2017年5月31日水曜日

万里の長城ウオーク

人類が地球上に築いた構造物で、月から見えるのは万里の長城だと子供時代に聞いたことがあって、最近までそうだろうと信じてきた。ところが、中国の宇宙開発が進み2003年神舟5号に乗った宇宙飛行士が、「万里の長城は見えなかった」と云ったそうな。
延長は8000キロにも及ぶが幅が小さいため見えないのだとか。

北京市北方60kmにそれはある。そこに行くには市内から高速道路に乗るのだが、日本の高速道路は往復4車線が普通。それが国道や県道等々と並行していて一体どこまでが道路なのか検討がつかないくらい広い。10車線以上はあるのだ。
そこに行ったのはもう20年も前となったが、その沿線の古いレンガ造りの家は壊されつつあり、超高層のビルが林立し建設中でもあった。土地の私有はない国だから、建設前の移転補償問題がなくて、さぞ、住民は泣かされているのだろうなと余計な心配をした。

長城は何せ山の稜線に築かれているので、アップダウンが大きい。
駐車場から長城を目指す
稜線に延々とそれは連なっていた
私は土木技術者として生業をたててきたため、これを建設する計画を建てる事前の測量作業はどのようにしたのか、建設資材の調達方法、運搬路築造や、建設工程がどうだったのか、あれこれ想像したのだが、これは「超難工事」であったに違いないと思った。

秦の始皇帝から明王朝まで何回も王朝が変わったが、この長城を構築整備したのは全ての王朝ではなかったという。玄宗皇帝なんかは一切無関心だったようだ。最も熱心に取り組んだのは明王朝である。信長、秀吉時代の明王朝は強大な権力を保ったという。しかし、この長城に立てこもり、実際に外敵と戦ったという具体的な記録はない。なのになぜ莫大な経費をかけて整備したのか。
北朝鮮の核や弾道弾開発と共通する目的があるのかも知れない。戦いを防ぐ抑止力なのだろうか。

堅牢に築造されており、手抜きなどは一切ない
我々が行った時は中国の連休の最中であったため、通路は過密状態であった。

かなり遠方まで歩いた 通路はごった返し
8,000キロに及ぶ長城は維持管理が行き届かないため、荒れ放題となって石も剥がされ盗まれ放題なのだ。最近、ある地域で修理はしたが、コンクリートで舗装しただけの丸裸状態になって不評だったことがニュースになったりした。


この写真は、業者が勝手に撮影して高額で売りつける商法のものであるが、一切要らないと断った結果、半額になったので買ったものである。
どこの観光地に行っても「日本人はいいお客さん」なのだ。

2017年5月29日月曜日

猫の額ほどの畑(その2)

昨日は天気が良かったので、夕方になってから裏の畑のキュウリ用の棚を設けた。
キュウリは連作を避けるため、今年は右端に植えたので門扉のすぐ傍となったので出入りにちょっと邪魔になるかも・・。

幅は約3mくらい
5株のキュウリなのでこれくらいが適当なのだ。
よその畑では年がら年中何かが植えられているが、ここは家の後ろで北側に位置しているため、秋から冬の間は日光が当たらない場所となっている。そのため、この時季だけの畑である。
5月3日に植えた苗は、キュウリに花が咲きおそらく食べられないであろう実が付き、ナスにも一つ実が付いた。


トマトも花が咲いた
トマトはミニトマト。収穫時期になると毎日20個ほども採れる。苗はまだ小さいが6月に入ると枝があちこちに張り、上にも伸びる速度が速い。
野菜売り場で一山100円で買うことができる。が、毎日水をやりながら成長する様を眺めるのが楽しみなのだ。


