2013年9月16日月曜日

新幹線計画業務(その7)3LDK国鉄アパート完成

S45.4、新築工事中であった国鉄温品アパート2棟60戸が完成した。入居に際し、くじ引きで号室を決めることになった。
くじ引きの結果、101号室(1号棟1階)となった。自分としては3,4階が良いと考えていたがそうはならなかった。ところが、4階となった人が代わってくれないかと願ってもない打診があり、喜んでそこに決めた。
引越しスケジュールの説明会があり、調整の結果、私は入居者第1号となった。課の職員を総動員して1週間程度、全職員の引っ越し荷物の運搬据え付けまで行った。
しかし、滑車で吊り上げた荷台をベランダに取り込む際、誤って落下させ破損させる事故が多発した。私も備前焼きの花器、衣物掛が落下しごみとなった。

国鉄温品アパート(現JR西日本社宅)
岐阜の借り上げアパートは3畳,6畳の2間で風呂なし、広島の新築借り上げアパートは3畳,4.5畳、6畳の3間であったが、新築入居するアパートは3LDK、バス洗面、洋式トイレ付であり、2年目を迎えた新婚生活には贅沢この上ない新居であった。
通勤は国鉄官舎前から広島駅前までバス通勤となった。この頃、女房が妊娠3か月目、12月末が予定日であると医師から告げられた。

業務はトンネル設計図作成と工事数量算定、積算業務に取りかかった。勤続7年目だが、トンネル工事関係の経験は皆無。過去の積算書と首っ引きで己斐トンネルの積算を担当した。積算書は坑外設備等基礎編、本篇の2冊が基本で各300頁の綴りとなった。
手回し式計算機(タイガー計算機)がS42頃から電気卓上計算機に駆逐され始めた。しかし、ソニーが開発した卓上計算機は横30cm、奥行き40cm、高さ15cmもあった。価格は50万円程度。
S45になり、広幹工各課にサンヨー電気卓上計算機が配付された。価格は20万円前後となり廉価になったが、長時間使用していると熱がこもりネオン管表示の数値がすべて8となり、機械が冷えるのを待たなければならないという代物であった。
関数計算機能は√だけ。線路中心曲線長等の計算は7桁対数表に頼らざるを得なかった。

庁舎内に職員食堂は設置されなかった。このため、昼食は隣接の乗務員宿泊所の食堂を利用した。単価が低廉に設定されていて随分助かった。大きなどんぶりの貝汁が20円!それも貝が山盛りに入っていた。岐阜ではすっかり姿を消していた100円札が流通しており、100円硬貨を出すと珍しがられた。
昼食は稀に200mほど離れた広島鉄道管理局庁舎地下1階の職員食堂も利用した。ある日、食堂入り口付近に一見して飲み屋のおばちゃん、おねえちゃんとおぼしき人が立ち並んでいた。臨時に鉄道電話まで備えてあった。何事かと聞いたら、給料日なのでツケの請求だという。あきれた習慣が続いていたのである。

2013年9月8日日曜日

新幹線計画業務(その6)生産性運動が強行

発足時67名であった職員がS45.4に320名に増加した。これに伴い、組合組織化が急がれた。
4月に青年部長を受任したが、それは正式に選出されたわけではない。このため総会開催の準備に取り掛かった。
役員選出のため、本人に同意を得る等の根回しが必要だった。総会開催の必要条件として、国労本部の運動方針を把握し、それに逸脱しない広幹工分会青年部としての活動方針案を自らまとめる作業があり、それに没頭した。この仕事は宿舎に帰ってから夜遅くまで数日を要した。

総会では管理局から工事局に配転された職員から、運動方針が生ぬるいとする意見が出たが、活動方針、役員選出とも原案通り承認された。
このころから当局による生産性運動、いわゆる「マルセイ」が強化されることになり、組合つぶし工作が露骨に表れてきた。立場として、それに反する行動をとらざるを得なくなった。
分会執行部も発足して団体交渉開催時には出席を求められた。

マルセイ運動の一環として「青年職員の意見発表会」なるものを全国規模で開催されることになり、広幹工では各課一人の割り当てで青年職員に意見発表の論文を書かかせ、それを全職員の面前で発表させ、優秀発表者を選考して本社が全論文を審査して国立競技場付近にある「日本青年館」で発表会が行なわれるという。
私は当局のマルセイ運動に疑問を持っていたので、自分の考えを示そうと決心し、論文を作成して提出した。
1,2週間後に数名の発表者による局内意見発表会が開催された。
講評の後、優秀発表者の表彰式があり、私の意見が最優秀賞に選ばれて東京の発表会に出席することになった。本社選考には及ばず傍聴する権利だけ与えられた。

