2018年5月31日木曜日

大名行列

間もなく百万石祭りが開催されるが、天気予報は晴れ。雨でなくて本当に良かった。パレードも華やかに実施されるに違いない。

パレード開始を告げる大太鼓
大名行列を実施するだけでも当日の準備作業は大変なものである。今から6年前になるが、小生が校下の町連役員をやっていた関係で、今年は百万石まつりの行列参加の割当があり2人出てもらうことになるので、やってもらいたい、と指示があった。

当日、朝早く尾山神社近くの商工会議所に集合し、衣装合わせが行われた。4Fの大広間には既に大勢の「家臣団」や「鉄砲・槍部隊」の着付けが行われていた。着付けや化粧の担当者は京都の専門家が担当した。待つこと1時間以上、ようやく「足軽」クラスの着付けが行われた。おまけに長い竹竿と家紋の旗印を渡された。その1時間後、道路を挟んだ寺院の広場に集合するよう指示され、行列の訓練が行われた。それが終わると昼食をとってからバスに乗り込み金沢駅地下広場で待機するよう指示された。

地下広場では消防団の点呼、奥方行列の踊りの練習等が行われたが、中々移動の指示が出なかった。
金沢駅地下広場で待機中
待つことウン時間、ようやく移動の指示が出て駅前から随分離れた場所で待機することになった。
この旗を持って行進するのがこたえた
行列に参加するとあって、孫が応援に来てくれた
金沢城までの行進は「疲れた」!
行進だけではなく、突撃シーンを再現せよと指示され、喚きながら50mほど往復疾走させられた。その演技を駅前、武蔵、南町、香林坊、市役所前でやるように命令された。これにはまいった!
旗が風で煽られ必死で抵抗を余儀なくされた。おまけに、市役所付近では「わらじ」が擦り切れ足が痛みだした。

疲労困憊して金沢城から商工会議所までたどり着いた。そこで封筒が渡された。中身は1万円、もう一度お願いしますといわれても丁重にお断りしたい。
あれから6年、月日の流れはますます早くなってきた。




2018年5月30日水曜日

昨日まで知らなかったこと


雲は湧(わ)き 光あふれて

天高く 純白の球 今日ぞ飛ぶ

若人よ いざ

まなじりは 歓呼に答え

いさぎよし 微笑(ほほえ)む希望

ああ 栄冠は 君に輝く

甲子園で高らかに歌われる「あゝ栄冠は君に輝く」の歌詞である。かつて、伊藤久雄が朗々と歌っていた歌である。
昨日、ある記事に目を見張った。何とこの歌の作詞者が石川県出身者だったのである。
旧根上町(現能美市)出身の加賀大介さんという人(一九一四~七三年)であることを初めて知ったのである。

加賀さんは、四八年に主催者が公募していた大会歌の歌詞を作り、五千を超える応募の中から選ばれた。ただ、妻の名で応募していたことから、当初は妻が作詞者とされ、二十年後の第五十回大会を機に真実を明らかにした。

その加賀さんを描いたドキュメンタリー映画「ああ栄冠は君に輝く」が撮影中だという。撮影地に、七尾市中島町が加わることになり、八日に製作関係者が現地を下見した。


映画は、中島町と親交がある仲代達矢さんがナレーションを務めるほか、仲代さんが主宰する無名塾の役者も加賀さん役などで出演する。
当初は、金沢市と能美市で撮影する予定だったが、稲塚秀孝監督が無名塾に縁のある中島町でも撮影することにした。

八日は、加賀さんの少年時代を描く場面を撮る場所を探し、江戸時代中期に建てられた国指定重要文化財の民家「座主家」や高沢内科医院、中島中学校グラウンドなどを撮影地に決めた。今月下旬にも製作に取り掛かるという。

稲塚監督は「中島町は無名塾のホームグラウンド。地元の協力をいただき、いい作品にしたい」と話した。撮影地を案内した中島地区コミュニティセンターの高田則晃センター長は「演劇のまちとして、撮影地に選ばれて光栄。映画を通して、町をPRできるといい」と語った。

上映は意外に早く、七月七日から金沢市や能美市で始まり、七尾市でも検討しているという。
これは見逃す手はない。

2018年5月29日火曜日

いよいよ首都高を取っ払う計画が始動

江戸時代、東海道の起点は日本橋と定められていたが、現在の国道1号線の起点でもある。
その日本橋の現況は首都高が負いかぶさり、往時の風情が無くなってしまった。

日本橋の現況
江戸時代の日本橋
明治44年の日本橋
これでは風情が台無しだとして、首都高を地下にして元の風景に復元すべきだとする意見が根強くあって、ようやく国交省等関係機関が腰を上げた。

