臨場感があった。
今日の朝刊に銭湯に絵を描く絵師の記事が掲載され、下宿時代を思い出したのである。


 現在、銭湯の絵師は3人だという。何か月か前にテレビ特集に出ていた30代の女性もそのうちの一人である。83才だという丸山清人氏はまだ現役で活躍されている。

丸山清人氏の絵
銭湯の絵は富士山が定番。と思いきや、何と立山と「かがやき」が描かれた銭湯があるのだとか。


私の実家の風呂にタイル張りの富士の絵があった。だが銭湯の絵はパノラマで迫力がある。そういえばシニアクラブで何度か行ったテルメには無かったような気がするのだが。

2017年10月27日金曜日

金沢マラソンの応援

金沢マラソンが二日後に迫ってきた。天候は曇りの予報でまずまずである。1週間ほど前に町会長から指定場所での応援協力依頼があった。上部機関から60人の割り当てがあったという。去年の応援場所は千木のコンビニ前駐車場であったが、今年はそのトイメンにしたという。9時半から12時半まで応援するよう決められているが、去年の場所だと道路横断禁止のためランナーがいなくなるまで家に帰れないので、今年は横断しなくてもよい場所にしたという。町会の適切な判断ではある。

初回は3年前。市内十数か所に応援スポットが設けられていた。市の主管課が予定場所として指定したのである。小坂・夕日寺・千坂・森本以北の応援スポットは神谷内交差点付近に予定されていた。だが、調査したところパチンコ屋の駐車場を使用することになり、営業補償問題が発生することが懸念された。

当時私は応援スポット担当の役員をしていた関係で、市役所で行われた打ち合わせ会で位置変更を提案した。小坂交差点から東金沢駅に至る道路が全面通行禁止となること、横断歩道橋があって小坂小学校のトイレが使用できる等のメリットがあることから、当該場所に変更申し入れをした。結果的にそこが承認された。

道路上に5張りのテントを設置して北鳴中ブラス、小坂小合唱団、太鼓芸能等を実施した。

路上テントで応援イベント実施
2回以降からここが応援スポットとして定着した。
金沢マラソンは沿道の応援に切れ目がないとランナーから好評を得ているという。
その陰に町会の協力があることを忘れてはならない。


初回のトップランナーはロシアの選手であった。しかし、ドーピング問題で1位剥奪処分となった。ちょっと気の毒だった。
去年のトップ選手は誰だったのだろう。記憶に残っていないのが残念である。

今年も沿道から熱い応援をしたいと思っている。


2017年10月26日木曜日

今日は久々の快晴

今朝の空気は清々しい。一点の雲もなく青空が広がった。しかも無風ときた。
10月も残すところ1週間となった。
兼六園の雪吊りは11月1日から作業が開始される。昨日の夕刊に、その準備作業が始まったという記事が掲載された。


まだ紅葉シーズンにも入らないこの時季だが、雪吊り作業は11月から12月中旬まで続く。松の木の最先端に登り、幾条もの縄を投げていく技能は、観光客も見惚れる人気である。その数800本にも及ぶそうな。
妙技
完成した状態
北陸の雪は重い。樹木が雪の重みで枝の折損を防ぐ為に考案された。発祥の地はこの兼六園である。
雪吊りはライトアップされる。私はまだ一度もライトアップされた雪吊りを見たことがないので、今年は足を運んでみよう。


日没寸前のライトアップ。いいねぇ。

昨日の気温は15度と肌寒かった。わが家ではストーブが居間に鎮座した。来年の4月末まで存在感を誇示することになる。
兼六園もわが家も冬支度の話題でした。

2017年10月25日水曜日

元の古巣に戻った

去る7月16日のブログで新幹線工事管理業務3年目(最終章)を記したが、岐阜から広島へ昭和44年9月に赴任し悪戦苦闘の5年半を過ごし、昭和50年3月、出身母体の岐阜工事局に帰還した。
岐阜工事局では、大勢の帰還者のために線増第三課という課を新設して配属した。
また、宿舎も大量に不足するため、木造宿舎群を取り壊し鉄筋コンクリート造の五階建てアパートを10棟も新築したのである。

広島着任の際は、広島駅から1.0kmに位置する新築した借り上げアパートに入居、その後国鉄アパートが新築されて転居、現場赴任では宮島に近い場所の新築の借り上げ民家、そして岐阜の新築アパートに入ることになった。4回も続けて新築の住居に入居することになった。その後、昭和56年に金沢に新築移転した。そこに15年住んだのだが、親が倒れ両親と同居する必要が生じたため現在地に新築し転居した。数えてみれば6回も続けて新築の家に住んだことになる。世間広しといえども、こんな記録はなかなか見当たらないだろう。

