2013年6月18日火曜日

青春時代の真ん中(その8)表千家・習い事八箇条

局内にサークル活動が数多くあったが、課の仲間から茶道班に入らないかと誘いがあった。
「侘び」と「寂び」という言葉は知ってはいたが、意味は漠然としか理解していなかった。
お茶でその心が知ることができるというので、ちょっと心が動いて一度だけその場に行ってみることにした。
総務課厚生係長が師匠となって庁舎内職員十数名の門下生を指導していた。
流派は表千家。土木屋の仕事柄、張りつめた雰囲気で進められる立ち振る舞いは窮屈に思えた。
神妙に座って成り行きを眺めていたが、そのうち師匠から和菓子が入った小鉢から、柳の枝でしつらえた箸でお菓子を取り出して懐紙の上に置くようにと指導があった。
どうぞお召し上がりくださいと言われるがまま口にした。久しぶりに和菓子のおいしさを味わった。
そして吾が座している前にお茶が出された。
「両手を添えて持ち、お茶碗の模様が正面にあるが、それをゆっくりと後ろにしてください・・・・と。
そのようにすると「どうぞお召し上がりください」と。三度に分けて飲み、最後はすすり上げるように飲んだ。
飲む作法にも緊張感があった。お茶が出されるまでの間は、主人のお点前が進められるのであるが、杓の持ち方、水の注ぎ方、袱紗さばき、粉の入れ方、お湯の注ぎ方、撹拌等々、全て流儀に従って粛々と進められた。これを極めるのは容易なことではないと思った。
次の週の班活動日になって、「どうする?やってみる?」と聞かれた。もう1,2回やってみるかと決心し出席することにした。
深山松風の声・・・・、茶釜に二枚の鉄片が入れられており、お湯が沸き上がる頃に発する「シャー」という音をこのように解説された。侘びと寂びが何となくわかったような気になった。よし、入門しようと意思決定した。
入門
一年くらい経ったある日、岐阜市内のある名刹でお茶会をすることになった。
お茶会を開いたお寺
懐石料理
岐阜工事局茶道班一同
お茶の師匠は大変熱心に指導にあたられ、春日市の自宅でも茶会が開かれることになった。

懐石料理の準備
もうすぐ準備完了です
岐阜市加納城址の近くに公民館があり、そこに立派な茶室が設けられていた。週1回の例会はそこで行うことになり、一年半ほど修行に励んだ結果、習い事八箇条の免状が降りた。
それから45年、今ではすっかり見事に忘れ去ってしまった。

2013年6月13日木曜日

青春時代の真ん中(その7)課の若い衆を率いて能登観光へ

昭和40年代になって国民所得の伸び率が高水準に推移するのに伴い、マイカー普及率が急速に伸びた。東名、名神高速自動車道も建設が急ピッチに進んでいた。
昭和43年7月、静岡・焼津間用宗地内の東海道新幹線を跨ぐ橋りょうの桁架設工事を、道路公団から岐阜工事局が業務委託を受けることになった。
その監督業務を土木課数名で行うことになり、その監督者の一人に指名され現場に助勤という形で赴任した。宿泊は用宗の焼き肉屋の離れの一室を間借りした。
その離れは在日韓国人が営む焼き肉屋の娘二人が住んでいた部屋であった。二人とも息を飲むほどの美人であった。襖に毛筆で大きく「慟哭」と書いてあった。失恋の悲しさに耐えかねて書かれたものだと推測した。
監督業務は新幹線最終列車通過を確認して、保線所運転管理者に工事着手の許可を得て請負業者に着手承認をし、新幹線確認車(通称つゆはらい車)が通過する10分前に作業終了の指示をし、保線所運転管理者に作業終了報告を行うのが工事監督者の仕事。従って、全てが深夜作業となる。鉄桁架設の指導は、この道30年のベテラン工事工手長があたった。
安倍川手前に巴川製紙という工場がある。東名高速と新幹線が交差する橋りょうはその付近にある。後年、東京へ出張するたびにここを通過するとき、往時の深夜作業が思い出された。
この出張が終わり岐阜に戻ってしばらくして、能登へ行ってみたいという若い衆の思いがあることを知った。
能登出身者として、この希望を叶えさせてやりたいと思った。おふくろに家に泊まりに行ってもいいか打診した。「何とかなる」と返答を受け、8月お盆前に男9人、女4人の14人が能登旅行に出発した。ハイライト1カートンを持って車掌室に行って、臨雇4人の急行乗車の承諾をお願いに行った。
金沢駅到着の際は、改札係りにお願いした。随分厚かましいお願いをしたものだと思うが・・・・・。
先ず兼六園へ
通行可能だった鼈甲橋