五街道の起点だった名橋・日本橋を覆う首都高の撤去は、景観改善の面で地元の要望が強かった。一方、首都高会社は老朽化が進む竹橋―江戸橋JCTの2.9キロメートルで大規模更新を計画。更新にあわせ、日本橋区間の地下化を検討していた。17年7月には国と都が検討開始で一致。11月に検討会を設置し、地下を通るルートの具体的な検討を進めていた。


七ツ立ちとは何時?
日本橋区間の地下には上下水道や電力施設などのインフラ設備が埋まり、東京メトロ・半蔵門線や都営浅草線など地下鉄も通る。周辺では民間再開発も複数計画されており、ルート選定は「限られた空間を縫う」(国土交通省)ように進められた。
今回のルートは当初検討していた地下の道路を減らし、周辺の民間再開発への影響を減らした。カギとなったのが首都高・八重洲線や東京高速道路(KK線)など既存の道路の活用だ。

50年以上も首都高がかぶさっていて、首都高も傷みが大きくなって取り換え時期に来ているのだという。完成は東京オリンピック後だというが、すきとした景観の日本橋を眺めてみたいものである。


2018年5月27日日曜日

三世代同居家族は町内で五世帯

先日(2日前)、町内の同好会定例会が終わって参加人員や使用器具類の記帳をするため会館事務室に入室した。事務室には午後1時頃から町会長がパソコンに向かっていたのだが、5時を過ぎてもパソコンに向かっていた。町会だよりを副会長に作成を依頼していたのだが、ようやく原稿ができたので見直し作業をしているのだという。

現町会長は就任して6年目に入った。「町会長は6年やらなきゃだめ」と私から言われたのでここまでやってきたと力説された。それにしても誰もやったことがない行事を次々と実施したり、100社以上に及ぶ寄付金募金等、決してまねのできることではない。その行動力は称賛に値する。一般会計に30万以上繰り入れしているのだという。
校下23町会のうち、ただの1度も連合会の会議に出席しない町会長がいたり、半数の町会は町会長の任期が1年で活動しているのが現状である。

4月から隣接地域の住民9世帯が町会に新規加入した。早速、町会長はごみステーションを設置、未加入者にも利用OKにしたという。この地域の住民から私の先代の町会長時代に加入したいと要望があったのだが、町名が違うのでお断りした経緯があった。ところが、新規加入した人の話によると、平成7,8年頃に当時の町会長に加入要望をしたのだが「ダメ」と断られたのだという。30年も経過してようやく希望がかなえられたことになる。

町会長の話によると大きな問題があるという。この地域と町会に入っている班のエリアには街灯が一つもないので、市に設置要望をしたところ、年間2灯しか設置できないとつれない返答だったという。なので、あの手この手を駆使して街灯整備に全力を挙げるという。
現町会長曰く、「私の任期中に6人の孤独死があった。何としてもなくしたい。」とも語った。
娘さん夫婦が今月、夫の勤務の都合で住まいを転々としていたのだが、新幹線工事の関係で県内に転勤することになり自宅の近くに住めないか検討中だとにこにこ顔で話された。
そして私に、町内で三世代同居の世帯はあなたを含めて5世帯だと話された。こんなデータも常に頭の中にあるとは恐れ入るばかりである

そんなこんなで、2,3分もあれば終える記帳時間が30分以上に及んだ。それに、玄関まで見送りに出ていただいた。6年の任期で終えるには町内の大損失になると考えたが・・・。





2018年5月26日土曜日

最後のYS-11

去る5月11日、高松空港で唯一保存されていたYS-11が日本航空学園に動態保存するため、能登空港に到着したというニュースがあった。


YS-11が国産旅客機としてデビューしたのが昭和40年だという。その4年後、吾々夫婦は新婚旅行で伊丹から松山までフライトした。

客室
初めて飛行機に乗る高揚感、飛び立つ前に滑走路でエンジンを全開して機体がフワッとした瞬間、ブレーキが解かれ機体は一気に加速して空に舞い上がった。50年前のあの感覚は今でも忘れられない。40分間のフライトだったと思うが、正に「夢のような気分」を体験した。松山空港では1年前に墜落事故があったので「落ちるぞ」と脅されもしたが。

能登空港に到着
国内の航空会社で最初に定期路線で就航させたのは日本国内航空である。運輸省の量産一号機の翌々日の4月1日に、東京(羽田) - 徳島 - 高知線で定期航空路線の運用を開始したという。
高松空港を午後2時15分離陸、能登空港に同4時15分に着陸、能登キャンパスに誘導する際は航空高石川、日本航空大学校の生徒学生、教職員約200人で歓迎した。一般客は能登空港のデッキから着陸を見学できた。

能登キャンパスは、エアロラボが3年前にYS11を羽田空港から高松空港に飛行させた際、専用の点検機材提供で協力した。日本航空大学校の浅川正人学長は「現存するYS11の大半が展示機となっており、生徒、学生にとっても飛来する姿を見られる貴重な瞬間になる」と話した。