広島から岐阜に赴任する際は、家族4人が広島宇品港からフェリーに乗船した。操舵室の右側の1等船室は見晴らし良し、設備よしの和室であった。大阪南港には早朝到着した。
大阪は都市高速に乗り名神を走る予定で、心斎橋付近から高速に乗るつもりで広い道路からアプローチに入ろうとしたのだが、その入り方が紛らわしくて、2,3回進入を試みてようやく入ることができた。田舎者なんだろうなぁ。

名神大垣ICで降りた。国道もバイパスができ、どこを走っているのか見当がつかなかったが、岐阜城稲葉山の位置を見極めようやく市道に乗った。バイパスは市街地を大きく離れた随分東側に造られたのだなぁと感じた。岐阜市は6年で大幅に変わったと実感した。そして出来立てほやほやのアパートに到着した。家財道具を積んだコンテナも到着し、課の若い衆が助っ人で4階まで運び上げてくれた。
ピアノの重量物はプロ二人が担ぎ上げた。たいしたものだと感心したものである。

配属先は線増第3課第6係。係長も広島勤務経験者のベテランだった。業務は新幹線岐阜羽島駅雪害対策工事で、駅構内に軌道とホームを増設し、新幹線車両に付着した雪の塊を落とす作業員スペースをホーム下に設ける一連の工事であった。
国鉄の建設技術屋は建築・土木・電気・機械の各部門に配属されていた。
土木でも駅設備やヤード関係を担当する職員がいた。この職員を「停車場系」と呼んだ。
橋梁・トンネル・高架橋関係は停車場系以外の職員が担当し、滅多に停車場系に移動することはなかった。だが、私の担当することになった業務は停車場系であった。

なぜそうなったか。それは、広島から転勤する際に次は北陸新幹線をやりたいと申し入れ
たのだが、新幹線は凍結、北陸関係では金沢駅高架化プロジェクトが2,3年後に着工が見込まれていたので、いずれ線増第3課が担当することが内定していたことで停車場系の係に配属されたのであった。(続く)


2017年10月24日火曜日

こんな事故はいつでも起きる!空からの落下物が直撃、高速道落下物で親子が死亡 

大阪市内を走行していたら、突然空から物が落ちてきて車を直撃したというニュースや、高速道路を走行中、路上にタイヤがあったのでガードレールの後ろ側に退避していたところ、トラックがタイヤに乗り上げ横転したトラックに退避していた親子が直撃され死亡したという。

飛行機の落下物について、国交省や大阪府警によると、事故は23日午前11時頃に発生。東京都日野市の病院職員の女性(51)が大阪市北区の国道でワゴン車を運転中、車の後部に厚さ4ミリのパネル(縦107センチ、横110センチ、重さ4・3キロ・グラム)が衝突した。車の天井部分がへこみ、後部の窓ガラスが割れるなどしたが、女性と助手席に同乗の親類女性(47)にけがはなかった。怪我がなかったことは奇跡としか言いようがない。


成田空港の滑走路線上にある農家の話では、落下物が非常に多いので移転補償を要望しているのだという。
金沢上空にも飛行機は飛んでいる。私もあなたも落下物に直撃されるかも知れない。だが、それを避ける術はないのだ。

高速道路の落下物も非常に多い。
岡山県津山市の中国自動車道で10月18日、落下物とみられるタイヤが原因で、大型トレーラーが横転し、路肩にいた親子2人がはねられて亡くなる事故が起きた。親子の乗用車も事故前、同じタイヤに乗り上げて動けなくなっていた。高速道路上の落下物は、年間約30万件以上も発生しており、これまでも重大な事故につながっているという。

こんなにでかいのだ

80km/hのスピードで走行している車は、路上に落下物があることを認識して、それを避けようとしても極めて困難である。降雨があったり、夜間走行の場合はなおさらである。私も経験がある。北陸自動車道鯖江付近を走行中、車線中央部に板切れと思われる物体があった。それをまたぐように通過しようとしたら、「ズドン」と鈍い音がした。路肩に寄せて停車しようとしたらそれはかなり大きな段ボール箱だった。

視線の角度で段ボール箱が板切れ状に見えたのだ。
それを路肩に置いて走行したのだが、目的地に着いてバンパー部を確認したら、何とバンパーが折れていた。100km/hの高速で走行しているとその衝撃力は非常に大きくなる。

冬場では名神米原~関ケ原にかけて、チェーンの落下物が非常に多い。皆さん、くれぐれも落下物に衝突しないよう気を付けましょう!


