2024年1月31日水曜日

なぜ内灘の液状化被害が大きいのか

能登半島地震による内灘の建物倒壊や道路陥没が際立って大きい。医科大や役場付近は被害はなさそうである。今朝も内灘町役場横の医科大病院へ行ってきたが、青湖大橋から医科大までの建物や道路の変状は整然として被害は全くない。

液状化が著しい場所はかほく市と津幡町に接している北端部分である。

液状化の被害

なんでこうなる?

地震による液状化で大きな被害を受けた内灘町では、建物の倒壊危険度の調査が始まりました。金沢市の中心部からおよそ30分ほどの場所にある内灘町では、地震発生から17日目で
ようやく家屋の危険度調査が始まりました。 調査は内灘町と石川県が協力して行うもので
午前9時半すぎから液状化で特に住宅の被害が大きかった室、西荒屋地区などに26人、13
人に分かれて危険度等を調査した。

液状化被害の顕著な区域

被害を受けた住民

住民の説明によると、この辺は河北潟の埋め立て造成地なのだという。砂丘斜面の裾野付近が滑り、平地部分の宅地が押されたのだろうと推定した。

一方、吾々の住んでいる団地は、この地図の金沢東ICと河北潟の間に位置する。森本・富樫活断層帯の位置はIR鉄道に直近して並行していることから、地震発生となれば液状化は避けられない。
しかし、有効な手段は見つからない。不安が募るばかりだ。

2024年1月30日火曜日

尖閣問題勃発前の中国旅行は楽しかった

 香港、北京・西安・上海や桂林を旅行したが、いずれも尖閣問題勃発以前だったので、旅行は不愉快な思いは全くなかった。尖閣問題勃発以降ではそうはいかないようだ。桂林ではホテルの前にずらりと物乞いが並んでいた。北京でもお金を恵んでくださいとねだられた。市内を歩いていると青年たちが次々と声をかけてきた。日本語を教えてほしいという。そんな時間はないと断った。

桂林から漓江下りした思い出

漓江下り乗船場

船の最後部が調理場
これを見たら食欲が失せた

物売りがいかだに乗って押しかけた
人力で観光船に乗って横づけした 商魂たくましい!

鍾乳洞にも寄ったが秋芳洞の数倍の規模だった

終始「墨絵の世界」だった

香港は平成8年に旅行したので、中国返還1年前だった。20代の青年がガイドをしてくれたが、返還されるので現在迷っていると話した。イギリスへ行くか、ここに残るか決断が難しいと心境を吐露した。結局どう決断したのか知る由もない。香港は2年前から統制が厳しくなり全く本土並みの体制になってしまった。

そんなことで、もう2度と中国には行くことがないと思うと昔が懐かしい。

2024年1月29日月曜日

11勝、文句なしの敢闘賞

千秋楽を迎えた昨日、郷土を沸かせた大の里は玉鷲と対戦し難なく降した。見ていて「何と頼もしい男か」と。

歴戦錬磨の玉鷲を降した

28日に行われた千秋楽で、津幡町出身で新入幕の大の里(23)=本名中村泰輝、二所ノ関部屋=が、初の三賞となる敢闘賞を受賞した。付け出しから所要5場所での三賞獲得は史上2位タイの速さ。初場所で114敗の好成績を収め、能登半島地震で被災した地元を元気づけるような大活躍。「石川に良い報告ができた」と安堵(あんど)した。

初入幕で敢闘賞獲得
身長192センチ、体重183キロの恵まれた体格を生かした圧力をかける相撲が武器。ざんばら髪ながら西前頭15枚目で迎えた今場所も、6連勝を飾るなど星を伸ばし、25日の12日目には、優勝した横綱照ノ富士との結びの一番に抜てきされた。「まさかまさか。1年前まで(日体大の)大学生で想像していなかった。あの空気感で相撲を取れたのは大きい。この負けを無駄にせず頑張りたい」

声援も日に日に大きさが増し、初の幕内ながら2桁勝利を挙げたことが、三賞選考委員会で評価された。初場所後に、帰郷するかは決めていないという。「15日間、石川からの応援が届いていた。来場所も(この活躍を)続けていきたい」とさらなる飛躍を誓った。

欧勝海もよくやった。昨日は輝に敗れはしたものの、勝ち越しして来場所につないだ。郷土の力士頑張れ!