保存期間が1年間、その後はどうなるのか気になるのである。

2018年5月25日金曜日

腹に開けられた7個の穴

手術のため腹に穴を開けられることは事前にわかってはいたのだが、昨夜、入浴するために裸になったので穴の跡を確認した。てっきり6個だと思っていた穴の数は7個もあった。4日後に抜糸(この穴の縫合は糸ではなく細い金属状のものが使用された)したのだが、腹巻でガードしてあったので正確に数えてはいなかった。


ダビンチでは4本の器具が使用されている例が多い。7個のうち1個は腹部に溜る血液を抜く管が入れられていた。なので、あと2個はその必要性が分からない。詳しく聞いても素人には理解できないだろうが。
集中治療室で医師から聞いた話なのだが、ダビンチの本体価格は5億円だという。それに、端末機器類は改良テンポが早いため、医科大では購入よりもリース品を利用しているという。
このため、手術日の決定は大阪の支援医師のスケジュール、リース機器の都合、病室の空き状態などを総合的に調整して決定するのだとか。

2年前から使用されて腎臓腫瘍切除に80件余の実績を積んだという。
さらに驚いたことに、手術の模様は機器販売業者とネット中継されて実施されているという。万一、機器が正常に作動できなくなった場合に備えて、即対応できる体制なのだとか。そうだろうなぁ、手術中に機器が故障したら患者の生命が危うくなるもんな

さて、退院当日に気にかかるのは医療費の支払いである。ナースセンターで伝票を受け取り支払金額を確認した。あれ、何だかおかしい。内訳書には100万円を超える数字がならんでいたのだが、支払いは数万円にもならない金額。4月から大幅値上げされた食費さえも請求されていない。??? 次回診察日にどういうことなのか説明を求めたい。



2018年5月24日木曜日

みえみえの嘘八百

昨日、午後8時から日大広報部がアメフトの不祥事に関して、内田元監督と井上コーチが記者会見を行なった。この先に宮川泰介選手が記者会見で内田監督や井上コーチから、理由が分からないまま出場停止処分を受け、精神的に追い込んで出場の条件として関大選手を潰せと指示を受けた経緯をつぶさに語った。違反した選手ではあるが、誠実な態度に信頼感が持てた。そんなこともあって、やむを得ず日大が緊急に開いた記者会見だった。


日大アメフト緊急会見、内田監督・井上コーチ”責任逃れ”に一同激怒!「これって、宮川選手一人が罪に問われても知りませんって事だよな…」

井上奨コーチとともに記者会見
日本大アメリカンフットボール部の内田正人前監督(62)=19日付で辞任=と井上奨(つとむ)コーチ(29)が23日、東京都内で緊急記者会見した。内田前監督は暫定的に大学の常務理事職を停止し、日大が設置した第三者委員会の調査結果に進退を委ねる考えを示した。井上コーチは辞意を表明した。3年生の宮川泰介選手(20)に対して悪質なタックルを指示したことを改めて否定した


質問に答える全てが嘘で塗り固めているということが、これほどはっきりした会見は見たことも聞いたこともなかった。理事長の次、ナンバー2という権力を手放したくないという強い意志が読み取れた。


井上コーチは内田側近コーチとして、監督を護る意思を貫いた。宮川選手のことなんかどうでもいいんだという考えがあからさまであった。


テントの中で号泣しているところへ井上コーチがやってきて、「相手の選手のことを思っているそんなお前の気持ちが弱い!」と言ったことを朝日新聞記者が聞いたという。

それにしても、宮川選手は顔を見せない謝罪は謝罪ではない、として堂々と誠実に経緯を語った。おやじさんも偉い。そんな息子の意思を尊重して会見を開いてやった。うやうやにしてはならないと思ったのだろう。

内田正人という人間は、権力を長く持つと正常な感覚がマヒする典型的な例であろう。



2018年5月23日水曜日

入院から退院まで

11日に入院して本日(23日)退院した。入院日数は13日間である。
自覚症状がゼロで健康そのものの状態で入院したのだが、入院理由は腎腫瘍切除のためであった。11,12,13の3日間は手術上体力的な問題がないのかを見極める検査がメインであった。

14日朝9時10分、手術の準備を整え、車いすに乗せられ病室を出発。5階の病室から患者専用のエレベーターで3階手術室に向かった。手術室は10室以上もあるのだろう。見たことがない大型機器が並んでいた。奥の手術室に到着し、麻酔注射のためか意識を失った。目覚めたのは集中治療室に移動して何分後なのか分からないのだが、18時30分だった。何と9時間も経過していたのだった。