2017年10月23日月曜日

選挙戦って、うちの地域に誰も来んかった

公示のあった日の4,5日後あたりから、マスコミは一斉に希望の党への風が急に止んだと報じ始めた。都知事の「排除します」、「国政には出馬しません」が引き金となって、風が急速に弱まり、加えて都議二人が都民ファースト脱退などマイナスイメージが大きくなった。国民ファーストじゃなく、小池ファーストなんだとか。
そして投票日の4,5日前から、「自民・公明過半数超え」とする報道が始まった。

今朝のTVは選挙結果の報道に途切れがない。予測通りの結果となっている。
あの希望の党の重鎮だった若狭勝氏が比例でも落選。鈴木宗男、豊田真由子氏も落選した。豊田真由子氏と山尾志桜里氏は東大法学部の同級生だという。不倫は政治に関係ないと強気が功を奏した。
この時、自民党が焦ったという

だが、4,5日後から
小池・前原氏は惨敗の結果からどう動くのだろうか。
それにしても小泉進次郎の応援演説は面白い。人寄せパンダといわれるのが納得できる。
安倍総理と同じくらい全国を飛び回ったという。


進次朗は完璧に純一郎を凌駕している。
さて、この選挙戦、いつものパターンといささか違っていた。
馳浩氏の住宅があるこの地域なのだが、前回までの選挙では連日のように各党の候補者の選挙カーがこの地域も騒々しく回っていた。馳浩氏はランニングしながらだったり、徒歩で町内一帯を回られた。が、今回は各党の選挙カーさえ全く来なかった。何だか見捨てられた地域になったようで寂しく感じる。



2017年10月22日日曜日

担任と副担任による「いじめ」

福井県池田中学校で3月に中2の男性生徒が自殺した件について、町教委が調査委員会に委託した調査報告書が公表された。
調査報告書は、短期間によくぞこれだけ詳細に調査したと感心する内容となっていることから、各局のテレビ番組が取り上げ紹介された。
この事件に関して、Youtubeでも驚くほど投稿されている。全国から教委に抗議の電話が相ついでいるという。

池田中学の全校生徒が52人。1クラス21人。私の中学生だった時のクラスは52人もいた。1クラス21人に担任と副担任が配置されているということは、福井県の先生が有り余っているのかなと思うのだが。
その副担任が一人の生徒を数回にわたり強く指導していたという。担任もその生徒を吊るし上げていたという。これは指導という名のいじめである。二人がかりでいじめられた生徒は思い悩んで3階から飛び降り自殺した。

担任が家庭訪問をした際、祖母が気の優しい子だからテレビにあるような(自殺)ことにならないように・・・・とお願いしたそうである。にもかかわらず事件は起きた。



調査報告書は、度を越した指導について「教師の基本的姿勢に問題がある」と指摘。叱責を目撃しながら対応を欠いた校長らを「職責を果たしていない」と断じた。調査委は「孤立感、絶望感を深め、自死に至った」として、学校全体に問題があると結論付けた。

職員室や同級生の前でも叱責 「階が違っても聞こえた」
報告書によると、生徒は真面目だが、柔軟な対応や感情のコントロールが苦手。課題を適切にこなせないこともあったという。
担任は生徒のそうした状況を判断できたはずだが、調査委は「自己の指導方法を過信し、状況や気持ちを理解しないまま叱責を続け、追い詰めることになった」とする。

担任は、昨年10月には生徒が運営に携わっていたマラソン大会の準備の遅れを理由に校門前で激怒。これとは別に職員室や同級生らがいる前でも叱責した。「身震いするくらい怒っていた」「階が違っても聞こえた」と生徒らは証言する。

副担任は初めての中学校勤務。生徒や保護者らへのアンケートでは、妥協しない側面が指摘され、「追い詰めるようなネチネチした感じがあった」とされた。

頭を垂れても命は戻らない
この前の記者会見では「知りませんでした」と答えていた
この校長の無責任な態度にはあきれてしまった。担任や副担任が生徒を大声で叱責しているのを現認していながら、「私は一切知らなかった」と大見えを切っていたのである。
この校長は「一身上の都合により」とする事由で退職願いを提出。また、副担任は体調不調で休職中だという。

私も学校に不信を抱いたことがあった。岐阜市から転居した時、2女が小2だった。その時、娘がいじめがあったことを親に話した。
登校し始めて数日後、クラスの男の子がランドセルを教室の外に投げ捨てたという。いじめはいじめた相手が泣くことで止むという。しかし娘はそれにめげずに泣かなかったらしい。なのでしばらく陰湿ないじめは続いたという。

