2013年3月30日土曜日

深夜の非常ベルでパニック発生!

地滑り計測器の作動状況点検確認を続けて10日ほど過ぎた深夜、突然現場事務所の地滑り警報非常ベルが鳴り響き、寮で就寝中の全員が跳ね起きた。
工事区長が青ざめた顔で次々と職員に対応方針を怒鳴るように指示した。請負業者にも直ちに現場状況の調査を命じた。
助役が駅長に列車運転状況を確認したところ、信号機が赤を現示し全列車運転休止中となっていた。
事務所に連絡員を一人残し、全職員が現場に急行した。
私は職員1人を伴い山の頂上の地割れ状況確認のため、懐中電灯を照らしながら現場に向かった。
トンネル入り口付近を通ったとき、線路に異常がなかったので一先ず安心した。急な崖路は幸いにして雨は降らずに足を取られることはなかった。ただ、強い季節風が木々を揺らし不気味な音を発していた。
火事場の馬鹿力か、疲れは感ぜず現場に到着した。目視確認、地割れに変化なし。計測記録紙を確認したところ、針が大きく振幅した記録が数か所に認められた。3か所の計測器とも同様であった。不思議に思いながら計測器の作動状況に注視した。暫くして振幅の原因を突き止めた。それは強風のためピアノ線が揺れて異常値が発生していたのであった。このことを一刻も早く駅長に連絡して列車運行開始をしなければならなかった。現在なら携帯電話ですぐ連絡可能であるが、当時は直ちに下山して口頭で伝達するしかなかった。列車運行が開始された連絡を受け、事務所に集まった全職員の顔に安堵感が溢れた。
とはいえ、地滑りの危険がなくなったわけではない。万一の危険率を限りなくゼロにするための方策を練り、緊急に対策を実施しなければならなかった。
このため、綿密な地形測量を早期に実施されることになった。
測量要員は主管課(土木課)だけでは対応できないので、線増課からも派遣されることになった。
当然私も測量要員に組み入れられた。急峻な崖を線路中心方向に対して10m間隔で横断測量を実施することに決定された。作業パーティは4人編成として、箱尺、ポール、距離測定テープ、視準器(ハンドレベルという)を用いて崖の測量作業が開始された。それはロッククライミングしながら測量を行うような難作業であった。

2013年3月28日木曜日

国内最先端を誇るトンネル施工技術集団

我が国の鉄道の歴史は明治5年、新橋・横浜間の開通から始まった。政府は西欧列強並の国力を築くため、全国の鉄道網構築に注力した。明治後半といえば新橋・横浜間が開通してわずか30年前後だが、極めて短期間に日本列島に現在の骨格である主要幹線が開通した。能登線61kmが開通するのに10年余を要した。これと比べれば、注力されたそのエネルギーの凄まじさが実感できる。
日本列島は山岳地帯が多い。それ故に急峻な地形に鉄道を敷設するにはトンネルや橋りょうが多くなる。そうしたことから我が国の土木技術開発は国鉄が担ってきた。
昭和37年3月、当時としては我が国最長の北陸トンネルが完成した。その計画設計と工事管理を岐阜工事局が担った。岐阜工事局では紀勢線、神岡線、北陸本線親不知トンネルなどを請負ではなく直轄方式を導入し、施工技術発展向上の研究開発に努力し貢献した。
昭和39年4月、鉄道建設公団発足により青函トンネル工事が着手された。この技術陣は岐阜工事局直轄部隊が主力となった。
そんな職場風土が漲った岐阜工事局でも、愛岐トンネルは難工事の一つであった。工事区長はトンネル一筋の筋金入りであった。
その区長から地滑り観測システムの説明があった。山の頂上部の亀裂の動態を3基の計測器により測定しており、一定以上の変動がある場合、列車信号機に連動させ列車停止の赤信号を現示させると同時に、工事区事務所に警報ブザーが鳴動するというものであった。
私の業務は、変動記録計器の記録紙交換とインク補充、亀裂の目視確認であった。説明を受け現地に案内してもらうことになった。
曲がりくねった急な崖路を登ること約30分、息を切らせてようやく頂上に到達した。そこに地割れした部分を跨いで3本のピアノ線が張られていた。用紙の交換、インク補充の方法を教えられ下山した。
精神的に緊張する任務に責任感と不安感が同居した。
定光寺工事区で
くつろぎタイム・トンネル工事担当の先輩、後輩と

2013年3月27日水曜日

山が動いてる、線路が危ない!