何の痛みも感じないで9時間の手術が実施されたのは驚異的に思った。2人の医師が手術のダメージを確認しに来たのだろうか、私の姿を確認して顔を見合わせたのである。「どうかしましたか」と尋ねた。「手術直後に普通の状態と変わらない顔を見て驚いたのだ」という。一般的にはどんな状態が多いのかと尋ねると、「焦点の定まらないボーッとした顔が普通」なんだとか。

ロボット用の穴4個の傷跡にガーゼ、腹に血液が溜るのを吸い出す管、導尿管、脊髄に埋められた鎮痛用の管、鼻の中に金属棒が埋められていた。次の日、鼻の中の金属棒を引き抜かれた。これが入院中に最も苦痛を覚えた作業で、その金属棒の長さは40cm前後はあったのだろう。夕方、集中治療室から一般病棟に戻された。

何本もの管で繋がれた身体は、鎖に繋がれた奴隷のように思えた。だが、痛み止めが効いているのか痛み感覚はゼロであった。参ったのは3,4日続いたおもゆや流動状の食事、それも気持ちの悪い味付け。3時間間隔で訪れる看護師が体温・酸素量・血圧を測定した。19日、全ての管が外された。トイレに行くにも点滴のぶら下げる器具を動かす必要もなくなった。食事も普通食に戻った。

たまたまついでに発見された腎臓腫瘍。発見されなかった場合を想像すると恐怖を覚える。腫瘍の良性・悪性の判断は2週間後になるという。

そんなこんなで、家に戻って2週間ぶりにパソコンに向かっている。「あゝ 愉快なり」
である。



2018年5月11日金曜日

入院の日がきた

今日(11日)は入院の日である。出頭は午後1時。だから12時半までは自宅で普段の生活となる。全く何の不都合もなく普段通りの生活を続けているのに、14日は4,5時間も要する手術の予定だという。それも癌であるかどうかは術後に生体検査してわかるのだという。一般的には、手術よりも放射線照射で治療が行われるのだが、腎臓がんは放射線不可、生体検査不可なのだという。

4年ほど前に血液検査で前立腺がんが疑われるPSA値が4.0以上を示したので生体検査をした。生体サンプルの採取で肛門からピストル状の機器で8発撃ち込まれて採取された。結果は異状なしだった。腎臓の場合、生体採取は細胞をまき散らし他の臓器に転移する恐れが大きいのだという。

自覚症状が全くないせいか、手術に対する恐怖心が全く湧きおこってこないのはどうしたことだろう。仮に手術が失敗だとしても、腎臓はもう一つあるという安心感が大きいのかもしれない。
ダビンチというロボットによる手術は、顕微鏡で拡大された画面を見ながら切除したり縫合するのだという。しかし、全身麻酔でその様子は一切わからないだろう。

毎日飲んでいた薬のうち「血液サラサラ」の薬は2日からストップしたのだが、その薬は手術のリスクが高いのだという。止血ができなくなる場合もあるのだとか。
ほかの3種類の薬と、お薬手帳も持参するようくどくどと指示された。
病室の希望を書く書類があった。普通の大部屋、個室的大部屋、8千円台の部屋、それ以上の部屋といろいろ選択肢があるのだが、聞いたことがない個室的大部屋というものに興味を持った。カーテンで仕切られた部分を板張りにしてあるのだという。なら、それで十分と考えそれに丸印を付けた。

自宅にいる時間は3時間となった。何をしようかなぁ。



2018年5月10日木曜日

連続放火に女児殺害、世の中どうなった


新潟市西区の小学2年、大桃珠生(たまき)さん(7)が7日に殺害されて線路に遺棄された事件で、大桃さんが事件当日朝の登校時にサングラスをした不審な男に追い回されたと友人に話していたことが、市教育委員会への取材でわかった。周辺ではほかにも複数の不審者情報が寄せられており、新潟県警は事件との関連を調べているという。
10分前の電車が通過した後に遺体を置いた犯人は、土地勘が無ければそんなことはできないだろうし、捜索中の合間を縫って自宅近くの線路に運ぶという大胆さも異様である。

現場に花束が
また、埼玉・茨城では4月上旬から深夜に連続放火する事件が頻発している。
けが人や焼死者も出た。深夜、3分間隔で火を付けまわっている犯人像はどんな人間なのだろう。複数個所の放火場所が見渡せる川の淵に立って、大騒ぎの様子を薄笑いを浮かべて眺めている犯人を想像すると極悪非道の大悪人である。

この二つの事件に共通すること、それは「愉快犯である」ということができる。総力を挙げてこんな犯人を一刻も早く検挙してもらいたいものだ。

今日は子ども達が下校する見守りボランティアの当番日である。学校から当町内までの通学路は1.5kmくらいあるが、各町内のボランティアが毎日見守りを続けているので、安全に町内までの登下校が可能である。これは防犯体制が確立しているからこそできることなのである。これを機に、新潟市にもそうした機運が発生することを願いたい。

2018年5月9日水曜日

孫が野菜づくりに関心を持った

10日ほど前に消石灰を撒いて土に混ぜて、2週間は間を置くよう指示があったのだが、昨日はムサシへ行って腐葉土や肥料、トマト、ナス、キュウリの苗を買ってきて、午後から腐葉土と元肥を敷き込み、畝を整形した。
平日だというのにムサシは何と客の多いことか!