2017年5月28日日曜日

もうすぐやってくる百万石まつり

百万石まつりが来週に迫ってきた。
6月2日(金)は金沢神社や成巽閣で行われるお水取りの儀式や洗筅供養から始まって、浅野川で加賀友禅灯ろう流しがある。また、広坂緑地では市内の5年生・6年生9千人が一堂に集まってちょうちん太鼓行列の出発式が行われる。
私はちょうちん太鼓行列と大名行列に実際参加したことがあるので、その体験について記したい。

名行列の前日午後7時から行われるちょうちん太鼓行列の出発式は、広坂迎賓館前の広場に全市内の高学年(5,6年生)が集合して実施される。この組織は金沢市少年連盟で、9千人が集まって実施される出発式は実に壮観である。会場まで各校下の少年連盟の役員が引率して来る。遠方の校下は観光バスでやってくる。
殆どが集合した開式前
セレモニーは市長や市議会議長の挨拶のほか、教育長、少年連盟会長の挨拶が続く。
最後に万歳三唱となる
セレモニーが終了すると、校下少連ごとに順次出発する。人数が多いので出発までかなりの時間がかかる。
出発の頃は夜の帳が降りてちょうちんの灯りが美しく揺れる。
市役所の前に差し掛かると一斉に「金沢市バンザーイ!」とちょうちんを一斉に高く掲げる。
子どもたちはきっと大きくなっても金沢市に誇りを持ち続けてくれることだろう。
香林坊から方向別に分かれて行進する。
我々は約3km弱の行進で公園広場に到着し整列後、学校長の挨拶で解散となる。

翌日は大名行列が実施される。行列参加者は朝から商工会議所に集合し着付けが行われる。
十数名の家老級のメンバーは各校下の町連会長がその任にあたり、足軽級は校下町連役員2,3名が選出されて構成される。家老役をやる人は、毎年同じ家老をやるのが暗黙の了解となっているようだ。

着付けや美容師は京都の専門家なのだ。会場一杯に衣装や道具が並べられて着付けが終わるのに長時間かかる。
3時間くらい経った頃、隣接するお寺の敷地に全員が集合し、路上演技の訓練が実施される。
訓練を終えて記念写真撮影
ここから金沢駅前地下広場へバスで移動する。ここでは女性群の踊りの練習や消防団員の点呼が行われ、あの広場が所狭しと埋め尽くされる。
約2時間後、金沢ホテル前の出発点へ移動する。
待機中
孫が応援に来てくれた
ここでも路上演習。100mくらい旗竿を持って往復全力疾走せよという。それだけでどっと疲れが出るのである。
ここでも1時間くらい、ようやく出発となった。駅前、武蔵、南町、香林坊、市役所の前で演技。風で旗竿が倒れそうになったり、わらじが擦り切れてしまったりと、見ている者とやっている者の大きな違いは、やった者しかわかんないだろなぁ。
粛々と隊列は続く
金沢城内では演技がなかったので実にホッとしたのである。
後日、事務局から出演料が送られてきた。金10,000円也。もう一度出演して欲しいと頼まれても丁重にお断りしたい。だが、貴重な体験で一生の思い出になっている。
百万石まつりバンザーイ!

2017年5月27日土曜日

払いたくても払えない!給湯器の修理費

3か月ほど前、給湯器がダメになって取り換えしてから10年経った給湯器の調子が悪くなった。
給湯の設定温度をはるかに上回る湯温となったり、浴槽に給湯する水量設定も狂ってしまった。
取説をさがしてメーカーの取次店に電話した。ところが、取次店曰く、「金沢市内にあったメーカー直営の支店が閉鎖され修理も取り扱っていない。ほかの電気店に依頼します」と。

間もなく、「修理依頼のあった電気屋です。当社は富山市にあります。給湯器の機種名は何でしょうか」という質問があり、しばらくして、「製造終了から10年を過ぎているので、部品の生産は打ち切りとなっています。現物を見せてもらいます」と、数日後に来宅してくれた。