着任して1か月ほどしたある日、係長から「トンネル工事現場の山の頂上付近の地表面に地割れが発生して地滑り発生の恐れが出た。そうなると線路が破壊されてしまうので観測計器を山に設置した。現場事務所の要員に余裕がないので観測調査員として長期出張を命ず」、と通告があった。
名古屋から電車で30分(当時)で定光寺駅に到着する。その駅から多治見までの数キロメートルは急峻な山あいの崖下に玉野川という川沿いに線路がある。万一、地滑りが発生すると線路はひとたまりもなく破壊されるという地形である。
中央本線定光寺・古虎渓間愛岐T位置図
急峻で狭隘な地形に複線化するのは困難なので、別線で線路線形をスピードアップが図れるように曲線半径を大きくするためと列車保安上、複線断面のトンネルを施工する計画となったものである。
地滑りの原因は崖の地表面に直近して複線断面のトンネル掘削によるものであった。
線路横断面図
中央線ルートは川沿いの僅かな平坦な部分を巧みに利用して設定されている。ここに横断面図のとおりトンネルを掘削中であった。トンネル内部に入ってみると、アーチクラウンが側壁上部とずれが発生しており、原因は地山の圧力が相当かかっているためとみられ、応急的に支保工を取り付け防護されていた。
岐工情報という年1回発行されている部内誌があるが、その表紙に現場写真が掲載されていた。
トンネルと線路の位置関係がよくわかる
トンネル掘削の坑外設備は大工場の様相だった
次の日から毎日朝夕2回、そのほか深夜でも警報が鳴るたび急峻な山の頂上まで、息せき切って登山しなければならなかった。

2013年3月26日火曜日

龍宮城から帰った浦島太郎

昭和38年10月15日、工事区長から「岐阜工事局土木課勤務を命ずる。土木第六係勤務に指定する」と記載された辞令が渡された。赴任は一週間以内に行うことが慣例となっていた。
たまたま、東京に住んでいた姉が結婚することになり、神田神宮で挙式する日がその一週間以内に合致していた。故に能登から親戚縁者10人が上京するのに合わせて同行することにした。
私の汽車賃は赴任乗車証発行により不要であった。東京で2泊して岐阜に向かった。随分得をしたように思った。
ところが1週間後、経理課に呼び出され、「君は7月に寒冷地手当が支給されている。冬期前なので全額戻入しなければならない」と。
実はその寒冷地手当で何と扇風機を購入していたのだ。そんなことで数千円の赴任手当は消えてなくなった。

独身寮は木造2階建て、34年から新規採用者が増え始め、35,36,37年採用者が特に多かったため、60数名が入寮してすし詰状態となっていた。客間や卓球室にまで寮生が入り、私は10畳間3人部屋に入った。
寮でのひととき
同部屋の一人は七尾出身の2年先輩、もう一人は長野佐久市出身の1年後輩であった。
土木課第6係の業務は中央本線高蔵寺・古虎渓間の複線化工事を担当していた。係長、主席、課員は能登線現場から帰ってきた人が多かった。そこは軌道工事とは無縁の世界。愛岐トンネルという複線断面の工事管理と発注業務を主としていた。私は再び右も左もわからない仕事を担当することになった。
係の旅行会・浜名湖舘山寺にて

2年2か月間の能登線建設に従事した者にとって、龍宮城から帰ってきた浦島太郎そのものの状態になった。暫くの間は1年後輩に仕事の方法を教わりながら業務を行った。

2013年3月25日月曜日

能登線余談その3(最終章)