2024年1月28日日曜日

初めての懸賞金はお父さんにプレゼント

大の里の活躍が楽しみな毎日が続いていたが、今日は千秋楽となった。一昨日は津幡から両親が国技館で観戦された。対戦相手は隆の勝だったが一気に寄り切って勝ち。この日は石川県に住む両親と妹が観戦したという。帰路で待っていた父・知幸さん(47)に、獲得した懸賞金の袋をさりげなく手渡した

お父さんに「はい、あげる」と

もちろん知幸さんは、思わぬプレゼントに大感激。「新入幕でこんなに勝つとは思っていませんでした。みんなに愛されて、すごい力士になったと思います。1年前は単なる学生だったのに、相撲界に入ってすごく化けた。本当に成長しました」と孝行息子に目を細めたという。元日の大地震で、金沢市の東に隣接する津幡町の実家は大きな被害を受けなかったものの、母・朋子さん方の祖父は町全体が液状化現象で避難所生活が続いているという。場所後には地元で新入幕のパーティーが開かれる予定だったが、これも延期に。この日、春巡業の日程が発表されたが、4月6日の石川県七尾市は見送られた。「憧れの場所で上位と戦えて喜びがあった。体の疲れもあるが、来場所につながるような相撲を取りたい」と大の里は意気込み。

昨日も勝ち星を挙げ2桁勝利に乗せた。三賞を受賞は確実だろう。今日も頑張れ!

2024年1月27日土曜日

台湾で2週間の募金で25億円も

もう30年程前の話になったが、平成8年に台湾を旅行した。日本語が話せる高齢者が多いし、台北のある街並みも昭和時代の日本を思わせる雰囲気があった。道に迷って現地の人に尋ねると日本語で教えてもらえた。

台北駅

通勤ラッシュは半端でなかった

台湾人はとても親切だった。
その台湾が能登半島大地震が発生した4日後に、この震災の義援金募集を開始して2週間後に締め切ったところ、何と何と25億円余もの義援金が集まったという。



(台北中央社)外交部(外務省)は26日、能登半島地震の被災地支援のため、行政院(内閣)が衛生福利部(保健省)に指示して開設した寄付金口座に15日間で5億4000万台湾元(約25億4500万円)余りが集まったと発表した。呉釗燮(ごしょうしょう)外交部長(外相)は記者会見で、これらの寄付金は数字上の積み重ねというだけでなく、「無数の台湾の人々の深い情や厚意の表れ」だと述べた。
口座は民間からの寄付金の受け皿として開設された。受け付けは5日から19日まで行われ、寄付件数は13万4000件を超えた。

ある調査によると、「日本大好き」と答える国民が8割を超えるという。
あらためてこの募金でそれが証明された。台湾の皆さん、ありがとうございました。

2024年1月26日金曜日

大の里、照ノ富士に敗れ史上最速タイ金星ならず

大の里曰く「頭が真っ白になった。それが結びの雰囲気」と。

昨日は大の里の大金星を期待して、どきどきしながらテレビの前に座った。その瞬間をこの目で確かめたかった。が、結果はさすが横綱、鮮やかに横綱の強さを見せつけた。

この悔しさこそ将来の横綱には必要不可欠!

先に両手をしっかりついた大の里が、立ち合いで照ノ富士に真っ向からぶつかった。右を差し、下手まわしを取って寄るがまわしを切られ、左からの上手投げで土俵下まで吹っ飛ばされた。4敗目を喫したが、ざんばら髪で新入幕の23歳が下を向くことはなかった。
史上最速タイとなる、初土俵から5場所目での金星はならなかった。「頭が真っ白になった。それが結びの雰囲気。力は伝わったけど、何もさせてもらえなかった。さすが横綱です」と完敗を認めた上で、何度も繰り返した。「肌を、胸を合わせ、いい経験になった」と。

こんな若造に負けてたまるか・・・と

昨年の初場所は一人の観客として大学生らしく、最も安価な椅子席で観戦した。そこからわずか1年での横綱挑戦は大器の証明。未来への糧になる。土俵下で審判として見守った師匠の二所ノ関親方(元横綱稀勢の里)も、2005年九州場所で横綱に初挑戦したが朝青龍にはね返された。それでも、翌年の秋場所では朝青龍を相手に横綱初撃破を成し遂げた。

「負けたら悔しいっす」と本音をのぞかせた大の里は「これからが大事。来場所以降も挑戦できるように、高みを目指して頑張りたい」と先を見据えた。番付をさらに押し上げるためにも残り3番、全ての力を振り絞って2桁勝利を目指す。