先生にそのことを云ったかと問うた。そうしたら、先生は「ふーん、そうか」と云ったきりで注意もしなかったという。
その話を聞いて先生の対応に憤慨したのだが、しばらくしていじめは無くなったというので先生には進言しなかった。

生徒からのいじめではなく、2人の先生からいじめを受け自殺に追い込まれた生徒の気持ちを思うといたたまれない。

2017年10月21日土曜日

日産・神鋼は大企業病に罹っている

旧国鉄時代の話をしよう。複線化工事は列車運転に支障がないよう細心の注意を図りながら実施される。安全綱領に「職員は職責を超え安全確保に一致協力しなければならない」と謳われた。
機関士や運転士が工事現場付近を通過するとき、危険を感じて停車しただけでも事故と看做された。乗務員は運転状況を当直助役に報告する義務がある。当直助役は管理局保安担当に報告する。保安担当は事故の軽重にかんがみ、本社関係部局に報告される。

一方、工事施工局においては工事担当助役が詳細な状況報告書をまとめ、事故担当課を経由し担当次長に報告される。程度によっては本社建設局長へ報告される。

国鉄ではあったことをなかったことにすることを「まる」と称した。事故が発生した場合でも工事施工局サイドは何とか「まる」にしようと幹部と共に奔走した。乗務員が当直助役に報告する前に手もみしながら平身低頭で「なかったこと」にしてもらうようお願いした。しかし、この段階で先ずなかったことになることはない。結局、管理局と工事施工局の部長と次長の折衝となる。

日産は不正が発覚して経営陣が謝罪した。だが、下部組織に伝わらず不正が続いたという。神鋼にしてもデータ改ざんは全社的規模で実行されたという。
なぜ国鉄の事故について記したかというと、不都合なことは「まる」にしたいとする行動は組織が大きいほど強くなることを例としてあげた。

日産の不正検査は、国交省が実施した完成車工場への立ち入り調査で判明した。これを受け、国交省は9月29日付で日産に対して1カ月をめどに調査結果と再発防止策を報告するよう指示している。

石井啓一国土交通相は20日の閣議後会見で、日産自動車(7201.T)の不正検査が国交省に指摘された後も続いていたことについて「極めて遺憾だ」とした上で「法令順守意識の徹底と安全管理体制をしっかり検討し、対策を徹底してほしい」と要請した。


石井国交相は神戸製鋼所(5406.T)の品質不正問題についても言及。「不適切な行為だ」とした上で、1)最終製品の安全性への影響の有無と事実関係の究明、2)鉄道事業者、自動車メーカー等への適切な情報提供、3)徹底的な原因究明と再発防止体制の構築を速やかに報告する――ことを求めた。

世界に冠たる日本の物づくりが、一連の不祥事で一気に疑問符が付けられた。


2017年10月20日金曜日

5年ぶりに歯医者へ

数日前から水など冷たいものを口に含むと、歯にしみるようになった。一昨日、歯医者に電話して1日でも早く予約したいと申し込んだところ、昨日のPM4:30となったので4時10分過ぎ、徒歩で百坂町の歯科医に向かった。

歯科医は5年前に行ったきりだった。業務打ち合わせや行事の準備等で、予約しても行けるという確証がなかったので足が遠のいていた。一般的には2カ月ごとにメンテで通うように歯科医から言われていたのだが・・・。

歯科医の近くに高校があるためか、女子高校生が3,4人も待っていた。予約時間を20分ほどオーバーしたころ、ようやく順番が回ってきた。
診療台が5台ほど並んだ最奥に掛けるよう指示された。医師に状況を話した。痛む箇所と、5月に4本が1体となった状態で歯が抜けたことも、抜けた現物の歯を渡して経緯を説明した。「レントゲンを撮りましょう」とレントゲン室へ向かった。
レントゲン写真がすぐ見られるシステムのイメージ
顎を台に載せ顔を半固定して撮影する。カメラが左から右に半周して撮影が終了する。以前、インプラントをする時に撮影した時と同じ機器であった。
レントゲン室
歯科医が画像を見ながら説明してくれた。歯茎の骨が前の状態より痩せているという。腹の脂肪は増えつつあるのに皮肉な話だ。