本社が選考した発表者は20名。
全ての発表者が国労を批判する意見であった。聞いていて吐き気を催すほど露骨な意見で占められていた。これでは国鉄の将来は益々暗くなるばかりという予感を持った。
私の論文は仕事に対する心構えについての意見内容を展開した。国労批判は皆無。
従って、本社選考の対象外のしろものであったことになる。にもかかわらず、広島新幹線工事局の幹部が広い見地から、私の意見を選考してくれた度量に、「技術屋」の心意気を買ってくれたのだと感謝の念を持った。

2013年9月7日土曜日

新幹線計画業務(その5)あんたら不動産屋さんか?

昭和45年4月、人員補充に伴い課の係が倍増した。
岐阜工事局土木課で一緒だった係長や4年先輩と己斐トンネル、五日市トンネルの調査、計画をしていたが、私はそれ以西の担当係に移動した。
新任の係長は北陸本線糸魚川~直江津間線増工事の能生トンネル担当現場の助役から転任した人であった。
戦時中は中国各地を転戦したというつわもので、ワンパオ(馬鹿者を意味するという)を連発した。
カイカイデー(早く)とかマンマンデー(遅い)という中国語も仕事中に連発した。

各トンネル工事の発注業務が迫り、その係長と二人で現場調査に行くことになった。
五日市トンネルの斜坑設置位置調査でひなびたたばこ屋に立ち寄ったとき、店のおばさんから「あんたら不動産屋さんか」と尋ねられた。係長は間髪入れずに「そうだ」と答えた。
おばさんはこの付近に最近不動産屋がひんぱんに来るようになったと話した。
地図と航空写真でその調査した場所を探したが、一山ふた山も開発され宅地化していて今ではどこがどこなのか見当もつかない。
大野トンネルは大野町が強硬にルート変更を要求中で、町内の調査立ち入りを拒否していたが、私服なので予定地を確認した。
大野町妹背神社に立ち寄り
次に大竹市玖波地内に向かった。ここは大野トンネルの出口と数百メートルの橋りょう区間に続いて大竹トンネル入り口となる地域である。
恵川という河川沿いに養豚所があって移転補償が必要であること等を確認した。
この後、大竹トンネルの出口となる県境小瀬川の現場を訪れた。
係長が「錦帯橋が近くだから行くぞ」というのでそこに向かった。
錦帯橋で
昨年、孫と錦帯橋を訪れた。そんな出来事が将来あるだろうとは当然想像すらできなかった。
孫二人と
現場調査が終わり、いよいよトンネル工事発注の積算業務を開始することになった。
そんな中、組合職員代表(まだ分会は未発足)から「ちょっと頼みがある」というので話を聞いたところ、「あんたに青年部長をやってもらいたい」と切り出された。断ったが、困り切った顔で何とか頼むと懇願され、やむを得ず引き受けることにした。


2013年9月5日木曜日

新幹線計画業務(その4)ルート最終決定

測量実習が終わり線路選定に必要な調査事項の整理に入った。
各ルートの概算工事費、支障物件の有無、移転補償額の算定、地域住民の要望等を踏まえ本社建設局と調整を行った結果、中案ルートとすることが決定した。
ルート比較案
線路選定作業が終了し、外注測量業務、地質調査業務が矢継ぎ早に発注された。
その成果物に基づいて、詳細設計に順次着手した。
主要構造物の位置図
線路縦断概略図
高架橋標準断面図
10月下旬、同級生夫婦と一緒に宮島観光に行った。ロープウエーに乗る際、女房が体調がおかしいと訴えた。翌日鉄道病院で診てもらったところ「おめでた」と告げられた。
ところが日を重ねるのに従い嘔吐が激しく、食欲不振で体力が低下したので入院することになった。3週間ほど入院したある日、医師から胎児の鼓動がなくなったので処置しなければならないと宣告された。
御用納めの翌日、能登の実家に帰って正月を迎えることにした。
当時は列車の指定券を確保するのに長い行列に並んだ。そして、超満員の列車に揺られて広島から宇出津まで13時間も要した。
昭和45年の新年を迎え、多忙の日々が続くことになった。が、課の旅行会を企画せよと指示され、松江、出雲方面に決定した。
松江城で
宴会
出雲大社で
出雲大社境内で
職員が増強されて工事局庁舎が増築された。これに伴い、線増2課から線増3課に分離した。
職員も岐阜、大阪、下関から補充され、工事着工を急ぐことになった。担当係長も岐阜から赴任してきた人に変わった。