「どんな具合なのか実際にお風呂を沸かしてみます」、ということで給湯のスイッチを入れた。
浴室の制御盤
しばらくして、「お風呂が沸きました」と音声ガイド。お湯の温度、湯量とも正常。「あれ?なおっているみたい」ということになり、「様子が変な場合はまた連絡してください」といわれて電気屋は帰ったのである。

次の日、湯温が高く、湯量も溢れるばかり。翌日電気屋に様子を伝え、数日後に来宅してもらった。
電気屋が自らスイッチオン。その結果は湯温が高く、湯量もオーバーとなった。
「給湯器の制御盤が故障しているのかもしれないが、手持ちがないので手配してみる」といって帰って行った。数日後、「在庫がようやく見つかったので明日お伺いします」と連絡があり、次の日、給湯器の蓋を開けて制御盤を取り換えた。そして、お湯をはったのだが、湯温、湯量とも異常のままであった。
給湯器
「浴室の制御版かも知れませんね。これも取り換えてみましょう」と1週間程待った。
そして取り換えてスイッチオン。その結果、正常に作動した。「しばらく使ってみて下さい」といって帰った。
次の日、スイッチオン。だが、異常値となった。この結果を連絡して元の制御盤に戻したのである。
電気屋は納得がいかない様子で、給湯器のバルブ調整をかなり長時間やっていた。
「どんな様子かまた連絡してください」と帰った。

その給湯器がどういう訳か、3日前から異常が発生しない。だが、ずーっと続くとは限らないのである。
それにしても何回も富山から来てもらった電気屋にまだ1円も手間賃を払っていない。
電気屋に、すみません、すみませんと謝っているのだが・・・・。
電気屋曰く、「私は一人でやっています。富山はもちろん、能登、加賀まで仕事に行っています。ついでですから気にしないでください」と言ってくれてはいるのだが・・・。

2017年5月25日木曜日

京劇とフラメンコ

北京市内のうらぶれた街並みの一角に、京劇を演ずる余り大きくはない劇場がある。
京劇を特に見たいと希望したわけではないが、ツアーの一部に組み込まれているので、そこへ案内された。
客席は100席ほどだろうか。しばらくすると大音響の太鼓と銅鑼等の中国民族楽器の音が響き渡り開幕となった。
演題は三国志と西遊記。甲高い歌声と大音響の楽器の音は、慣れないものにとっては騒音となる。身体に旗を4,5本立て薙刀のようなものを振り回しながら演ずる。しばらくすると京劇の面白さが分かってきたような気がした。

京劇の特徴として舞台装置はほとんどなくほぼ素舞台の状態で、場面を推測するヒントになる最小限の道具が置かれているだけ。基本的な道具として「一卓二椅」(一つの机と二つの椅子)と言われるが、そのまま机と椅子を表すこともあれば、ベッドあるいは山を表したり、帳(とばり)を付けて寝室や軍の陣営を表したりする。最小限の情報だけを示して、観客に想像する余地を大きく残しているのだという。

京劇は「歌唱、セリフ、しぐさ、立ち回り」という4大要素からなる総合芸術といわれ、ペキン・オペラと英訳される通り、歌唱の重要性は大きく、また楽しみどころでもある。京劇を観ることを「京劇を聴く」と言われる所以といわれている。


演劇が終わると、観客に舞台に上がれという。
西遊記
出演者と記念撮影
ツアーに参加した6名が舞台に上がり記念写真を撮った。

さて、話しが一変するが、伊勢志摩スペイン村に行き広大な敷地を色々回ったのだが、フラメンコショーが演じられている劇場があったのでそこに入ることにした。

フラメンコは、激しい足さばきと手足のしなやかな動きに特徴のある、スペインの伝統的なダンスである。
演劇場パルケエスパーニャで、本場スペイン人ダンサーによる本格的なフラメンコショーを毎日公演している。

スペイン本国でのオーディションを勝ち抜き、来日したフラメンコダンサーと、フラメンコミュージシャンによる演奏をスペインにてスタジオ収録した迫力ある音楽。
日本にいながらにして、まさに本場スペインの臨場感を体験できるのである。