画像のイメージ
「抜歯して部分入れ歯にしましょう。これから歯の掃除をします」ということで、歯科衛生士による掃除が始まった。

かなり不快な思いがする掃除が開始された。細いドライバーのような研磨用具で歯の間を擦る作業が20分くらい続いた。来週火曜日から本格的な治療が始まる。

さて、今日の朝刊にスーパーカブ1億台達成という記事があって目を引いた。


テレビでも本田宗一郎氏がスーパーカブを生産するに至った経緯を説明していた。
1Lで90kmも走るという。頑丈、安価、エンジン出力は同等品の2倍もあるとか。
うちの親父も何十年と乗っていたバイクである。他の追随を許さない優れた製品は世界各国で使用されているという。
同一機種の生産は世界新記録だという。1億台達成に拍手を贈ろう。

2017年10月19日木曜日

能登島産のカボチャ600個と2画面スマホ

10月31日はハロウィンだという。こんな文化はここ数年前から渋谷交差点などで目立つようになった。どうしてこのような文化が日本に入ってきたのか調べてみた。
渋谷交差点の賑わい
キリスト教では、11月1日を諸聖者の日(All Hallow’s Day)といい、全ての聖人と殉教者を記念する祝日となっているという。
そして、その前夜の10月31日は「All Hallow’s Even(諸聖者の日の前夜)」と呼ばれ、それが「Halloween」または「Hallowe’en」と略されたのがハロウィンの語源となっているそうだ。

ハロウィンが大々的に行われているのは主に英語圏だが、特に、ハロウィンの始まりの地であるアイルランドでは、10月最後の月曜日が祝日となっており、ハロウィンを祝う習慣が最も純粋な形で残っているらしい。

日本においては東京ディズニーランドが一番の火付け役で、ディズニーランド最初のハロウィンイベントは1997年に開催されたといわれ、2000年後半になると食品会社もハロウィン商戦へ参入し、ハロウィン商品のCMを放送するなどして徐々に広まった。
定着とまではいかないが、1983年に原宿にあるキディランドで日本初のハロウィンパレードが行われた。

そんなことで能登島産のカボチャが600個も加工されて全国に向けて出荷されたという。

吾々の年代になると、「なんじゃこりゃ」と理解に苦しむ行事である。だが、昨年は500個だったカボチャの注文が今年は2割増し。来年は急激に増える予感がする。石川県の農業活性化に影響を及ぼすハロウィンではある。

さて、今日の朝刊に新型スマホの記事があった。

ガラ系の携帯みたいに二つ折りのスマホである。2面あわせて大画面の動画も見ることができるという。ドコモが中国メーカーと共同開発したのだとか。さて、値段はいか程なのだろうか。何だか爆発的ブームになるような予感がする。





2017年10月18日水曜日

2回目のMRI検査

8号線を津端方向に進み福久北を左折、福久箔団地から八田交差点に出て、競馬場近くの交差点を右折すると田園地帯。ここからの眺めは雄大な風景が楽しめる。昨日は白く輝く立山連峰が見えた。しばらく進み左折すると河北潟を横断する橋を渡る。干拓地を縦断する長い道を走り抜けると内灘大橋のたもと。そして間もなく金沢医科大病院に着く。

昨日は2カ月間隔で受けている受診日であった。主治医の受診の前に1年ぶりにMRI検査と心電図検査を受けることになっていた。MRI検査は事前に問診表を提出しなければならない。2カ月前に主治医から問診票が渡され質問事項を埋めた。それに主治医が押印して昨日持参して検査前に提出することになっていたのだが、すっかり忘れて持参しなかったので受付ではねられてしまった。

事情を話して主治医に問診票をもらって記入し、押印してもらい再度受付に提出した。
このため予定時刻が大幅に遅れてしまった。
看護士から体内の金属類の有無を再確認された。インプラントはMRIに支障がないことは前回主治医から歯科医に確認ずみであった。

4カ月前に耳鼻科関係でCT検査を受けた。外観はほとんど同じ機器であるが、MRIは磁気、CTは放射線によるので全く検査方式が異なる。当然のことなのだが、何を使用するかは患者の選択権は全くない。
さて、MRIの検査が開始された。耳に大きな音を軽減するための耳当てが装着された。

しかし検査中は絶えず大きな音が発生していた。削岩機でコンクリートを砕いているような音、振動まである。それは40分間も続いた。微動することも能わず、忍耐のほかはなかった。1年前の検査では10日ほど前に発症があったという脳梗塞の痕跡があることを聞かされた。結果的に軽微な脳梗塞だったので治療の必要はなかった。
心電図の検査を終え待合所に戻った。