2013年9月3日火曜日

ストリートビューで思い出の場所を探訪

google mapでストリートビューが公開された。
自宅もバッチリ見ることができた。どの方向からも見られる。町内全域が収まっていた。
便利ではあるが、恐ろしい時代になったものだと痛感した。現地に行かなくても住宅地図と照合すれば「家」が特定できるのである。
そこでかつて自分が関わった場所を探訪してみた。
本ブログで広島の出来事を記述中なので、そこから始めた。
真っ先に広島新幹線工事局があった場所を探した。そこは駐車場と化していた。
平成14年に現地に行った時にあった建物がなくなっていた。9年間で大きく変わった。
広島に赴任して入居していたアパートは現存していた。この写真は建物の裏側である。2階左から2番目が入居していた部屋である。半年後、職員アパートが完成して転居した。
その温品(ぬくしな)宿舎の現況である。S45年竣工した建築物だが、とてもよく維持管理が行き届いている。

このアパートに2年間生活した。ここから宮島対岸となる大野町に転居した。借家と現場事務所はストリートビューで見ることはできなくて残念だった。航空写真には現場事務所が現在も何かに利用されているようで存在が確認できた。
しかし、建設現場付近は自ら現場を歩いているかのように見ることができた。ストリートビューの威力に舌を巻いた。
高架橋の先が大野トンネル入り口である。高架橋も自分が設計し工事監理した思い出がぎっしり詰まっている所である。おいおい当時の思い出を記述したいと思っている。
上の写真は反対方向の東京方を望んだ場所。お寺の屋根に注目!
試乗で新幹線運転席から同方向を撮影
お寺の屋根が上の写真にも写っている

800系の運転席から同一箇所

工事最盛期のこれも同方向、やはりお寺の屋根が確認できる
工事着工前の大野地区
この写真にもお寺の屋根がある
次に設計で苦心した円形橋脚と大竹トンネル工事用道路が見ることができた。その道路が現在も機能しているのに驚いた。
大竹市玖波地内
次に訪れたのは山口県境小瀬川。
道路上部の施設はトンネル風圧調整設備の上屋
幕府軍による長州征伐で激戦があった小瀬川
そのほか、岐阜、名古屋、金沢各地区の現場を訪れた。いずれ紹介することとする。

2013年9月2日月曜日

新幹線計画業務(その3)現場踏査と三角測量をマスターせよ

概算工事費は工事数量×工事単価の総和である。
トンネル延長が決定すると上部半断面掘削数量、導坑掘削数量、下半掘削数量、巻厚別コンクリート数量、鋼製支保工数量、ずり(掘削土)捨て数量等々が算出できる。土捨て場の位置想定を行い運搬距離を図上で測定して運搬処理費を算定しなければならない。
橋りょう工事費は各橋台、橋脚毎の基礎工施工の仮締切工、根掘り数量、型枠面積、コンクリート数量等々を算定する。
こうした一連の作業を2週間の期限付きで行った。今振り返ればよくやったものだと感心する。

作業終了で一息つけると考えていたが、直ちに現場踏査を実施せよと非情な業務命令が発せられた。
手始めに西広島駅から徒歩で己斐トンネル予定ルートを踏査することになった。
予定ルートには当然「道」はない。図面に示されている測量中心線と地形を見ながら藪をかき分けながらルート上に沿って山を登り下りしなければならない。
2日かかりで己斐トンネル1本分の踏査を終えた。途中、竪坑設置予定場所を確定した。
まだ、五日市、廿日市、大野、大竹の踏査が残っているのだが、工事発注予定期日までに余裕があるので機会を改めて実施することになった。
予定ルートは山案、海案、中案があり早急に決定する必要があり、各ルートのメリット、デメリットを抽出しなければならなかった。
縮尺1/10,000の長さ7,8mもある平面図に曲線交点をプロットして座標値を図上測定する。
交点と交点の直線部分に工場、学校等の支障移転が困難な物件があると拙いので、図上の交点にピンを刺し、それに糸を付けて方向を調節した。このような作業は在来線では考えられず、これが最初で最後であった。
このような作業を繰り返し行って仮座標値を決定した。確定するには現地で三角測量を実施して交角、距離を測定することになる。