平成16年、この年、のと鉄道穴水・蛸島間が年度末を以って営業を停止することが決定された。それでも存続を求める地元の声は止むことがなかった。
しかし、存続を求め関係各機関へ奥能登から訪れる陳情団の中に、マイカーに乗って来る人が珍しくなかった。マイカーの普及と道路網の整備が進み、鉄道利用よりも車の方がはるかに便利になったことを如実に現している。のと線宇出津・穴水が1時間、穴水・金沢2時間、急行でも2時間半の鉄道に対してマイカーで2時間弱では軍配はどちらかが明白。
だが、高齢者、通学者は埒外にされてしまう。しかし、そのための経営を民営会社に負わせることもできない。
昭和62年、国鉄は分割民営化された。それまで採算性を棚上げして全国隅々まで鉄道事業を続けてきた。その結果、累積債務が27兆円。その金利が毎年3兆円。関空建設費が3兆円という。毎年関空を作り続けていかなければならない天文学的といえる借金を抱えていた。

さて、話を元に戻そう。
能登線が廃止決定されて、その前に乗り納めに行こうと思い立った。女房もつきあうと云ってくれた。ある日、その話を高校のクラスメイトにしたところ、ワシも付き合うと言ってくれた。もう一人のクラスメイトも女房も一緒につきあうと。結局、3組夫婦6人で「さらば能登線、見納め会」と銘うって5月15日乗り納めを行うため早朝金沢を出発した。このメンバーは以前から2度も海外旅行をしている仲間である。私には過ぎた仲間である。私個人のために付き合ってくれるという仲間を、これからも生涯の友として大切にしていきたいと思っている。
途中、「夢一輪館」で手打ちそばを
思い出の詰まった宇出津駅にて
乗り納めの列車(1両は列車と云わないか)が到着
列車の最前部に立ち、前もって工事記録写真を整理したものをファイルに入れ、通り過ぎる景色とそれを見比べながら終点蛸島までの1時間を楽しく、懐かしく、これで最後となる列車の旅を楽しんだ。
機関車を運転したこともあった田ノ浦海岸付近・当日撮影
同上箇所の建設工事状況
蛸島に到着して珠洲焼資料館、能登ハーブ園を周り、かつて数回訪れたことのある九十九湾断崖上に建てられた眺望の優れたホテル「百楽荘」に1泊した。60代の女将さんに昭和36年頃の話をしたところ非常に喜んでもらえた。当時、20代の姉妹がおられレコードを借りに行ったこともあった。
その一人が女将さんであった。能登線存続の活動を精力的に行っているという話を伺った。
エレベーターで九十九湾上の四阿造りの宴会場へ
翌日、真脇遺跡を経由して能登空港に寄り道した。
もう鉄道の時代は終わったと身に染みて感じた能登空港で
能登線が開通してからでも東京へ行く場合は8時間を要した。それがわずか1時間。このギャップは埋めようがない。金沢から小松空港経由しても2時間半はかかる。
能登は便利になったと痛感する。
能登線は消滅した。しかし、私の青春時代に築いた能登線は奥能登の発展に欠くべからずの鉄道であったことは紛れもない事実であろう。