石川の星大の里。応援してるよ。

2024年1月25日木曜日

応援職員の休息所はキャンピングカー

関ケ原では名神が不通となる大雪だったが、金沢は新雪が2cmほどだった。天気予報では1日中雪なのだが、現在は青空が広がっている。これ以上、降りませんようにと祈りたい。
能登地方は震災で悲惨な状況になっているというのに、無情の雪に見舞われている。にもかかわらず、各行政機関には全国各地から救援職員が市役所や役場で尽力されている。宿泊所がないので金沢の宿を利用されている人も多いという。
しかし、珠洲市などはどうされているのか気になっていたのだが、キャンピングカー30台が全国各地から集結して宿泊所となっていることを知った。

キャンピングカーが被災地に届く

「全国自治体全国からキャンピングカー約30台が集結 職員宿泊場所設置プロジェクト」が始動したのだ。
日本RV協会(JRVA)が能登半島地震被災地の災害対策支援のため開始した「珠洲市支援全国自治体職員宿泊場所設置プロジェクト」なのだ。全国のJRVA会員企業から提供されたキャンピングカーが珠洲市へ続々と到着しているという。

これからも続々集結するという

4輪駆動でスタッドレスタイヤ着用のクルマが準備された。珠洲(すず)市の商工会議所の駐車場。夜明け前の午前6時過ぎ、キャンピングカーから次々と応援職員が降り、白い息をはきながら足早に市役所に向かった。定員は3人程度。バッテリー駆動のヒーターがあり、エンジンを切っても暖かい。窓にはカーテンや覆いがある。神戸市から来た保健師の女性(48)は「快適なベッドで疲れがとれるので仕事の効率が上がる。施錠できて安心だし、人目を気にせずに着替えられるのもありがたい」と話す。

車の提供者には頭が下がる思いだ。全国の皆様、ありがとうございます。

2024年1月24日水曜日

陸前高田の奇跡の一本松のような復興のシンボルになる

あのイカキングが公式Xで震災後初めての更新で無事を報告したという。
設置された1年後、実際ここに訪れた。あまりにもどでかいので驚いた。子供たちがイカの足によじ登って口である穴に潜り込んで遊んでいた。道の駅は大賑わいでレストランは長蛇の列だった。
その旧ツイッターが無事を報告したところ、次々と反応があったという。

津波が来襲したが無事!

海には帰らず、いつもの場所にいます-。「日本三大イカ漁港」の小木港PRのため立てられ、観光名所となった巨大なイカ像「イカキング」の公式X(旧ツイッター)が、能登半島地震後初めての更新で無事を報告。「心配だったが安心した」とのコメントが相次いだという。町民らは「(東日本大震災で残った)岩手県陸前高田市の奇跡の一本松のような、復興のシンボルになる」と希望を込めている。 

「イカの駅つくモール」では、正月休業中だった1日、地震を受けて50センチの津波が到達。店内は浸水し、テラスにあった一人がけの木のベンチは海に流されていた。
しかし、全長13メートル、繊維強化プラスチック製と頑丈なイカキングは健在。目立った傷もなかった。
20日に更新された公式Xでは「津波が迎えに来ましたが、海には帰らず、いつもの場所にいます。奥能登が好きだから」と地元への愛を込めて報告。「これからも奥能登を元気にするぞ」と結んだ。

モール運営会社の芳野欽之代表取締役も、2次避難や集団避難で地元を離れる人々が増える中、「能登の絆を確かめる象徴として人々を勇気づけたい」と強調。断水し道路の復旧のめども立たないため、モールは休業が続く。「何とかゴールデンウイークまでの再開を目指し、奥能登の観光業は健在とのメッセージを力強く発信したい」と語った。

イカキングは2021年に町が設置。新型コロナウイルス感染症対策の臨時交付金2500万円を活用したことに国内外から批判もあったが、各地の観光客らの間で人気に。町は翌年、6億円余りの経済効果があったと算出した。昨年はモールに全国から約7万人が来場した。
企画担当の課長の発想が素晴らしい!益々のご活躍を祈ります。

