2017年3月27日月曜日

未体験ゾーン9°8分の高熱3日目

一昨日の夜、風呂に入るときに妙に悪寒がした。お湯の温度を上げたが震えは止まらない。
着替えもふらついてうまくできない。階段を登るときは関節ががくがくして力が入らない。
早めに寝ることにして床に就き体温を測った。体温計の表示を見て驚いた。測定ミスかもと思い再測定した。結果は同じ9°8分。私にとっては未体験ゾーンだ。

翌朝、おかゆを食べたら少し元気が出た。体温再測定、やはり9°8分。日曜当番医を探して、なるわクリニックへ行くことにした。待つこと30分で順番が回ってきた。胸、背中、脇腹に聴診器を当てた先生は40代くらいの若々しい人であった。喉を開け中を覗き込む先生は「のどはそんなにひどくないですね」と。続いて長いへら状になったものを鼻の奥深く差し込んだ。その途端くしゃみが出た。

「隣の部屋で10分ほど休んでいてください。インフル菌がいるか確かめます」と。
細いベッドに寝転んだ。もう10分は過ぎたはずなのに・・・と思ったが、さらに10分ほど待ってようやく出ることができた。
先生曰く、「インフルエンザではありません。4日分の薬を出しておきますから、治らない場合は近所のお医者さんで診てもらってください」と。

家に帰り早速解熱剤を服用した。即効薬なのか随分楽になった。だが3時間ほどして悪寒を催し震えが止まらなくなった。解熱剤は6時間後となっている。しかたがないので9時まで待った。
服用し眠った。
今日まで1日も入院したことがない私ではあるが、今回の高熱には参った。


2017年3月25日土曜日

岸壁に流れるメロディ「津軽海峡冬景色」

一度は乗ってみたいと思っていた青函連絡船。だが、夢叶わず昭和63年に廃止されてしまった。
平成10年3月、私は北海道旅行で函館港へ行った。その岸壁には摩周丸がメモリアルシップとして保存係留されていた。操舵室、客室など船内を隈なく歩き回った。

その半年後、青森に行く機会があった。真っ先に青森港の岸壁に行ってみた。
青森駅から岸壁に向かう通路
この通路を歩いていた時、自然に津軽海峡冬景色のメロディを口ずさんだ。
「北へ帰る人の群れは誰も無口で 海鳴りだけを聞いている・・・」連絡船に乗るため、この道をとぼとぼと歩いている情景が手に取るように浮かんだ。
岸壁には八甲田丸が係留され、博物館として利用されている。
八甲田丸
岸壁の先の方に石川さゆりの記念碑が建てられ、スイッチを押すと歌が流れた。
記念碑
港地区は開発整備され立派な吊り橋や建物が完成していた
2日後、山間部の現場見学を終え十和田湖へ向かった。
車窓から八甲田山が見えた

アーチ橋の見学
ここから2時間ほどで奥入瀬に入った。歩道が整備されており、こんな道をゆっくり散歩してみたい!と、それは感動的な風景が続いていた。

だが、バスはゆっくり走ってはいたが、下車して散歩するスケジュールはなし。
「もう一度、奥入瀬に行きたい!」と強く念じているのだが・・・・・。
そして十和田湖畔に到着。ここは秋田県。昼食はきりたんぽの鍋であった。観光船が発着していたが時間的に無理なので断念した。

再び奥入瀬の素晴らしい景色を堪能して青森市に戻り、空の便で名古屋空港(小牧)に無事到着した。





2017年3月24日金曜日

まっこと不思議な話

昨日の国会証人喚問では、渦中の籠池泰典氏の答弁は立て板に水を流すがごとく流暢に語られた。
個室で100万円もらった、菓子箱の裏に10万円張り付けて渡した・・・・、複数の国会議員に渡りをつけてもらった・・・・、それは、その場面をまるで映像を見ているように想像できるように具体的に語られた。

昭恵夫人に便宜を図ってもらった・・・、それに対して菅官房長官は全て否定のコメントを出した。

森友学園に関わっていたら総理を辞任する・・・と表明した安倍総理。
8億円余をまけてもらったという土地価格。
安倍晋三小学校という名称。
幼稚園児の教育勅語の唱和。