2013年3月24日日曜日

能登線余談その2

これまで能登線建設の模様を紹介した写真は、ニコンSPというカメラで撮影したものである。
写真は名刺サイズで焼き付けられたものが殆どである。これをスキャンしてJPG化した。
原版がせめて手札版くらいならもう少し見栄えのある写真をアップできたのにと残念に思う。
今ではネガからJPGに変換できるのだが、そのネガも見当たらない。
現場撮影したフイルムを持って宇出津の写真屋に現像・焼き増しを頼みに行ったとき、店主が私のカメラを見て「是非譲ってほしい」と乞われた。理由を聞くと、ニコンSPはプロが憧れの機種なのだと。
それまで私は自分のカメラがそんなに値打ちのあるものだとは知らなかった。
高校を卒業して間もないころ、弟がそのカメラを持ってきて兄貴にやるといってもらったのものであった。何でも私が蒐集していた切手ファイルを弟に譲ったのを、友人がそれとカメラを交換してくれとせがまれて手に入れたという。
それはチョコレート色した分厚い皮のケースに収められていた。
ニコンSP
写真屋の親父に言わせると、昭和32年発売、レンズ交換できるフォーカルプレンシャッター機能で、レンズがF1.4、ドイツのライカを凌ぐ高性能レンズで98,000円の代物だと。
初任給が1万円の時代であるから、現在価値に換算すると100万円以上か。若いアンちゃんがそんなカメラをぶら下げているのが不思議に思ったに違いない。
そんな話を聞いて譲る気持ちが起きるわけがない。ところが、昭和57年頃、家族で乗鞍岳へ行ったとき写真を撮ろうとした際に巻き上げ部品が突然外れて地面に落ちた。部品を拾ってカメラに取り付けたが、家に帰って巻き上げレバーを調べていたら部品が1個足りないことに気付いた。
カメラ店に部品を取り寄せてもらいたいと依頼したが、30年前製造でもうその部品はないといわれた。やむを得ず4万円くらいのバカチョンカメラを購入した。
最近、ニコンがこの復刻版カメラを販売して即、売り切れだったようである。デジタル時代にはもうそんな価値がないと思うのだが。

2013年3月23日土曜日

能登線余談その1

私の青春時代の重要な証である能登線は、平成17年3月31日限りでその使命を全うし廃線となってしまった。あらゆる地図からそのルートも一切消え去ってしまった。
この無念さを表現する適切な言葉を見つけることは不可能である。
だが、この無念さは私だけではなく、ほかにも大勢の人がいることがわかった。ネットで「能登線」と検索すれば廃線後の情報が容易に知ることができるのである。廃線を惜しむフアンが何と多勢なのかと。
月日の経過とともにすたれ行く能登線全駅を、そうしたフアンが驚くべき行動力を以って隈なく写真撮影したものを見ることができる。
次の写真と比較し、変わり果てた小浦駅を見ると涙がにじむ
開業準備を急ぐ50年前の小浦駅新設工事
真脇駅あとも無残・・・・
50年後にそのような姿になろうとは誰も考えもしなかった
そしてこんな写真もマニアが写してくれていた。
恋路・鵜島間第2宗玄橋りょうの「橋りょう標」が
管理 岐工区長 鈴木邦雄 と判読できる。この人は現場事務所に着任した当時の上司、助役であった。S39.4.1鉄道建設公団移行後も珠洲工事区長として全通まで業務を全うされ、定年退職まで公団におられたと聞いたが、小木工事区でお別れした後は一度も再会することがなかった。

能登線建設に携わった職員は、私より1年~5年上の先輩が10人以上を数え、適齢期のその人たちは現地からお嫁さんをもらう人が続出した。

ちなみに私が最年少のハタチ前後で、結婚適齢期に時期早尚であった。

2013年3月21日木曜日

引き続き軌道敷設と桁架設業務を遂行せよ

宇出津・松波間が開通した当日、10月15日付け転勤の事前通知書が渡された。
その通知書の裏に、「本通知書に不服がある場合は苦情処理委員会に申し立てすることができる」と記載されていた。辞令は10月15日に正式に発令となるが、何らかの事情で転勤に不服がある場合の救済の道として2週間前に事前通知書が手交される制度があった。
私としてはもう暫く現場事務所勤務を続けたいという気持ちがあったが、辞令を受ける覚悟を固めた。
開通後も軌道工事は急ピッチで進み、鵜飼駅設置予定位置が発進基地として貨物留置線を増設することになった。
鵜飼駅予定地に貨物留置線が増設された
鵜飼駅予定地から終点方の状況
そして最後の仕事が上戸駅手前の竹中川橋梁の鉄桁架設であった。