ショーは、ダンサーの生の迫力に加え、ダンサーとのかけ合いや手拍子など観客参加型の要素を入れたり、カスタネット、アバニコ(扇子)、マントン(ショール)、カホン(打楽器)など、フラメンコで使用される代表的な小物を随所に使用したりと、誰でも楽しめる飽きのこない構成になっている。

フラメンコに欠かせない楽器と言えばギター、その他「カホン」と呼ばれる箱型の打楽器や現在ではピアノやフルートなど様々な楽器も使用する。
また、最も使う楽器はカスタネット。小学校で使う青と赤の物とは異なり、黒色が多く、またゴムの代わりに普通のヒモが付いている。
ダンサーは親指以外の指を一本ずつ使い、片手だけで1秒間に10回以上も叩いて音を出すという。

最も特徴的な動きは「サパテアード」という足さばき。
非常に速いスピードで床を踏み鳴らすステップで、靴音がよく聞こえるよう、靴底には釘が打ってある。上手なダンサーは、頭の高さをほとんど変えずにサパテアードすることができるという。
また、手や指のしなやかな動きもフラメンコの特徴なのだ。
ここでも舞台に上がった
観客一体型のフラメンコ、「オーレィ!」。


2017年5月23日火曜日

突発性難聴の再診

突発性難聴は原因不明とされており、300万人も罹病しているという。
最も多い年代は50代で、若年者にも発症する人が増えているというデータがある。

去年の1月中旬、何の前触れもなく急に左側の耳の機能に不都合が発生し、音が聞こえなくなった。そのため、橋場町の耳鼻科に駆け込んで診察してもらった。1か月ほど毎週通院したが改善がなかったため、藁にもすがる思いで駅西地区の耳鼻科に変えてみた。診察は毎回聴力試験から始まる。悪くない右側も測定した。診断結果はパソコン画面で示され先生の説明がある。
しかし、ビタミン剤とステロイド錠を5か月ほど服用したが全く改善しなかった。

先生曰く、「これ以上続けてもおそらく改善されないだろう。治る人もあるだろうが、治った人は報告に来ることがないのでデータもない。」
そんなことで昨年7月以降は治療を断念していた。何でも発症してから2週間が勝負なのだという。
片方の耳は正常なので不都合はあまり感じないのだが、車の助手席の人が話す言葉が聞き取りにくい。

今月上旬、医科大付属病院の高齢医学科に予防のための定期健診を受けたところ、担当医から「突発性難聴は認知症の原因になりやすいですよ」と指導があったので、予約を取り今日、医科大付属病院の耳鼻科で約1年ぶりに受診したのである。
先ずここも聴力検査から始まった。町医者の測定器具とは全然違っていて、測定方法も違った。
随分待たされて診察室に入った。耳の中を診察する器具を耳に当てると、モニター画面にクローズアップされた耳穴が映しだされた。何と汚い耳!耳あかが詰まっていたのだ。両方とも先生が丁寧に取り除いてくれた。3人ほど学生が検査方法を見学していた。やはり医科大である。

そして説明が始まった。
「鼓膜は異常ありません。内耳も異常が無いと思われますが、中耳の骨と骨が接する部分が劣化しているかも知れません。よって、次回はCTの検査をしましょう。手術で改善する場合もあるが、このケースではその必要性はないでしょう。」と診断された。
〇に囲んだ部分の骨に異常があるのかも