1時間以上も待って主治医の診断を受けた。MRIの画像を1年前の画像と並べて説明があった。
だいたいこんな画像
こんな画像の説明もあった
血管の画像では異常は認められなかった。
「あなたの血液濃度は驚くほど濃い。水をどんどん摂取してください」と前の主治医から指導されている。脳梗塞になりやすいのだそうだ。1年前に発症したことがその証明であろう。それ以降、処方箋で血液さらさらの薬が出されている。

この血液サラサラなる薬は、くも膜下出血や怪我をした場合にはデメリットとなる説明を受けた。抜歯の場合は1週間前に服用を中止しなけらばならないとか。

今日はその薬を近くの薬局に貰いに行かなくちゃぁならない。


2017年10月17日火曜日

ハドソン&九頭竜川の奇跡


昨年の秋、私はある映画を見に行った。
題名は「ハドソン川の奇跡」。
2009年1月15日、アメリカ・ニューヨーク市で起きた航空機事故を覚えているだろうか? マンハッタン上空850メートルでエンジントラブルを起こした「USエアウェイズ1549便」は、ハドソン川に不時着水。乗客乗員全155人が無事に生還したことから、「ハドソン川の奇跡」と呼ばれ、世界中のメディアがこのニュースを報じた。

USエアウェイズ1549便は、機体が鳥の群れとぶつかる“バード・ストライク”により、両エンジンが同時に推力を失った。このような両エンジン同時のエンジントラブルはきわめて稀だという。機体の高度は下がっていくが、大都会マンハッタンに大きな空き地は存在しない。サリー機長はハドソン川への不時着水を決断する。

着水の直前、サリー機長は「こちら機長。身構えて、衝撃に備えて」と、コクピットから客室へ短い言葉で指示を出した。機体への衝撃と、機体が落下していく感覚の中、事態が飲み込めずにいた乗客たちだったが、その指示に従った。もしも事前にトラブルを伝えていたら、機内は大混乱を極めたに違いない。彼の指示ひとつをとっても、まさに的確な判断だった。

また不時着水後、なるべく早く救助してもらえることを意識して、船着き場の近くに着水させたことも、彼は計算していたのだ。

エンジントラブルが起きてから、状況を把握し、あらゆる選択肢を吟味し、決断し、着水させるまで、わずか208秒の出来事だった。それは、管制官との音声記録として残されている。鬼気迫る中での冷静な判断が、乗客乗員を救った。
155名全員救助
 この映画を彷彿とさせる飛行機事故が一昨日発生した。

機体が沈み尾翼上部が見える
15日午後3時45分ごろ、福井市小尉町の九頭竜川で、「小型飛行機が川に着陸した」と消防に通報があった。福井県警坂井署によると、小型機が川に不時着。乗っていた男性4人は約10メートル離れた岸まで泳いで脱出し、救急搬送されたが、けがはなかった

小型機は単発のプロペラ機ビーチクラフトA36型で、福井市の医師松原六郎さん(66)が操縦し、知人で福井市と石川県加賀市の60~70代の男性3人が同乗していた。松原さんは「エンジンの不調で不時着した」と話しているという。

松原さんは14日午後、山形県で開催される学会に参加するため、3人を乗せ福井空港(福井県坂井市)を離陸。15日午後1時すぎに山形県の庄内空港から帰途に就き、給油のため新潟空港を経由して飛行中の同3時37分、中部国際空港に無線で緊急事態を宣言した。
不時着現場は川幅約280メートル、水深3~4メートル。 

不時着後、4人は自力で機体から脱出し、約10メートル離れた岸までたどり着き、福井県の防災ヘリコプターで堤防まで引き上げられた後、救急車で搬送された。機体は尾翼の一部を残して沈んだ。

同日午後1時10分に山形県の庄内空港を離陸し、午後1時43分に給油のため新潟空港に着陸。約40分後に同空港を離陸し、福井空港に向かっていた。福井空港には午後5時前に着陸予定だった。

現場はJR福井駅から北西に約12キロの田園地帯。

国土交通省は15日、この事故を重大インシデントと認定。運輸安全委員会は16日、航空事故調査官2人を現地に派遣する。

  エンジン停止状態で大惨事が起きる可能性があったが、けが人ゼロで脱出させることに成功した事故機パイロットで福井市の男性医師(66)が、状況を振り返った。向かい風を利用した着水など、冷静な対応ぶりが明らかになった。

医師は航空関連の学会に参加した後、庄内空港(山形県酒田市)を15日午後1時に離陸。給油のため新潟空港(新潟市)を経由し、福井空港(坂井市)に帰ろうと順調に飛行していた。