それはさて置き、高2の孫が何を思ったか、「俺、キュウリを植えて育てたい」と言い出した。高校から4時半ごろ帰って来たので、裏の畑へ行って植えることにした。
既にキュウリ以外は植え付けが終わっていた。先ず、植えるまでの工程を説明した。土を起こし石灰を撒いて漉き込み、腐葉土を撒いてそれを漉き込んで元肥を施すまでは相当の労力がいることを説明したのだが、神妙に聞いていた。

4株のうち1株を持って植え方の要領を説明した。孫は3株を何の問題もなく植え終えた。それからジョウロで水をやるよう指示し、それを難なくこなした。毎朝水をやるよう指示した。
そして今日、キュウリの棚を設置した。

キュウリ棚完成
孫が植えたキュウリ
トマト

ミニトマトも
猫の額より小さい畑の全容
この畑にやけにアンズの青い実が転がっているので上を見上げた。


こりゃなり過ぎ。だけど面倒なので間引き摘果はやめよう。




2018年5月8日火曜日

内川のたけのこまつり

去年の4月末にある人から電話がかかってきた。「今年の内川のタケノコまつりがもうすぐだけど、今年はワシの体調が良くないので中止にするわ」と。ある人とは、元内川公民館長を務めた人である。内川のたけのこまつりに、十数名の元館長と現職を含めた同窓生のグループが毎年、内川の料理店で宴会を開いていた。その会に3回出席し、去年は4回目となる筈であった。世話人は常に内川出身のその人であった。

ところがその3か月後、おくやみ欄にその人の名があったのである。町連会長、民謡師範などを続けておられ、お孫さんが全日本スキー競技大会で優勝したとうれしそうに話されていた顔を思い出すといたたまれない思いがする。

今年も内川たけのこまつりの模様が報じられた。つらい思いでその記事を読んだ。

一日タケノコづくし 収穫体験など盛況 金沢・内川地区 /石川
毎日新聞2018年5月5日 地方版
金沢市内で有数のタケノコの産地として知られる内川地区で4日、「内川たけのこまつり」(同実行委主催)があった。県内外から約2500人が集まり、タケノコ掘り体験や料理を味わうなど、初夏の魅力を堪能した。

特産品をPRして地元活性化の起爆剤にしようと、1989年に始まり、30回目。実行委によると、同地区の山は粘土質で、みずみずしく柔らかいタケノコが多く収穫される。特に今年は、大雪に見舞われた影響で春先まで土から水分が供給され続けたため、甘みが強く、豊作という。

同市三小牛町の竹やぶでは、生産者からくわの使い方を教わった親子らが、顔や服を泥で汚しながらも力を合わせてタケノコ掘りに挑戦した。小学3年生から毎年参加している金沢大付属小6年の神野正陽さん(11)は「4回目だから、もう慣れた」と自信たっぷり。「ギョーザにタケノコを入れると歯ごたえがあっておいしいのではないかと思うので、家族で作りたい」と、張り切って収穫した。

近くの内川公民館には販売所が設けられ、朝採りのタケノコ約800キロがご飯や天ぷら、煮物として売られた。「たけのこ重さ当てクイズ」など、ユニークなイベントもあった。

お世話になった1年後輩の世話人を務めていただいたその人のご冥福を祈りたい。


2018年5月7日月曜日

北信越県予選で星稜が航空を抑えて優勝

選抜の甲子園で華々しい活躍を展開し、ベスト8に勝ち進んだ星稜と航空石川が、春季北信越県予選で優勝戦を行った。大方の下馬評は航空石川に分がありと見ていたが、その予想を見事覆して星稜が堂々の優勝を果たした。

(以下、新聞記事抜粋)
選抜8強対決は星稜に軍配 石川県大会決勝
北信越地区高校野球石川県大会は6日、決勝があり、今春の選抜でともに8強入りした日本航空石川と星稜が対戦し、星稜が4―0で勝って優勝した。先発した奥川が12奪三振の好投で完封した。昨秋の石川県大会決勝は10―9で星稜、北信越大会決勝では10―0で日本航空石川が勝っていた。

星稜は二回2死一、二塁から山本の中前適時打で先制すると、六回も2死一、二塁から山瀬の左越え2点適時二塁打などで3点を追加した。日本航空石川は好守で先発の大橋をもり立てたが、自慢の打線が4安打に封じられた。