我が家で会食
宇出津行のバスを待つ
遠島山公園で
宇出津駅前から定期観光バスに乗車して狼煙に向かった。全国から押し寄せた観光客で賑わってバスに乗りこぼれる者が多くあった。
狼煙灯台で
曽々木海岸
垂水の滝付近で海水浴
露天風呂のような雰囲気
今日の反省会
翌日は総持寺、能登金剛、千里浜を観光した。
能登金剛
羽咋駅からタクシー3台に分乗
当時の千里浜は広い!
本当は手をつなぎたかった
今は亡き「おふくろ」に大勢で押しかけ難儀させ希望を叶えさせてくれたことに感謝したい。
その家は17年前におやじが脳梗塞で倒れて以来空き家になってしまった。年に2,3回掃除に行くだけとなったが、能登旅行の楽しかった思い出は永遠に消え去ることはない。

2013年6月8日土曜日

青春時代の真ん中(その6)薬師岳頂上満天の星

昭和42年8月初旬、課で登山の体験談をしていたら、1年先輩から立山縦走をしないかと話が持ち上がった。1年後輩が一緒に行ってみようと私を誘った。登山計画によると、有峰湖から薬師岳に向かって登山開始、薬師岳頂上でテント宿営、そこから五色が原へ縦走しテント宿営、ザラ峠を経て室堂付近で宿営、最終日に剣岳に登って下山する3泊4日の壮大な縦走プランであった。
寝袋を貸してくれるという人があって、その気になり8月10日富山に向かった。
富山から富山地鉄に乗り換え終点からさらに有峰有料道路を経て有峰湖の折立登山口までバスに乗った。
登山ルート
登山計画の記録が残っていないので、45年前のおぼつかない記憶をたどることとする。
折立から太郎平に向かって登山を開始した。
リュックには4日分の食料と衣料品、飲料水がぎっしり詰め込まれており、1時間も歩くと息切れしたので荷を少しでも軽くするため飲料水を捨てた。登山を続けているうちに喉が渇いたが水場がなく飲料水を捨てたのが悔やまれた。
太郎平遠望(ネット検索データより)
午後5時過ぎ薬師岳頂上に到着し、テント設営を行った。雪渓から流れ出ていた小さな水の流れが日暮れと共に気温低下で凍結してしまった。
薬師岳頂上(ネット検索データより)
薬師岳頂上で
雲上でテント設営
夜の帳がすっかり降りて辺りは漆黒の闇に包まれた。
何気なく空を仰ぐと満天の星。星空がこんなにきれいなものなのかと感動した。


翌日早朝、五色が原に向かって出発した。
馬の背を行く

縦走道・足を滑らせれば一巻の終わり
10時間以上も歩いただろうか。ようやく五色が原テント宿営地に到着した。
五色が原テント宿営地・右前方が薬師岳
テント設営地
憩いのひととき・眼下に黒部湖が
 翌朝、外に出てみると昨日の晴天が嘘だったように小雨がぱらついてきた。急いで朝食を済ませてテントをたたみ室堂に向かって出発した。
佐々正成が越えたといわれるザラ峠にさしかかる頃、風雨が強くなって全身びしょ濡れになり、震えながら喘ぎながら峠を越した。
想定外の悪天候となったので、室堂でのテント宿営を断念、翌日の剣岳登山も中止と決定してバスに乗り帰路に就いた。
平成18年9月、再び室堂に立った
平成18年9月、バスツアーで室堂に訪れた。その地に立ち、往時の縦走が懐かしく蘇った。