2024年1月23日火曜日

全身の痒みに耐えかねて医科大へ

数か月前から近所のクリニックに通っているが、貰っている薬を飲んでも塗っても一向に改善しないので、医科大で診てもらうことを決断して今朝出発した。この度の地震で、いつも通行していた河北潟の道路橋と道路のジョイント部分が地震で陥没して通行止めとなった。仕方がないのでセイコ大橋経由で行ったのだが、交通渋滞が激しく40分と倍の時間を要した。

今回は数年かかっている泌尿器科とは科が違うので、ひょっとして初診料7000円を支払う必要があるかもしれないので、受付に行ったところ何の請求もなく、受付終了。伝票を皮膚科の受付に提出して呼び出しを待つこと10分、伝票をもらって皮膚科の待合室に行った。

診察を待つ受診者は十数人前後。30分は覚悟したが、3人の医師の診察が早く10分前後で受診してもらえた。医師がお薬手帳をめくって去年6月から通院されていますねと。もう半年以上もクリニックに通っていたとは・・・と驚いた。医師に全身の状況を見てもらった。処方箋をもらって診察終了となり、会計に移動して支払い終了した。

帰りは町内の薬局へ薬をもらいに行き、薬を受け取って帰宅した。意外と早く家に帰ることができた。痒みが収まるように・・・


2024年1月22日月曜日

善意と行動力に目頭が熱くなった

北海道から善意届いた 4トントラック満載 1300キロ走り七尾へ・・・という記事に目が留まった。記事によれば、帯広市のある住民が何かできることはないか考え、賛同者を募ったところ数人が手をあげ、6日に支援物資を贈ったところ、新聞記事となり反響が広がったという。その反響により、道内各地から次々と支援物資が届き、4t車に満載して20日に七尾に到着。奥能登にも届けられたという。いい話だなぁ・・・

北海道から届いた物資を手に笑顔を見せる住民や能登半島災害協議会のメンバーら=七尾市松本町で

能登半島地震で被害を受けた能登地方に、北海道から支援物資が届いた。約1300キロの道のりを走り、4トントラックいっぱいの物資を届けたのは北海道の企業の社長ら有志でつくる「能登半島災害協議会」の4人。七尾市内に届けたほか、奥能登地方に向けては一般のドライバーに搬送の協力を呼びかけ、物資を託した。

北海道で製作された看板を七尾市内に立てかけた

安保さんたちが北海道から持ってきた看板には「北海道十勝の食材 救援物資」と書き、珠洲や輪島など奥能登の各市町に持っていってもらうよう沿道から伝えた。安保さんによると、看板を見た多くの人が車を止め、物資を積み込んで奥能登方面に向かった。安保さんは「遠い地から直接届いた物資で、心も元気になってくれたら」と話した。 

いやはや凄い人がいるなぁと感心した。胸が熱くなるではないか。ありがとうございます!

2024年1月21日日曜日

地震時はどうしていたか皆さんの意見を聞いた

昨日は毎月1回開催される町内のサロンがあった。冒頭、能登半島地震発生時刻に一人づつその時の行動や状況についての話を発表してもらうことになった。
その意見を集約すると、揺れている時間が今まで経験したことがない長い時間だったという人が大半。棚から物が落ちたという人が大半だったが、何一つ落ちなかったという人もあった。結果的には被害が殆どなかったのである。

荒屋悠々サロン

また、揺れている間の行動は、外に出たという人が半数、部屋にジッと揺れが収まるのを待ったという人もあった。また、津波が来るというので、高い場所に移動したという人も2,3人あった。移動手段はどうしたのかは聞かなかったが、マイカーで移動されたと思われる。

そんな話を聞いて、先ず、津波については、当町内は海岸から6km離れ、標高10m前後なのでその恐れはないだろうし、町内の特性としては、田んぼの埋め立て造成地なので、宅地や道路は液状化が必ず発生することを伝えた。かくいう自分はどうしたかというと、居間で揺れが収まるまでじっとしていたのだが、すみやかに外に出たほうが安全なのかもしれない。

避難グッズを揃えた筈だが、実際に地震が起こってもそこまで考えが及ばず、あとで気が付いただけだった。今後の森本・富樫活断層地震にはもう少し具体的に考え備えなければならない。

2024年1月20日土曜日

火野正平のこころ旅で思い出した網走

去年の日本縦断こころ旅秋シリーズは北海道から始まった。そのビデオを見ていたら網走刑務所の場面があった。

26年前、自分もここに立っていた

そのビデオを見ていたら26年前、ここを訪れたことを思い出した。時は平成10年3月、この月末に36年間勤務した職場を退職することになっていた。その記念に網走の流氷を見に行ったついでに網走刑務所を観光した。