何とか少しでも改善できればと祈るばかりだが・・・・。


2017年5月21日日曜日

兼六園球場に相撲大会があった時代

私が高校在学中の高校相撲金沢大会は兼六園球場でにわか造りの相撲場で開催された。
応援席は相撲場を中心に各校が放射状に配置されていた。

3年生になったばかりの放課後、担任から職員室に来るよう呼び出された。何も悪いことはしていないが・・・と思いながら職員室に入った。
「君は部活をやっていないからクラスを代表して応援リーダーをやれ」と命令が下ったのである。
学期始めは放課後に応援の練習が開始される。校歌や応援歌数曲の旗の振り方や応援モーションの特訓を受け、全生徒の前に立ち応援の指導をすることになる。特に新入生に早く覚えてもらわなくてはならないので、指導もつい荒々しくなってしまうのである。
そして最初の応援は北信越野球大会、そのあとに相撲大会と続くのである。

金沢学園東高校の応援練習風景
さて、今日、卯辰山で高校相撲金沢大会が開催されている。101回という伝統を誇る大会は、大正4年に第1回が金石海浜で開催された。
金石海浜の大会
写真を見ると、もの凄い観客の数、スタンドは天然の砂丘に違いないだろう。
昭和19,20年は戦争のため休止している。昭和26年まで金石で開催されたが、翌年から平和町の平和台相撲場に移った。3年後の昭和31年から兼六園球場特設相撲場に変わった。
私は33年から35年の在校だから当然兼六園球場であった。
昭和31年、兼六園球場で初回が開催された時の模様
最近の卯辰山相撲場での応援風景
泉丘高校とのエール交換
それに答える泉丘高校の応援リーダー
昭和36年、現在の卯辰山相撲場が完成して現在に至っている。
うちの孫も母校の応援に初めて出かけて行った。娘もうん十年前に車で会場に送ったことを思い出した。
今日1日、卯辰山に大歓声が響き渡ることだろう。

2017年5月20日土曜日

人生下り坂最高!

人生下り坂最高!このフレーズは火野正平が自転車で、長い登坂を登り切って下り坂を風を切って走行しているときに発する言葉である。
御年66歳の火野正平が息を切らせてハアハア言いながら登板するのだが、頂上で一服してから一気に下るその時にこの言葉が自然に出るのだ。

2,011年から日本列島を縦断すること3回目となるNHKの人気番組「にっぽん列島縦断こころ旅」である。
火野正平を先頭に監督、カメラマン、自転車の保守要員等の5人が一列になって全国を走り回っている。
この番組の魅力は先ず火野正平の人間性であろう。自転車に乗っている時の何気ないつぶやきや鼻歌に深い味が染みている。
草花を手に取り、これは〇〇という花だとかとにかく植物に関する知識は半端ではなく、虫を掌に載せて遊ばせている様は心から楽しんでいるようで、よっぽど子供時代に「悪ガキ」だったのかと思わせる。

火野の自転車にもカメラが付けられているのだが、カメラは人が歩く目線の風景が写り、臨場感たっぷりである。どのカメラも高性能である。画像が鮮明でとてもきれいだ。
いつも必ず食堂で食事するシーンがあるのだが、これもまるで画像に味があるようで面白い。
今までの放送シーン 獅子吼高原で

見附島 この島が誰かの顔に見えるんだって
自転車の荷台には人形と一緒に花が咲いた枝きれなどが括り付けられている。面白い性分なんだろう。
だが、経歴を見ると「女遍歴」がただ者ではなさそうだ。著名な女性が5人ほどもいたという。
最初の奥様とは離婚はしておらず(こわくて離婚の手続きができないという)、数々の女性と同棲をして現在の奥様と何十年も同棲しているとのことである。

そんなことはどうでもいいことであって、火野の人柄を存分発揮して番組を盛り上げて欲しいと願っている。
今月29日から石川県を走破することになっている。私の心の風景「能登町田ノ浦海岸で見た水平線上に浮かぶ立山連峰」はどういう取り扱いになったのか気にかかるところである。

2017年5月19日金曜日

驚きもものきの黄砂

花曇りと呼ばれる黄砂だが、最近では猛毒とされるPM2.5という化学物質といっしょに飛んで来る厄介者だ。
発生源は中国。工業化が著しくなってきた近年にPM2.5云々と騒がれ始めた。