ところが、着陸態勢に入ると、異変が生じた。音などから「エンジンにガソリンが供給されていない感じがあった」といい、プロペラの回転が落ちて1分ほどでエンジンは停止。空港までの距離を考え、川への不時着を決断し、管制官に「川に不時着したい」と緊急事態を告げた。

その際、10年以上のフライト歴から選んだ、飛行ルートが功を奏した。日本海側から進入する際は必ず、住宅街を避け、300メートル前後の川幅がある九頭竜川の下流沿いに、福井空港の西側を回って着陸することにしていた。事故当時も同川の上空を南下しており、「離着陸時は常に墜落という最悪の事態を考えていたことが良かった」と振り返る。

追い風だった北風を意識し、風上に向けて機体を旋回。向かい風を受けて減速、降下させながら川面に近づき、水面を滑るように着水した。さらに衝撃で機内に閉じ込められるのを防ぐため、着水の直前には後部ドアを少し開けておいた。

泳ぐ距離を短くするため、左岸近くに機体を運ぶことにも成功。着水してから救命胴衣を着けて岸まで泳ぎ着くと、飛行機は間もなく沈んだ。「想定通りにできた。人に危害を負わせずに済んで、ほっとした」と胸をなで下ろした。

このパイロットもハドソン川に不時着したパイロットも、パニック時に冷静沈着な行動と的確な判断をして最善策を採った。
私にはとうていできないことである。


2017年10月16日月曜日

社長自ら「わが社に是非」と就職勧誘

戦力外通告を受けた20代前半の野球選手の姿を追ったテレビ番組を見たことがあった。
新婚夫婦でベビーが誕生する予定だという。一般募集のテストを受けその結果を待つ、本当に厳しい現実があった。

その一方、景気回復に伴い求人不足が顕在化して悪影響が出始めているという。建設業界のそれは最も厳しくなっているようだ。先だって、国立競技場の建設技術者が残業に追われてノイローゼとなって自殺したニュースがあった。

何故このような話をするのか。
実は一昨日、同時期に町会長をやったことのある、近くの地域の前町会長から1本の電話があった。電話の内容は、「ある社長から、下請けに出した業務の管理ができる人を探しているのだが・・・という相談を持ち掛けられたので、あんたの顔を思い出した。話を聞いてもらいたい」と。

この年になって就職なんて・・・と躊躇したのだが、話だけでも聞いてほしいというので、ならばいいですよと返答して昨日その元町会長宅へ赴いた。
社長は自分の経歴から話をされた。地鉄の部長をされてから出資会社の社長になられた人であった。
前町会長とは学生時代から交友があったり、その後も機械制御工学の知識があるので、電車の修繕で指導を仰いだ間柄だと説明された。

私も職歴を話した。能登線で軌道敷設、中央線で複線化工事、広島で新幹線建設等の話をした。一通り経歴を話したところ、「当社は2万㎡の舗装工事を下請けに発注したのだが、工事管理ができる人がいないので是非お願いしたい。3月までの工期だが、そのあとも関連施設の撤去工事関係の管理業務があるので、通算2年くらいの仕事になる」と。
そして、「給料は年金減額にならない限度額の28万」とおっしゃった。

「いい話だが、私はやがて75となるのでモチベーションに欠ける。私の知人で適任者がいるので当たってみましょう」と答え、その場ですぐ4歳年下の知人に電話した。
知人は、「田んぼで休まなければならないし、JAの監査員なので月に数日は仕事に行く場合があり、ちょっと無理だ」と断られた。

ならば、あんたの知り合いで適任者がいないか尋ねたところ、町内にいるのですぐ電話してみると返答があったので、しばらく電話を待った。
そして返答の電話があった。「その人も老人会の会長やほかの関係で連続した仕事は無理だ」と返答があった。そのやり取りを聞いておられた社長は、しようがないなぁという顔付だった。

定年退職して10年。好条件好待遇の話なのだが、10年若かったらなぁ・・・と。

2017年10月15日日曜日

親父が乗艦した駆逐艦の写真を見つけた!