そのまま移築したという

監視所から監獄が放射線状に配置されている

それにしても火野正平氏は御年74歳、まだまだ日本全国を自転車で走りまくっている。もうすぐ春シリーズが開始する。正平氏の人柄が魅力でもある。楽しみだ。

2024年1月19日金曜日

やはり壊れかけた家でも「自分の家」が一番という住民

まだまだ避難所で生活をしている人が多いが、壊れた家に残っている高齢の夫婦がおられるという。年代的には自分とあまり変りがない夫婦だが、心情的には分かるが、避難所に移られた方がいいと思うのだが・・・

室温10℃倒壊要注意”も珠洲市の自宅に住み続ける高齢者夫婦「崩れるまでここにいようかと」
能登半島を襲った地震により、大きな被害を受けた珠洲市。
集団避難が進む中で、「自宅に残り続ける」という決断をする人たちもいるという。

気温10℃の寒さ

住宅は、市の応急危険度判定で「要注意」の「黄色」の判定を受けたという。
珠洲市の野々江町で生まれ育ったという、山下美恵子さん(79)と夫の一二さん(84)。
地震の影響で大きくゆがんでしまった自宅は、市の応急危険度判定で「要注意」の「黄色」の判定を受けた。
山下美恵子さん(79):
戸が外れてしまって…大変なんです。床も底落ちていますし。
この日の室温は約10℃。3日ほど前から電気が復旧し、ガスも使えるというが、戸口や窓が壊れているため、外の冷たい風が入り込んでくる。

今後の生活については…。
山下美恵子さん(79):
私らも結構年なもので、崩れるまでここにいようかなと思っています。
山下一二さん(84):
余震の大きいのが来たらつぶれるのは分かっているのだけど…どうしようもない。

み慣れた土地を離れる事への不安
地震発生時は津波から逃れるために一度避難所に行ったという山下さん夫婦。しかし…。
山下美恵子さん(79):
とにかくトイレが大変で。学校の先生とかいろんな人がいろいろ良いように話しかけてくださるけど、それが余計、私ら気の毒とか、申し訳ないという気持ちで…。

設備の整ったホテルなどの2次避難についても、積極的ではないという。
山下美恵子さん(79):
私らはずっとここに珠洲から離れたことがないもんで、周りの皆さんと知らない土地に行ってなじめないかなと思ったり…。強情と言われればそれまでですけど。

もしウチのおふくろが柳田の実家で被災者になったら、やはり「おら、ここからずらん」といいそうだ。

2024年1月18日木曜日

山中毅もがっかりするだろう 鴨ケ浦の塩水プールも隆起して水なし

かつて、輪島出身の山中毅選手が中学、高校生のときに鴨の浦塩水プールで猛練習してオリンピック銀メダル4個を取得したというその塩水プールが地震で隆起したため、海面がはるか下になって水が入らずカラカラになったという。

輪島の岩盤プール

輪島の英雄・山中毅選手の力泳

東京大学地震研究所(地震研)は1月17日、令和6年能登半島地震で生じた海岸の地殻変動の調査結果を公開した。輪島市光浦町から同河井町で確認した海岸隆起の写真を公式サイトに掲載しており、隆起によって名所のプールが干上がった様子が確認できる。
輪島市輪島崎町の竜ヶ埼灯台周辺には、岩礁を切り下げて作った屋外プール「鴨ヶ浦塩水プール」が存在し、文化遺産にもなっている。しかし地震によって地面が隆起し、海面より高い位置に移動した結果、完全に干上がっていたという。「波食棚」と呼ばれる平たんな岩棚も、広範囲で貝・海藻類と共に海面より上に位置しており、地震研は約2.2mの隆起が生じたと推定している。

水泳は永遠に不可能となった

地震研は、能登半島地震で生じた地面の隆起を調べるべく、2日から能登半島北部の海岸を調査している。5日には、隆起に伴って輪島市の漁港付近で海岸線が海側に約250m前進したことも報告した。娘たちが泳ぎを覚えた角花塩田の塩汲み場も使用不可になっただろう。実に残念に思う。