この赤色部分が汚染粒子の塊りだが、偏西風に乗って日本に降り注ぐ。

金沢市内も相当黄砂で視界不良である。

黄砂の本場、発生源の中国に旅行して驚いた。
我々が西安に行った時は4月下旬の黄砂最盛期だったが、幸いにして黄砂はなかったのだが、
車のナンバープレートを見て驚いた。厚さが1cm以上の粘着性のある黄砂がナンバープレートに張り付いているではないか。そして数字部分が指でなぞって彫ってあるのだ。

写真は黄砂の西安市内であるが、粘着性があるのは工場で使用する大量の石炭に起因するものである。その石炭も安価なものを使用するので環境対策はまだまだ先の話になる。

当面、わが国は我慢を強いられることであろう。

2017年5月18日木曜日

屋根からしか見えない花

この時季になると雑木林に白い花を付ける樹木がある。
花の名はヤマボウシという。

平成9年に新築入居した家の周りは、まだ樹木1本もなかったのだが、田中町のある造園屋さんが郵便ポストにチラシを入れた。そのチラシを見て造園を依頼することにした。
レッドロビンを垣根として、ノムラモミジの門被り、延段という石の通路、石灯籠や手水鉢を含む坪庭、このほかヤマボウシを5本ほど家の軒先に沿って植え付けた。
このヤマボウシの花が満開となっている。
ところが、この花は木の横から、あるいは下からは見えないのである。
花は白くてまるで蝶々が葉にとまっているように見える。
屋根に登って撮影

花びらの端が淡いピンク色
アップするとこんな形
屋根の上から全体を撮った
この花を見ると現職時代に業務で浅ノ川上流に行った際、白い花をつけるヤマボウシがあった。
そんな光景を思い浮かべながら我が家のヤマボウシを愛でている。

2017年5月17日水曜日

同窓会の幹事

先日、片山津温泉で同窓会が開催された。
我等が同窓会は2年ごとに開催されている。当番幹事はその都度大変な目に遭うことになる。
60を回った頃、あるグループ2,3人が飲み屋で一杯やっている時に「学年の同窓会ちゅうもんは全然やっていないが、いっぺんやってみたらどーや」となったらしい。(聞いた話)

そんな経緯があって、今から14,5年ほど前になるが、各科の幹事に話が回ってきて幹事会を開くことになった。
機械・電気・建築・土木・家庭の各科からそれぞれ2,3名の幹事が出席して第1回の幹事会を開いた。第1回の代表幹事は発起人である機械科が担当することになった。
その幹事会が終わった後、「どーや、カラオケに行かんか」となってカラオケ屋で盛り上がったのである。
それまで顔は知っているが話はしたことがなかった者同士が、一気に気心が理解できる同志となった。

私は55まで県外の職場に勤務していた関係で同窓会の幹事とは無縁であった。それまでは数名の県庁マンの連中にお任せしていたのだが、55を回って開催したクラス会で「あんたは長いこと県外にいた関係で同窓会の幹事は無理だったが、これからはいいだろう」という話から「それなら恩返しの意味もあるので引き受けよう」となって現在に至っている。

学年同窓会は各科幹事の持ち回り方式で実施することにして最初の頃は3,4年ごとに開催していたのだが、70を過ぎたころアンケート調査を実施し、開催の必要性や開催頻度について意向を調べた。結果は多様な意見があったが、2年毎、開催場所は金沢市内よりも加賀温泉という意見に集約された。中には毎年やれという意見もあった。

そして今年3月の幹事会で新たな提案があった。今年5月のあとは2年後の同窓会で最終回としたいと提案があった。2年後は77の喜寿を迎える。
開催案内の往復はがきでは、息子さんから「父は去年亡くなりました」と連絡があったりする。
幹事の主要業務は名簿の整備から始まる。2年前の住所録から移動がないか確認することから始まる。が、この歳になると「あの人が亡くなった」という話が舞い込むようになる。
本同窓会の発起人である機械科の2名が10年前に亡くなった。冥福を祈るのみである。