2013年6月6日木曜日

青春時代の真ん中(その5)青春の血のたぎり

課の青年部とりまとめをするようになり組合事務所に出入りする機会が増えた。
組合事務所は本庁舎の別館として建てられた木造2階建てで古ぼけた外観にそぐわない「新館」と呼ばれていて2階が大会議室、1階に和室が二部屋あって、その奥に間口2間、奥行き6間のスペースが組合事務所になっていた。
事務所の玄関前には、国鉄労働組合名古屋地方本部岐阜工事局分会と表示された看板が掛けられていた。
昭和43年御用始め、組合関係者の年始顔合わせ
分会執行委員長、書記長はこの事務所に常駐していた。いわゆる「やみ専」であった。執行委員長は係長クラスが選出されていて任期が2年。地本の執行委員長は組合の猛者であったが、岐阜工事局の分会執行委員長は職員代表者として当局と「なあ、なあ」関係で組合業務を取り仕切った。
工事局の業務体質から、地本の当局に対するスタンスとは馴染めない部分が多くあった。
だが、40,41年新規採用者が全職員の3割を占めるようになって、分会執行部を突き上げる雰囲気が出てくる場面があるようになった。
国鉄組織に工事局が全国に7か所設置されていた。組合は地本関係よりも、その7つの工事局分会が全国工事局労働組合協議会を結成して、工事局職員の労働条件改善要求を本社建設局と協議しながら待遇改善に努力した。近代的設備の整った独身寮の設置、老朽化した木造宿舎の高層アパート化、超過勤務、旅費の増額交付等に当局も誠意を持って対応してくれた。本社は国鉄合理化の先兵となっている工事局労働者との良好な関係を維持せざるを得なかったのである。
新採で若手職員が増加する中で、青年部活動が活発になってきた。
夏になると青年部主催のキャンプ交流等が盛んに開催された。
各課青婦部交流会・伊吹山
昭和42年郡上八幡キャンプ祭典
青婦部幹部の集会
スイカ割競技・見事ハズレ
昭和43年工青協西部ブロックキャンプ祭典
各課青年部とりまとめ役一同
古マクラギを持ち込みしてキャンプファイヤー
いろいろなゲームを企画演出した
昭和44年工青協西部ブロックキャンプ祭典・秋吉台
秋吉台ユースホステルで1泊
岐阜からこんなに大勢が出かけた団結力は凄い
国鉄に就職することになって帰郷した際、親父が「組合運動だけはするな」と忠告した。しかし、自分一人が皆の行動に背を向けることはできなかった。
昭和44年4月には副青年部長に祭り上げられていた。



2013年6月1日土曜日

9千人参加の子ども提灯行列

昨日(5/31)、百万石まつりの序章である子ども提灯行列が開催されました。
午後6時頃から市内各地から続々と「しいのき迎賓館芝生広場」に5,6年生の児童が集まってきました。
千坂校下少年連盟では北側少連会長、中屋公民館長、千坂小学校下川校長を始めとして父兄等関係者を含め300名が参加しました。
このほか、高崎元少連会長、岩田元交通安全推進隊長、池田元体育部長等のボランティアスタッフの皆さんも応援にかけつけていただきました。
全参加者数52団体9,072名が広場を埋め尽くし、一気に百万石まつりのムードが高まりました。
続々と集結中
千坂少連も元気いっぱい
提灯点灯
9千人の一部を占める千坂少連
午後7時、ファンファーレが鳴り響き出発式が開始しました。
続いてソプラノ歌手石川公美さんが壇上に立たれ9千人が市歌を合唱。
市歌合唱
続いて子ども会連合会長があいさつ、山野市長、松井市議会副議長からお祝いの言葉を述べられ、野口教育長の音頭で万歳三唱。
このあと、子ども会連合会少年委員長瀬戸拓実さん(千坂少連所属)が出発宣言をし、行進が開始されました。
先頭は大会旗
千坂少連は先頭から二番目、市役所前で「金沢市万歳」を叫びました。
市役所前を行く千坂少連
千坂少連の行進ルート
元気に行進
写真に何と地元の子どもたちが!北國新聞掲載記事
もうすぐゴールだよ
よく頑張ったね
最高の天候コンデションに恵まれ、百万石まつりの序章である提灯行列を楽しむことができました。
ご支援、ご協力を賜りました少連委員ほか関係者の皆様に厚く御礼を申し上げます。