2024年1月17日水曜日

輪島と能登町に避難用快適住宅

どこにでも建てることができる住宅ができたという。これは被災地にとっては干天の慈雨といったところか。もっと多く設置してもらいたいものだ。
能登半島地震で被災した住民らが避難する輪島市や能登町の小中学校に12日、断熱性や遮音性に優れ、短時間で完成するウレタン製の簡易住宅「インスタントハウス」が設営された。長期化が懸念される避難生活を快適に過ごしてほしいと願いが込められている。

ウレタン製インスタントハウスが設置された

インスタントハウスは名古屋工業大の北川啓介教授(49)が2011年の東日本大震災を機に始めた研究を基に「LIFULL ArchiTech(ライフル アーキテック)」(東京都)が開発した。
テントシートを空気で膨らませて、内側に断熱性のあるウレタン材を吹き付ける工法で、1棟当たり3~4時間で完成する。パーツを分解して、最短1時間で組み立てられる「パージ型」も開発した。

内部は実に広い!

輪島中はインスタントハウス3棟が設置された。住宅は直径5メートル、床面積は20平方メートル、高さは最大4・3メートル。45度の傾斜をつけた屋根は風の影響をうけにくく、雪も積もりづらい。避難所で生活する教員の女性(35)は「寒さもしのげるので避難所よりも負担は減ると思う。本当におうちみたい」と喜んだ。
簡易住宅は断熱性に優れているため、人が入るだけで体温によって室温を7度ほど上げることができる。北川教授は、談話室や休憩室として利用し「体も心も温めてほしい」と願う。

能登町の鵜川小学校では代表取締役COOの幸田泰尚さん(43)らが同社の親会社が町に寄贈したパージ型など2棟を設営。パージ型は大人4人が寝られる広さがあり、子どもたちは厚さ10センチの壁を触ったり、大声を出したりと思いっきり動き回った。避難所では女性の休憩所や子どもの遊び場として活用する予定。幸田さんは「被災者の救いになれるのでは。必要な所に供給していきたい」と語る。
クウネルだけ避難所に元気が戻るといい。

2024年1月16日火曜日

やがて跡形もなくなるのでは・・・

あんな大きかった島が報道機関各社の調査で、やがて消滅してしまうような無残な姿になってしまった。金沢でも震度5だったが、今まで経験したことがない長時間の揺れだった。見付島もこの揺れに耐えきれなかったようだ。

軍艦島とも称されたが・・・

特に後部(海側)の崩壊が著しい

陸地側先端部の崩落も大きいようだ

島の頂部の樹木がほんの僅かになってしまった。いつまでもつのだろう。

君もお助けインソムニアにも見付島が

この島を初めて見たのが19歳だったが、それ以降60年以上ものつい最近までほぼその形をみることができたのに、この度の地震で軍艦島といわれたその姿を永遠に失ってしまった。建物は復活しても島はそうはいかない。悔しい限りだ。

2024年1月15日月曜日

ここは何だろう?

家からそんな遠くない所に、これは一体何だろう?と思った空間がある。旧8号線に沿ったある場所に、太い円柱に絵が描かれている。子供が手をつなぎ、向こう側の柱には虹のような絵がある。かなり広い空間にある円柱すべてに絵が描かれている。

子供の遊び場かと思ったが、よく見ると自転車が1台置かれているのが見える。そして白線で何か区切りがある。フェンスもあるので子供の遊び場かと思ったが、駐輪場だと分かった。この近くにある高校の生徒が通学する自転車を留めるために作られたものと考えられる。

この空間の上部は北陸自動車道。鉄道を跨ぐ高架橋である。さらにこの上部には新幹線の高架橋がある。北陸線・高速道・新幹線が交差している場所である。

道路の奥に高速道の円柱構造物が見える

道路わきに柵が設けられているが、柵から高架橋間の舗装部分には、何かが作られるためのものだろうか。歩道でもないし、目的がわからない不思議な柵なのだ。

2024年1月14日日曜日

ビニールハウスは冷え込みが厳しいだろうなぁ

今日は寒いがいい天気。しかし、能登では雪のある被災地の模様がTVに映っている。避難所はさぞ冷え込みがきつかっただろう。

ビニールハウスの避難所は特に寒さが厳しいだろう

七尾港に大型のフェリーが寄港したという。自衛隊が避難民の心からの休養のために借り上げた船なのだ。このフェリーに300人の避難者を1泊だけ収容するのだとか。2万人の避難民にできるだけ多くの方に利用してもらうためには1泊だけとするのもやむを得まい。