卒業生が300名弱なのだが、「私の名前を名簿から削除してほしい」とか、「今後一切案内は不要」という返信はがきがあったりする。よっぽど人生に不満をもっているんだろうかと邪推したくなるのであるが・・・・。
私のクラスは年に2,3回クラス会をやっている関係で、「全体の同窓会はつまらない」と言って参加しないものがかなりある。ところが、家庭科などは学年同窓会しかやっていないので、次回で終わりとするのは抵抗感があるだろう。
今月末に幹事が集合し反省会と次回の同窓会について意見交換が行われる。
どういう方向づけとなるか注目なのである。

それにしても毎回、関東や関西、札幌、博多といった遠方から参加してくれる会員には頭が下がる。会費をはるかに上回る交通費をものともせず参加する心意気に敬服するばかりである。やはり高校生活を共にした仲間と交歓したい、そんな気持ちが強い人達なのだろう。

盛会を記念し「一本締め」

2017年5月15日月曜日

札幌・東京・博多からも駆けつけた

昨日から本日にかけて片山津温泉で同窓会が開催された。
各科幹事10名余が14時までにホテルに集合し受付等の準備を行った。
6年前、山代で同会を開催後、出席者の意向について調査することにしてアンケートを書いてもらった。
意見は色々出たが、2年おきに開催する意見が多かったので、既に2回開催した。

各科持ち回りの幹事も2巡したのと、高齢化のため今回と「あと1回」で同窓会を取りやめようということに決定したのである。次回の開催で全員が喜寿を迎える。ちょっと淋しい気もするが「ま、しょうがないなぁ」といったところか。

受付状況
 今回から集合写真はプロに依頼することにした。個人で撮影しても後の世話が大変だということで変更した。
17時30分、宴会場に集合し写真撮影となった。シャッターが切られるまで、かなり長い時間を要した。

年齢からして、皆それぞれ「年いったなぁ」である。1日も長く健康寿命を延ばしたいもの。
撮影が終了し、総会に入った。
土山代表幹事のあいさつ、石田忠夫氏(県議)の乾杯と続いた。
土山代表幹事のあいさつ
カンパーイ
そして久しぶりの交歓会が繰り広げられた。

宴なかばとなり、物故者に対する黙とうが執り行われ、続いて校歌斉唱となった。
校歌を歌うと在校生の気分に浸れるのである。あの頃が懐かしーい。
黙とう
元ブラスバンド部別所寛氏による指揮とハーモニカ伴奏の校歌斉唱
今回から「もったいない」の精神を取り入れ、お開き20分前には自分の席に戻り食べ残しをなくする運動を取り入れた。
宴会後は席を1階のバーに移し、二次会を開催した。
二次会も賑やか
トップバッターは「高校三年生」を熱唱した。
歌う人、踊る人、目いっぱい楽しんだ
大ホールで収容人員も大きく、音響システムも万全の会場であった。
ここを出て各部屋に分散して三次会となった。
三次会の模様
この三次会こそ、最も中身の濃い話で心が弾むのである。
12時を回る頃三次会も静かに幕が下りた。

翌朝、朝食後解散となった。

朝食模様
ある女性グループでは、泉野旧校舎跡地を訪れるという。
私も一度跡地に行ってみたのだが、皆目見当がつかなかった。
また、東京から参加したある人は高岡を経由して五箇山地方を見学するという。
またまた、ある人は高槻から奥さんと車で来て、奥さんは大聖寺で泊まって今日は金沢で墓参の予定とか。
札幌、東京、大阪、博多方面から参加された皆さん、遠路ご苦労様でした。気を付けてお帰り下さい。
2年後の再会を心待ちにしています。