日本航空石川―星稜 六回裏2死一、二塁、山瀬が左越え2点適時二塁打を放つ
抜群の破壊力があった航空打線はなりを潜めた。甲子園で大活躍した原田はどうしたのだろう。星稜奥川が航空戦で大量の三振を奪ったという。甲子園に立った奥川はまだ1カ月ちょっとしか経っていないのに著しい成長をしたというのだろうか。

内山の二塁打

北信越大会では優勝は確実だろうし、夏の県代表も星稜ということになるのだろう。
航空の捲土重来を期待したい。

2018年5月6日日曜日

三助の仕事の流儀


江戸時代から銭湯には客の背中を流す従業員、いわゆる「三助(さんすけ)」がいた。釜たきや温度調整を担う番頭たちが、銭湯の裏方仕事と並行して担当していたという。番頭がいなくなり、背中流しの仕事もなくなったが、近年、復活の動きが出ているらしい。


 ●気配り目配り大切
「トタン屋根の家も建ち始めていたが、まだ焼け野原のようだったなあ」。東京都世田谷区の坊山義信さん(83)は、石川県から上京してきた当時の街並みを覚えているのだとか。大田区の銭湯で働き始めたのは敗戦の数年後。最初は釜たきの材料となる建築廃材を拾い集めた。やがて、親子ほど年の離れた先輩の見習いとして釜たき番に。そのころ、複数の銭湯で流しの仕事を経験した。

「三助(さんすけ)」とは、銭湯で入浴する客の背中や髪の毛を洗う仕事を行う男性のことである。
「三助」に背中を流してもらいたい客は、番台で申し出て料金を払い、札をもらう。浴室に札を置いて入浴していると、番台から、背中流しを希望する客がいる旨を受けた「三助」が洗い場に入り、客の希望を聞いて背中を流したり、髪の毛を洗ったりする。


「三助」は男湯女湯問わず仕事を行い、銭湯で働く男性の中では、最も給料のよい仕事であったといわれている。銭湯に行って、その道のプロフェッショナルに背中を流してもらうことは、風呂好きの日本人にとっては最高の贅沢であり、「三助」という仕事は昭和の中ごろ隆盛を誇ったという。 銭湯とは切っても切り離せない職業であるがゆえ、銭湯が無くなっていくとともに、「三助」も自然消滅していくのだろうか?


庶民が気軽に利用できるようになり、全盛期を迎えるのが江戸時代。庶民が暮らす長屋にはもちろんのこと、商人の家でも風呂などなく、人々は当たり前のように銭湯に行く。
水の確保が難しかったという点もあるが、「火事と喧嘩は江戸の花」といわれる江戸において、薪に火をつけ湯を沸かす行為に対する危険性もあったというのが、風呂を持たない理由のようである。 
国立国会図書館所蔵の「肌競花の勝婦図」によれば、堂々と女湯で仕事をしている三助が描かれている。

江戸っ子は銭湯が大好きだったといわれているが、1日に4回も5回も湯に入る人もいたそうで、木製の定期券を持ち、それを所持してせっせと通っていたのだそうだ。江戸風俗研究家の故杉浦日向子さんによると、「江戸のお湯はものすごく熱かった。そういう熱いお湯に日に何度も入るので、江戸っ子は肌が薄くなって、テラテラに光を帯びて、脂気が抜けて、独特の肌合いをしていた」(『杉浦日向子の江戸塾』PHP文庫)とのこと。「三助」に頼んで背中を流してもらっていたのでは? と。

江戸後期の銭湯は、2階がサロンのようになっており、そこで碁をさしたり、お茶を飲んだりおしゃべりに花を咲かせたりといった楽しみがあった。この頃銭湯は、湯につかるだけではなく、人々の交流の場で文化的な場所でもあったという。


復活の兆し
銭湯のオーナーは関東、関西に関わらず石川県出身者が多いということは既に触れた。
銭湯が加速度的に減少している中で、三助が復活の兆にあるという。めでたし、めでたしというところか。




2018年5月5日土曜日

かつぎのおばちゃん

昭和20年代~昭和30年代前半はかつぎ文化全盛時代だったといえる。私の家にも2日おきくらいに大きな荷物をしょって玄関で「よいしょ」と降ろした。主に置いていくものは宇出津から運んできた魚である。そのおばさんたちは2,3人のグループで、それぞれテリトリーを持っていた。商品は現金で取引は行われない。物々交換、魚が米に変化するのである。イシルや干物も当然荷物の中にはあった。


原則、米の売買は禁止されていた時代、「米穀通帳」は昭和40年代まで必要だったのである。が、終戦後5,6年を過ぎたころから警察官の取り調べは事実上なくなっていた。
私のおふくろは宇出津出身なので、宇出津の出来事などをよく聞いていたから、かつぎのおばさんが来るのを楽しみにしていた。