線路中心測量や横断、縦断測量は外注としたが、三角測量とはいかなるものか施工主が分からないでは話にならない。当局は若年者職員に技術習得をさせるため、実習教育をすることにした。
指導者は測量会社が派遣した。
課の若手6人(当時は私も若手の一人だった)が、大竹市玖波町の魚屋の2階に寝泊まりして実習することになった。
最初に山口県境にほど近い三角点のある山に測量機器を担いで登山した。
業者が最新鋭の測量機器である電磁波測距儀と称するものを使用するというので取扱いの講習を受けた。目標となる三角点に電磁波の反射板を設置して、測角と測距を行う方式で、馬鹿でかいバッテリーと、やたらとスイッチの沢山ついた本体、それを据え付ける三脚を担いで登山しなければならなかった。一応、機器の操作要領を習得した。それからは三角測量の実習である。

三角測量に使用する機器は、ドイツ製のウイルド(トランシット)である。10km先程度までの三角点に旗を付けたポールを視準して測角する。望遠鏡を覗くと倒立像が見える。日中は気温が上昇し陽炎が立つため、夜明け直後の短い時間しか作業ができない。
交代で測角
三角点の目標ポール=映画「硫黄島の攻防」みたいだ=
バーニアで数値を読み取り記帳者に報告する
県境から西広島まで1週間の登山と測量実習であった。宮島に渡り聖岬三角点でも機械を据え付けた。岩国、大竹コンビナートから排出される煙で視界は不良のため作業は難儀した。

2013年9月1日日曜日

新幹線計画業務(その2)本社指令「概算工事費を至急算出せよ」

新設された工事局の職員は岐阜、大阪、下関各工事局出身者で組織された。山陽新幹線はトンネル区間が多いため、北陸本線糸魚川~直江津間、中央本線春日井~中津川間複線化のトンネル工事関係に従事していた職員が主力となった。
発足にあたり技術関係の課が次のように設置された。
◆調査課
 ・本社との連絡調整(予決算関係等)
 ・設計・積算・施工の技術管理
◆線増第1課
 ・安芸トンネル(L=13,050m)、三原以西~府中トンネルまで
◆線増第2課
 ・岡山県境~福山、三原(尾道、三原、竹原トンネル等)
 ・太田川放水路~山口県境(己斐、五日市、廿日市、大野、大竹トンネル等)
◆停車場課
 ・尾道、福山、広島駅、広島車両基地
◆建築課
 ・尾道、福山、三原、広島駅等の上屋、職員アパートの建設、現場事務所の設置
事務系では、総務・用地の2課が設置された。
私の配属先は線増2課であったが、1年後、太田川放水路~山口県境関係業務は線増3課に分離された。
着任当日、退庁定刻後に職員宿泊所で課の顔合わせ会をやるということになった。アパートに引っ越し荷物が開梱されない状態にあるので、出席しないと申告したがまだうら若い課長が「それはならぬ」と一蹴した。
線増2課顔合わせ会
アパートでは女房が荷物の山にうずもれ帰りを待っているというのに!
課に臨雇の独身女性が配属された。和久野さんという社交性のある明るい性格の持ち主であった。課長に言いたいことをあからさまに云える性分が羨ましくさえ思ったものだ。
翌日、係長会議が行われ幹部から当面の業務が明示された。本社建設局の指示で、概算工事費を算出せよというものであった。
まだ設計も決まっていないのに期限は2週間しか与えられなかった。
概算工事単価は新大阪~岡山間の工事契約単価を参考に、その単価が一覧表に示されていた。
最初の仕事は縮尺1/2,500の平面図に線路計画中心線を記入することから始まった。
線路計画中心線はまだ決定しておらず、山案、海案、中案の3ルート各々の工事費を算出しなければならなかった。
平面図に中心線が記入されて、その中心線の標高を図面から読み取り、線路縦断面図(縦1/400、横1/2,500)を作成した。それに線路施工基面高を記入すると、トンネル、橋梁、土工の区間延長が判断できることになる。後日、線路中心線が確定しトンネルや橋りょうの最終設計成果物と比較すると、かなり精度の高い概略設計であったことがわかった。
山陽新幹線のトンネル断面図
常態化した残業で定刻に退庁することはなかった。通勤は庁舎から広島駅北口、南口を経て山陽本線の線路沿いを歩いた。ある日、荒神陸橋という跨線道路橋のたもとに一人の女から声をかけられた。
「ねえ、ちょっと遊んで行かない?」と。無視して通ったとき、背後から「ケチ」と罵られた。
広島国体が開催されるまで、戦後の状態が続いていた。