竹中川橋梁位置図
鉄桁架設前の準備作業状況
鉄桁は製作工場から松波まで部材ごとに貨車で運搬され、土工線に乗り入れて谷崎トンネル出口付近で取り卸され、そこで組み立て作業が行われた。
組み立て完了
鉄桁はディゼル機関車で約400m運搬された
工法は手延べ式架設法によった
慎重な移動作業の実施状況
これ以遠の能登線建設は他人の手に委ねることになった
無事架設が終了し、私の能登線建設工事に関わる業務は完結した。
転勤を間近に控えたある日、職員家族慰安旅行が行われた。
行先は能登金剛、千里浜方面
皆さんお元気で さようなら
昭和36年7月中旬、右も左もわからないグリーンボーイは、2年と2か月にわたり能登線建設に関わり、軌道工事に関しては一人前の技術者になることができたと自負すると共に、青春時代を郷土のために尽くすことができ、数々の思い出を残してくれた。そんな機会があたわった私は幸せ者に違いない。

2013年3月20日水曜日

かくして能登線は全通した

能登線は昭和28年12月12日、請負者清水建設により第1工区を皮切りに順次着工され、5年半の工事期間を経て昭和34年6月15日穴水・鵜川間が開通した。
私の小学5年生の時に着工、そして1回目の開通式が高校1年生だった。中学生の3年間と高校1年の開通前まで、柳田村の実家から金沢までの所要時間は7時間、とても日帰りはできない時代を過ごした。柳田から北鉄バスで30分、待ち合わせ40分、宇出津から国鉄バスで穴水まで2時間、穴水駅で輪島発金沢行きの列車待ち合わせが40分、金沢まで3時間。珠洲方面の人たちはさらに2時間も必要であった。それ故に、奥能登住民にとっては鉄道開通が悲願であり1日も早い開通が熱望された。
金沢から列車に乗り、やがて穴水に到着する際には一つ手前の能登鹿島を過ぎる前に、乗客は先を競ってデッキに向かって並んで到着を待った。穴水駅に到着すると全力疾走して飯田行き国鉄バスに乗車を急いだ。先を越されると2時間以上も立っていなければならないからであった。鵜川まで開通したことでそんな苦労がなくなった。
そして昭和35年4月17日、鵜川・宇出津間が開通した。

S35.4.17鵜川駅で十河信二国鉄総裁がテープカットするを眺める益谷衆院議員
(北國新聞社刊 昭和花あり嵐あり より)
宇出津から金沢行き直通の列車に乗車できるようになったのは、私の高校3年なりたての頃であった。私にしてもその恩恵を享受できることになり喜びは人一倍大きかった。
その秋、就職試験受験で国鉄を選んだ理由が、「俺もそんな仕事をして人に喜ばれたい」という思いがあったからである。

処女列車を歓声をあげて迎える宇出津町民
昭和38年10月1日に宇出津・松波間が開通した後、翌年9月21日蛸島まで全通した。この年4月1日から能登線建設は国鉄岐阜工事局から鉄道建設公団中部支社に引き継がれていた。

S39.9.21松波駅で万感の思いでテープカットする益谷秀次衆院議長
(北國新聞社刊 昭和花あり嵐あり より)
能登線は益谷路線と呼ばれた。益谷秀次氏は宇出津町出身。能登に鉄道をと衆議院議員に当選する以前からその思いを強く持っていたといわれる。衆議院議長に就任した喜びよりも開通式でテープカットした時のほうが嬉しそうだったと奥さんが語られたエピソードがある。
能登線建設功労を顕彰し遠島山公園に建立された益谷先生像
銘板は吉田茂氏の揮毫により「益谷秀次君」と記されている

私が能登線建設に関与できたのは益谷先生のお蔭かも知れない。

2013年3月17日日曜日

かくして能登線宇出津・松波が開通

昭和38年10月1日(火)、宇出津駅において開通式が行われ、自民党副総裁益谷秀次氏、中西陽一県知事ほか地元関係者が見守る中、国鉄総裁代理藤井松太郎技師長がテープカットのセレモニーが行われ、祝賀列車が松波駅に向かって出発した。
祝賀列車が到着する松波駅では全町民が熱狂的に祝賀列車を迎え歓喜に沸いた。