昭和30年代でも七尾線の列車の中はかつぎのおばさんがかなりのスペースを占領していた。
汽車を待つおばちゃんたち
中にはおじさんの姿もある
車内はこんな感じ
だいたいおばちゃんたちは威勢がいい。大きな声で笑ったりして会話は賑やかだった。
こんな風景が見られなくなったのはディーゼル化したあたりだろうか。モノと文化を担いだおばちゃんたちの姿がなつかしい。


2018年5月4日金曜日

1泊15万円の部屋

この大型連休を利用して家族旅行を楽しんでおられる方も多いことだろう。
自分を振り返ると30代、40代の頃、子供たちは4,5歳~10代であった。最近になって娘達が「小さかったころ連休で家族旅行をしたことがなかった」とこぼしていると女房から聞いた。当時、連休と云えば両親の住んでいる奥能登へ帰郷することを定例としていた。否、連休どころか夏祭り、お盆、年末年始の4回は必ず帰郷していた。5人の兄弟もそうしていたから、おやじとおふくろは20人前後の人間が急に増えるのだからそれなりに大変だったに違いない。

さて、前置きが長くなったが、DiscoverNipponという横浜MM21の写真を眼にしたのだが、その写真に写されているヨットの帆をかたどったホテルを見て、工事中だったそのホテルを見学したことを思い出したのである。


平成6年ころだったか、まだランドマークタワーも工事中で、MM21もコンベンションセンターが完成していたに過ぎなかったころである。日建設計が工事監理をやっていたので、そのつてで見学させてもらった。そのホテルは奇抜な形をしており、横浜港に浮かぶヨットに見立てた設計だという。ホテルの形状は平面的に見るとV字型をしており、V字型の先端には各階とも浴室が設けられていた。5階くらいの浴室から見える風景は抜群の眺めであった。宿泊料金は1泊15万円に設定したと説明があった。贅沢な気分に浸れる代金が15万円、利用状況を知りたくなった。


この数年後、出向先の社員数名と横浜に出張したのだが、余りの変貌に驚いた。そして横浜市の港湾管理部の船に乗せてもらい、港内を1周した。そうしたら、写真と全く同じ位置からMM21を見ることが出来たのである。
その後、清算事業団を退職して県の関連機関に勤務したのだが、そこでの研修会で再びMM21を訪れた。地下鉄も開通して絵に描いた餅が現実になったことに驚きだった。

2018年5月3日木曜日

GW後半になった

現役時代はGWが待ち遠しかったのだが、年金暮らしに突入して10年以上も経過すると、年中GWのわが身としては特にGWが待ち遠しいとは全く思わないのは当然だと思う。
しかし、生活にメリハリがなくなり五感の感覚も衰えてきたとも思える。なので、最近は季節の移ろいをもっと肌で感じ取る努力をしたいと思うのである。

去年の今頃、大乗寺丘陵公園のツツジが満開だったので行ってみようと思ったのだが、天候が思わしくないので断念した。明日の午前中に行ってみようかな。町内の公園のツツジも満開で見ごろを迎えている。
卯辰山の菖蒲園には何度か行ったのだが、早朝(4時か5時ころ)に開花する時に「ポン」と音を発するのだという。この音も聞いてみたい。

先月、GW前半入りした日に成田空港の混雑している風景が紹介された。


 すごい時代になったものである。私の20代の頃は1ドル360円時代で、海外旅行はそれこそ高根の花だった。日本人にしろ外国人にしろ、出国するときに1000円の出国税を徴収する制度が実施されるという。この税の使い道は何だろう?

今日の高速道路渋滞予報だという。北陸は渋滞と無縁になっているが、昔は敦賀・武生間や福井・丸岡間は渋滞ありきだった。能登有料道路が羽咋柳田までだったころは、柳田~中島間は地獄の区間だったのである。良い時代になったものだ。


金沢のGW後半のイベント予定表があった。


現役の皆さん、大いにGWを楽しんでください。


2018年5月2日水曜日

入院前の各種検査

先月中旬に医科大病院の入院日が5月11日と決定したのだが、昨日(5月1日)は入院の事前検査のため午後1時に医科大に行った。

先ずは正門入口から入って左手の総合受付へ
 受付を済ませてその奥に進み、血液・検尿受付へ。ここはいつも超混み状態なのだが、昨日は午後からなので3番目と早かった。採血5本、といっても瞬く間に終わってしまう。そこで検尿カップを受け取り採尿でここは終了。次に2階に上がって心電図測定。その後、X線撮影をしたのだが、一般の胸のレントゲンのほかガラス張りのベッドに上向きで寝そべるよう指示があって、息を吸って、吐いて、はい止めてと2回ほど繰り返した。こんな検査は初体験だった。