囲炉裏端で親父が語った武勇談で、ひときわ印象に残っている話がある。
それは、虫垂炎の話であった。で、入院して手術を受ける時には手遅れで、癒着が進み治療に長期間要することになった。
時は昭和19年4月、駆逐艦「刈萱」に乗艦していたその艦が、台湾高尾港に寄港した。
寄港前から腹痛があり、寄港した直後に高尾海軍病院に担ぎ込まれた。直ちに手術が行われたが、癒着が進行し長期間の入院が必要になった。

駆逐艦は予定どおり出港した。結局、親父は当然に駆逐艦においてけぼりを食らった。

当時の高尾港岸壁
ところが、である。出港し間もない駆逐艦 は5月10日「ミ03船団」を護衛中、ルソン沖でアメリカの潜水艦コッドの発射した魚雷が2本被雷し戦没したのである。
人間の運命とは妙なるものである。盲腸炎が命を守った。

母は4才の姉と1才の私を連れて、実家のある宇出津に帰っていた。そして、海軍から戦死の通知が届いた。仏壇の前に佇み、悲痛のどん底で悲嘆にくれた。どれだけの間があったのか聞いていないが、やがて無事であることが分かった。

先日、何故か親父の乗艦していた駆逐艦の資料がないか、検索してみた。その結果、驚くほどのデータがあった。その中に米軍撮影の写真があったのである。

船腹に「カルカヤ」の文字
排水量 基準:820トン 全長 83.8m 全幅 8.08m 吃水 2.51m
主缶 ロ号艦本式缶3基

このデータを見て、「以外に小さいなぁ」という感想を持った。
これが命を懸けた親父の職場だった。
昭和50年、一通のハガキが親父の元に届いた。乗艦した戦友で生存している20人くらいのグループで組織している「刈萱会」の案内状であった。
会場は舞鶴。帰ってきて楽しそうにその時の模様を話してくれた。

数回ほどその会に参加したのだが、平成9年に逝去した。その後も刈萱会の案内があったので死去した旨のハガキを出したところ、奥様でも息子さんでも構わないから出席してくださいと案内があった。もちろん丁重にお断りした。
それから20年経た今、幹事役だった人も亡くなったであろう。
それにしても便利な世の中になったものである。親父の乗艦した駆逐艦の写真に出会うことができたのである。



2017年10月14日土曜日

県科学の夢絵画展で孫の姉弟2人が金賞受賞

昨日から県地場産業振興センターにおいて、石川県発明工夫展と科学の夢絵画展が始まった。去年まで毎年最高賞を受賞していた吾が町内の松平倖喜君は、高校生になったたため出品されていなかったのが寂しい。


学年ごとに出品されている
うちの孫も毎年出品していたが、高校と中学に進学したので出品はなし。学校の先生によって出品が多かったり全くなかったりと大きな差がある。毎年優秀校に選ばれていた千坂小学校は今回出品なし。指導していた先生が転校されたのである。転校された木曳野小学校が優秀校に選ばれていた。素晴らしい指導力に感心するばかりである。

上の写真で、壁には科学の夢絵画展の出品作が展示されているのがわかる。

金賞・銀賞・銅賞の順に掲出されている
金賞は10点が受賞作品であった。今回、ここを訪れたのにはわけがあった。何と小1の孫(男)と小4の孫(女)の姉弟二人が揃って金賞を受賞したと聞いたので、その作品を見に行ったのであった。


幼稚園児の頃から昆虫や恐竜に強い感心を持っていたのだが、描いた絵は虫かごに匂いの発生する物体で昆虫を虫かごに誘い入れるという発想の絵だった。考え抜いて絵にした努力が見えた。


小4の姉ちゃんが描いた絵は交通事故防止の道具を上手く表現していた。
父母の喜びは当然だが、美川の祖父ちゃんと祖母ちゃんは明日の表彰式に出席したいと大喜びと聞く。
10点の金賞のうち、姉弟揃って金賞受賞の快挙はジジババへの何よりのプレゼントであった。

2017年10月13日金曜日

金沢都ホテルがいよいよ消える

金沢駅前に54年間にわたり存在感を示していた金沢都ホテルが、11月から取り壊されるという。昭和38年に落成し、金沢駅前のイメージを一新したこのビルは、金沢の近代化のシンボルとして市民から親しまれた。


私が高校を卒業したのが昭和36年。その2年後にこのビルが完成した。
県外に就職して帰省時に金沢に立ち寄った時、このビルを見て金沢の変わりように眼をみはったものだった。
このビルが着工される前の状況は、イメージとして思い出すことは困難だったのだが、昭和30年代前半と思われる当時の写真を目にすることが出来た。

都ホテルができる前の駅前
別院の屋根がひときわ高く存在感があるが、この写真の見える範囲にはビルらしい建物といえば、武蔵の丸越と思われるビルがかすかに見えるだけ。
昭和41年、県外就職の3人が久しぶりに金沢で再会した。その時、都ホテルの7階レストランで食事して楽しんだことが思い出される。

昭和41年24才
ビル跡地にはホテル系のビルが建設されるという。
東京オリンピック開催の年の3年後に完成するという。どんな風景が生まれるのか楽しみである。