その前日、否、当日未明にかけて知られざる悪戦苦闘が繰り広げられたのである。
9月30日、現場職員は早朝から開業準備に忙殺された。
後片付けに追われる小木駅構内
開業祝賀の飾りつけ・小木駅
能登白丸駅にも日の丸や飾りつけ
請負業者が全駅の清掃、飾りつけが終わった確認作業を完了したのは黄昏となる時刻であった。
一旦寮に帰って夕食を取っていたとき、乗降場関係を担当していた3年先輩の技術掛が、「小木トンネルの側壁にクラックがあるので、剥離しないか気にかかる。急結剤とセメントとバケツを用意したが、側壁補修位置が高くて届かないと思う。ディゼル機関車を持っていけばアーチクラウンまで手が届く。どうだろう、機関車も運転できるし一緒に行ってくれないか。」と頼まれた。これは上司の命令ではない。技術屋としてこのまま保守局に引き継ぐのはプライドが許さない、という考えに感動さえ覚え「義を見てせざるは勇なきなりだ、付き合うよ。」と返答した。
松波構内に留置してあった機関車に乗り込み、再び無資格無免許でディゼル機関車のエンジンを始動させた。闇が広がる線路を一路6km先の小木トンネル現場に急いだ。
現場に到着し、機関車の屋根に上って点検ハンマーでクラック部分を叩いて剥離するか否か確認作業を開始した。
すると鈍い音がしたので手でその部分を触ってみると、明らかに浮いた状態となっていることが分かった。その部分を二人がかりで抜き出して急結剤とセメントを混合して穴の開いた部分とコンクリート塊にそれを塗り穴に埋め戻した。
そのまま手で押さえること20,30分。もういいだろと手を放すとじわじわ出てくるではないか。しばらくしてどうにか収まったので、次の補修部分を探し同様の作業を繰り返した。作業は開業日10月1日午前3時を回っていた。全ての補修箇所を点検し補修をするのは時間的にここまでと判断し、後ろ髪を引かれる思いで現場を後にした。午前4時、松波構内に到着し構内終点方から土工線に出ようとしたとき、既に営業線扱いとなって脱線機が正位にセットされていた。これでは大変なことになるので脱線機を反位にして一刻も早く構外に出なければならない。しかし、その解錠は駅長に頼むしかない。やむを得ず駅舎傍の宿舎の門を叩き、目を擦りながら出てきた駅長が、「何、まだそんな作業をしていた?そんな話は聞いていない。これは大問題だ!」と怒りをあらわにした。経緯を話しようやく退避が遅れた理由を理解してもらい脱線機を反位に操作してもらうことができた。
考えてみれば、既に営業線となっていた線路を無資格で機関車を運転したことになる。50年を経た今だからオープンにできる話ではある。

寮に帰って何気なく手を見ると手のひら全体が皺だらけとなって、指にクギに刺されたような穴が数か所あることに気付いた。原因は強アルカリ成分の急結剤とセメントによるものであった。先輩はもっと症状が酷かった。祝賀会は疲労困憊のため参加を見合わせた。翌日の新聞で熱望した地元住民の歓喜する模様が大きく報道された。「俺はやったんだ!」と感激しながらしばらく新聞にくぎ付けとなった。
その日、工事区長から「事前通知書」が手交された。「10月15日付、岐阜工事局土木課勤務を命ずる」と。