大型フェリーが七尾港に 避難者の休養に使用

県外から避難者に向け、避難所収容案内がかなり出されてきた。現在、能登の収容所は小中学校となっているが、授業開始のめどが立っていないという。仮設住宅が建設されるまでは相当期間が必要となる。こうしたことから、県外の避難所も利用を促さなければならない。
しかし、能登から遠方に避難するということは大変な決断が必要である。仮設住宅が完成したら優先的に入居できるようにするのはどうだろうか。

2024年1月13日土曜日

見付島哀歌

 見たくなかった写真、それは見付島だった。現地に実態を見に行くわけにはいかないので、ネットの投稿写真に頼って探した。すると、2,3点の投稿写真を見つけることができた。

地震前の見付島

島の頂上には樹木が繁茂し、そこは沢山の鳥の住み家があり、神社もおかれていたと聞く。去年は震度5の地震、その前年は震度6の地震が島の形を変えた。しかし、今回の地震は震度6強で過去最大となった。このため、見付島本体の一部が崩落、樹木が海上に落下し、無残な姿に変貌した。

1月6日撮影の写真

地震前と地震後

頂上の樹木の大半が崩落し、スカスカになったように見える。

かつて、ここで海水浴をしたことがあった。当時、鵜飼保健所近くにあった鵜飼工事区に勤務しており、能登線建設業務のかたわら、昭和38年8月の日曜日、この島の横で海水浴に興じた。

貧弱な姿には目をつむっていただき、見付島の端正な姿を見てもらいたい

この写真には一昨年の地震で崩壊した岩礁が見えている。そんな思い出があるだけに、崩れ行く見付島の姿は見るに忍びない。


2024年1月12日金曜日

地震で海岸線が4mも隆起

観測史上で最大級の輪島の海岸が4メートルも隆起したという。曽々木に住む知り合いの人から聞いた話だが、地震発生時に海が突然紫色に変わったそうである。
最大震度7を観測した能登半島の状況を6日、共同通信社機で上空から取材したという。
輪島市沿岸部の約15キロにわたる範囲で港湾内が陸地になるほど顕著に地盤が隆起した様子を確認できたようだ。同乗した名古屋大の山岡耕春教授(地震学)は「予想以上に大きく隆起していて非常に驚いた。2007年の能登半島地震による隆起より大きい」と話した。


隆起の痕跡が顕著に見られたのは、輪島市北西部の大沢漁港周辺から同市門前町鹿磯周辺にかけての沿岸約15キロ。隆起によって海中から地上に現れたとみられる白っぽい岩肌が複数の場所で確認できた。山岡氏によると、元々地上だった場所が黒っぽいのに対し、海面下だった場所は貝殻や砂で白っぽい色をしているため、色の違いで区別できるという。


大沢漁港で海底だった場所が見えていたほか、鹿磯では消波ブロックより沖側の海だった場所も隆起によって砂浜のようになり、ブロックが完全に姿を現していた。鹿磯では、人工衛星「だいち2号」の観測によって最大4メートルの隆起が確認されている。

砂浜が200mも広くなった海岸も

輪島港岸壁に漁船着岸不可となった

250m以上の砂浜が突如現れた

地震による地殻変動で、このような隆起は稀だという。船の安全な航行のためには、全域的な海底実態調査を実施すべきなのではないだろうか。

以下、追加記事

珠洲の揚げ浜塩田の塩汲み場が海岸隆起で利用不可となった模様。

何処か位置不明となった塩汲み場

道の駅「すず塩田村」周辺では、住民が「海岸が1、2メートルは高くなった」と話した。地震前は見えなかった海底が隆起し、白っぽく見える=10日午前9時半、珠洲市清水町© 北國・富山新聞揚げ浜式製塩が行われる珠洲市外浦沿岸でも海底が隆起した。同市清水町の道の駅「すず塩田村」からは、海岸線が海側に100メートルほど前進して海底があらわになった。


塩田の砂に海水をまき、日光と地熱で蒸発させて塩を取り出す揚げ浜式製塩。能登伝統の塩作りは近くの海から海水をくみ上げることから作業が始まる。
かつて浜士(はまじ)として製塩に携わった東川宝一(ほういち)さん(89)=同市片岩町=は「海が離れ、塩(海水)が遠くなった。先人から受け継がれた製塩作業はこれからどうなるのか」と話した。

さて、見たくない写真を見てしまった。

見なきゃ良かった