次に向かったのは肺機能検査。ここの検査室に入ると見たこともない機器類が沢山あったのだが、カプセルのような形をしたもののドアを開けて、腰かけるよう指示された。マウスピースを口に入れ、そのマウスピースとドアに固定された機器と接続された状態になった。ジェット機の操縦室のような空間に入って、外から看護士がアーセイ、コーセイと細かく指示が出された。要するに肺の吸い込み容量と一気に吐く瞬発力を測定するのである。何度も同じことを繰り返したので汗が滲んだ。

この結果が著しく平均値を下回っているという判定が出された。肺機能がそんなに衰えたのかなぁと心配になった。
指定された検査項目は以上だったので、午後2時泌尿器科の受付を済ませて受診室前の待合室のイスに腰を降ろした。

結果的にこれからが長い長い待ち時間があった。何と5時30分、ようやく自分の番号が表示された。すでに主治医は検査データを把握していた。血液検査結果も問題ないし、いいですねぇと云われたので、肺機能低下について質問した。「そんなに気にしなくていいですよ」と云われて落ち着いた。入院説明があるので待合室でお待ちくださいと指示されまた30分ほど待たされた。

看護士が名前を呼んだので立ち上がって、誘導された部屋に入った。
これから入院についての説明だという。
これが資料が沢山あって説明者も大変、聞く方も大変だった。病室はどんなランク?、持参するもの、貸出品の料金、食事、保証人等々30分ほどかかった。
入院費用について質問した。
先端医療ということだが、費用はどれくらいか?
「保険認定されているので、1割負担の月最高負担限度額54,000円以内で収まるでしょう」と答えられた。



最近、急速に普及しているのが、手術支援ロボットの「ダヴィンチ」(米国製)だ。日本では2009年に国に承認され、10年春から販売されている。国立大学病院や拠点病院などで導入され、輸入代理店のアダチ(大阪市)によれば、「国内は累計で130セット程度」と言う。 価格は3億円。
「ダ・ヴィンチ」の費用負担
平成24年4月に前立腺がんに対する全摘出術、平成28年11月に腎がんに対する腎部分切除を行う場合に、保険適用となりました。
【健康保険自己負担額】
・例1:70歳以上の方(一般所得)   44,400円+保険外療養費(個室代、おむつ代など) 
・例2:70歳未満の方(3割負担)   約50万円+保険外療養費(個室代、おむつ代など) 





2018年5月1日火曜日

46年前の記憶

最近の話だが、グーグルの車が歩道に乗り入れ写真撮影をしていると問題になっている。ストリートビューが誰でも閲覧できるようになって4,5年くらい経ったのだろうか。この切れ目のない写真はどのようにして撮影するのか不思議なのだが、地図をアップしていけばいかなる場所でもストリートビューが可能である。
泥棒がストリートビューで下見し、入る場所を予め狙い定めているともいう。犯罪にも利用されているらしい。

先日、かつて広島・大野地区に勤務していた場所や、借り上げ宿舎だった家が現在どのように変わっているのか気になってストリートビューを見た。新築中の平屋建て家屋の大家さんに、完成したらお借りしたいとお願いしたら、「養子縁組が決まってこの家を建ているのでお貸しできません」と断られたのだが、1年ほど経ってその大家さんが勤務先まで訪ねて来られ、「養子縁組の話が消えた。もし、ほかにまだ借りておられないのならどうぞ使ってください」と話され即入居することになった家だった。

その家はもう取り壊され違う建物が立っていた。付近の風景が一変していた。その場所から400mくらい離れた場所に仮設建物の事務所が私の勤務場所だった。事務所は昭和46年に新築されたのだが、昭和46年12月に地元が新幹線建設反対の旗を降ろし、トンネルが着工の運びになったことから担当者として転勤を命じられ着任した場所である。その事務所はまだ残っていると風の便りで聞いていたのだが、ペンキが剥がれ薄汚い建物になっているが、その姿を見て46年前の記憶が鮮明に蘇ったのである。

この事務所の右側に寮が建っていた
 非常階段が残されているのには驚きだった。非常階段とフェンスの間に20km以上も離れた県境の小瀬川から石を運搬し池を作ったこと、その池に鯉を飼っていたが、2歳の娘と餌をやったりしたなぁと次々と思い出が溢れでた。日曜日には2階の事務所で何台もある電話(鉄道電話)で娘と電話ごっこもしたなぁ・・・とか。

宿直室では徹夜で麻雀もやったなぁ
ついでに現場にも行ってみることにした。

道路整備は予想もできなかった

昭和50年1月は試運転中だった
3年半の在勤であったが、オイルショックに直面したり設計変更処理が山積みで途方に暮れたり、二女が生まれたりと思い出が尽きない場所のストリートビューなのである。
なぜ仮設建物が残ったのかその理由は、土地所有者が仮設建物を家具店に使いたいので現状有姿で譲渡してほしいと願い出たためであった。