2013年3月15日金曜日

あちらが立てばこちらが立たず

S38年10月1日の開業が決定してからSLによる踏み固め試運転が2回にわたり実施され、それ以降の詳細工程が決定された。
ステップ1.開業予報本社上申(岐阜工事局土木課)
     2.開業監査
      (1)トンネル断面測定成果表に基づき現場確認(本社建設局)
      (2)トンネル、橋梁、擁壁等土木構造物目視確認、建築限界現場確認(本社建設局)
      (3)軌道整備測定成果表及び現場実施測定確認(本社施設局)                 
      (4)保安施設、通信、電力設備関係施設確認(本社運転局)                   
     3.列車試運転(金鉄局:開業までの1週間)
現場事務所では上記プロセスを円滑に実施するため、あらかじめ現場調査データを作成しなければならなかった。
トンネル断面測定はキロ程20mごとに行う必要があったが、トンネル箇所数が多く時間的にも人力測定では間に合わないので、最新鋭の自動測定装置を採用することになった。この機器はヌキ板で作成したフレームの四隅に発光灯を取り付け、ニコンの連続撮影ができるフォーカルプレーンシャッターと連動させるカメラとスケール基準となる三角形の標識を4か所セットしたものを取り付け、貨車の床にそのフレームを据え付けて20m走行ごとに発光させトンネル壁面に投影された光の輪を撮影し写真により断面測定を行うとするものであった。
その測定作業に携わったが、技術研究所のプロが持ち帰って果たして正確な成果表ができたのか知りようもなかった。出来形不良との指摘がなかったことから合格したことになった。
この測定方式が試行的だったのか、その後本方式の断面測定が採用されたとの話は聞かなかった。
最も大変な作業は、軌道整備測定調査票の作成であった。14kmの全長にわたり20mごとのゲージ(軌間)、水準、曲線部カント(傾斜量)、直線糸張り測定誤差、曲線の糸張り正矢誤差、5mごとの緩和曲線曲率誤差、レール20mあたりのマクラギ間隔と本数、これらをすべて実測し成果表に記入しなければならなかった。測定には集中力が欠かせなかったので精神的な疲労は相当なものがあった。このほか、建築限界測定を行った。測定は本来、おいらん列車と称する測定専用車を使用するのが通例だが、当現場では貨車にその装備を取り付けて測定することになった。
遠方に建築限界測定車・松波構内
おいらん列車の実物・金沢高架化ヤード使用開始時に使用
かんざし状に羽根が付けられていることから「おいらん列車」と称される。
本社監査が入る前に現場サイドで建築限界測定調査を開始した。構造物が何もなければ測定しないが、トンネルは入り口から出口まで羽根を付けた貨車をモーターカーで牽引しながら側壁に接触しないか注視していった。小浦地内に入ってトンネル側壁に羽根が接触してガリガリ音を立てた。
次のトンネルでも限界支障していることがわかった。この区間は路盤工事施工中に地滑りが発生した箇所であった。それにより路盤中心が海側にシフトしたため線路中心測量で現場合わせの軌道中心を設定せざるを余儀なくされた。その影響で側壁左側(山側)と線路中心が接近したためであった。
路盤工事施工時に発生した大規模地滑り
岐阜工事局50年史より
調査が終わって間もなく本社から監査員が乗り込んできた。最初は建設局所属の監査員が限界測定確認を行うことになった。限界不足と判定されると大問題になるので、請負業者に限界支障箇所の軌道中心を羽根が接触しないよう直ちに線路を「よっこ」するよう指示した。これにより羽根の接触箇所は何事もなく通過し、実施監査は異常なしと判定された。この状態は線路が不整形となっており軌道整備監査が受けれる状態ではなかった。
限界測定が終了し、軌道整備監査が施設局所属の監査員により行われることになった。業者に直ちに「よっこ」した軌道を原状復旧するよう指示した。これにより監査は何事もなく行われ合格となった。
「あちらが立てばこちらが立たず」の開業監査であった。

   
   

2013年3月14日木曜日

名勝「見附島」正面に現場事務所が移転

踏み固め試運転が終了して間もなく、軌道敷設工事が松波から恋路付近に至ったことから、九十九湾傍の小木工事区を閉鎖し、珠洲市鵜飼地内に設置されていた鵜飼工事区に移転することになった。この現場事務所は本来、恋路から上戸までの路盤工事施工のために開設されたが、路盤工事が竣工したので職員の主力が珠洲工事区に転出した直後であった。
この事務所は寮と別棟に設置されていた。とはいえ、寮まで数メートルの至近距離にあった。
寮の隣に珠洲保健所があり、また、そこは名勝見附島の真正面にあたり、直線距離で500mの位置にあった。

この地図には国民宿舎能登路荘が示されているが、S38年6月当時では国民宿舎用とする温泉掘削工事中であった。また、県道から見附島に至る直線道路はまだ影も形もなく、見附島に行く場合は川沿いの道を経由して大回りしなければならなかった。
請負業者の事務所も宇出津から松波駅すぐ傍の松波トンネル入り口付近に移転した。同時に、建築・電気・信号関係の職員が詰める松波見張所が松波城址公園の登り口付近に開設された。

レールが飯田方面に延伸するに従い、私の職務上の行動範囲が宇出津から恋路付近までとなり松波開業まで多忙を極めた。
松波駅からほどなく松波トンネル、長さ510mの恋路トンネルを出ると名勝恋路ケ浜があり、すぐ宗玄トンネルとなる。そこを出ると緩やかなカーブ区間となって宗玄酒造の酒蔵の裏手に臨む。
工事中は仕込中の酒の香りが辺り一杯に漂っていた。作業員たちは一服休みや昼休みの弁当は、レールに腰を降ろして香りを楽しみながら一杯飲んでいる気分を味わっていた。
恋路・鵜飼間南黒丸付近の軌道敷設作業
休日は海水浴もした見附島付近で
S38年9月中旬、松波までの踏み固め試運転が実施された。

小木・松波間踏み固め試運転の模様
この試運転では大勢の地元住民が見物に訪れ、長年の夢「鉄道開通」が間もなく実現できるとして満面の笑顔を見せてくれた。その笑顔は2年間苦労した思いを吹き飛ばさせるのに十分であった。

平成23年6月2日、岐阜工事局OB会が「懐かしの能登線の旅」を企画し、見附島で記念写真を撮影した写真が私宛に送られてきた。皆さんそれぞれが能登線建設時代の数々の思い出に浸られたことと思う。




2013年3月13日水曜日

おらが町に汽車が来た

S38年4月、宇出津・松波間営業開始に向け、能登小木、松波両駅舎建築関係を担当する助役、技術掛、建築工手の3名が着任、通信・電力関係担当技術掛2名、信号保安関係担当の技術掛2名も現場に派遣されて開業準備が急ピッチで加速された。
羽根、小浦、真脇、能登小木、能登白丸、能登九里川尻、松波各駅のプラットホーム建設も鋭意進められた。
軌道整備が完了した白丸・九里川尻間
羽根駅乗降場、待合室建築関係の作業状況
請負業者の主任技術者との打ち合わせが終わり雑談中の一コマ
もうすぐ松波、九里川尻川橋梁付近道床バラスト取りおろし作業
鉄道開業準備として蒸気機関車による「踏み固め試運転」の実施が義務付けされていた。5月末、軌道整備が完了した宇出津・小木間の踏み固め試運転が行われることになった。蒸気機関車はC58が使われ、第2宇出津トンネル出口から開始した。
第2宇出津トンネル出口で踏み固め試運転出発待機中のC58
踏み固め試運転実施にあたり、工事局サイドがこの機関車を安全に走行させるため、誘導手が機関車先端に乗り緑色の旗を振りながら誘導しなければならなかった。この誘導手を私に行うよう指示された。機関車先端の手すりを片手で握り、緑色旗を振りながら現場を走行した。試運転は5km、10km、15kmとスピードを3段階に区分して実施された。
羽根地内踏み固め試運転の状況
時ならぬ蒸気機関車の出現に地元住民は驚き、そして歓声を上げた。
この時ほど地元のために尽くしていると実感したことはない。
無事試運転が完了し帰路は機関車運転室内に乗せてもらった。無論蒸気機関車の運転室内に乗るのは初体験であった。沿道から子供が手を振っている絵本の一コマが思い出された。
機関車室内から撮影した走行シーン・残念ながら雨になった