どれ一つとっても普通ではあり得ない話ばかりである。影の大物政治家が動いた?
10のうち一つくらいは真実がありそうにも思える。
だとすれば10のうち9つも「でたらめ」だということになる。稲田大臣も弁護士として関わったという。
弁護士に依頼しなければならないということは、以前からもめごとが多いということになる。体質がそうなのだろう。籠池婦人、籠池長男、どの人も多弁である。

あらゆるメディアを総動員し、日本をゆるがすまでになった籠池氏は正に「英雄」か?
それともとんでもない「やから」なのか。
当分、この問題から目が離せない。

2017年3月23日木曜日

お茶の水博士になりたかった少年

私の小学生時代は昭和20年代後半であった。村は戦後復興需要の木材や炭の生産で活気づいていた。親父は海軍の職業軍人だったが、敗戦により舞鶴から失意のうちに帰郷した。それでも生活のために何かをしなければと考えた結果、村の山林資源に着目して、必ず木材需要が活況になると先を読み、木材仲買業を始めていた。新湊の業者との取引で、かなりの利益を上げたようで、土地を買い、家を建て、5人の子どもを育てていた。

そんな中、村にあった唯一の映画館兼劇場に「どさまわり」の劇団が来るときは、宣伝のためチンドン屋が在所を巡った。一人で鉦・太鼓をリズミカル且つ賑やかに鳴らすのが面白くて、ズーッとついて回った。チンドン屋の後ろで奏でながらついて行く、哀調を帯びたクラリネットの音色がチンドンの音に何故か妙にマッチしていた。
そして夕方、おふくろに観劇代金をねだった。30円くらいだった。今の金銭感覚だとしたら300円くらいだろう。財布のひもは固かった。それでも3回のうち1回くらいは見に行くことができた。

「少年」・「少年クラブ」・「冒険王」、これらは買いたくて読みたくて、発行を今か今かと待ち焦がれた雑誌である。だが、本屋の店先にそれらが並んだ時、おふくろに執拗について回ってようやく1冊が買える80円をもらうことができた。80円は大金だったろうなと思う。
雑誌の楽しみは中身のほか、付録は幻灯機や顕微鏡、日光写真機といった組み立てして遊べるものが付いていたことだろう。少年の夢を叶える優れた付録だったと思える。組み立てを終えて60Wの電球のスイッチを入れ、スクリーンに映像が映った時の嬉しかったこと!

購入したのは決まって「少年」であった。真っ先に開くページは「鉄腕アトム」。100年くらい時代を先取りしたような漫画にはまってしまった。5年生くらいになると、「俺はお茶の水博士のような仕事をしたい」と真剣に考えるようになった。

あれから60数年、お茶の水博士になれなかった現実の自分がここにいる・・・・。


2017年3月22日水曜日

煉瓦造りの高く長い塀と鶴間坂

10年ひと昔という。60数年前となれば周りの風景も一変するのは当然である。
だが、まだ当時のままの風景に出会える場所もある。
NHK火野正平の「日本縦断こころ旅」という番組を欠かさず見ているが、来月は石川県を訪れるようだ。現在、「あなたの心に残る風景」の原稿を募集中となっている。

私の心に残る風景は、能登線建設で寒風吹きすさぶ中、測量作業をしていて宇出津田ノ浦海岸から眺めた立山連峰がある。来月15日が原稿締め切り。現在、応募しようか思案中である。

もう一つに金大附属病院前の用水に沿った細い道から旭町に至る鶴間坂の風景がある。
時は昭和30年に遡る。当時は中学1年、父が能登から生まれて間もないフクロウを持ってきて呉れた。早速鳥かごを造り育てることにした。丸い顔、大きな目、人が近づくと顔をゆっくり回す。そんな愛らしいフクロウではあったが、その餌の調達が大変だった。

1回にカエルを5,6匹も飲み込む。そのため、学校から帰るとすぐカエルの捕獲をしなければならなかった。
カエル捕りはどこへ行ったか。
大学病院前に住んでいたので、そこから大学病院の敷地沿いの市道をしばらく歩くと、煉瓦積みの高くて長い塀が続く道となる。塀は刑務所の施設であった。

刑務所の入り口は塀の手前で折れ曲がって4,50mの場所にあった。威厳に満ちた正門であった。位置は現在の美大正門付近であろう。この正門が何と明治村に復元されている。2年前にそこでしばらくぶりの佇まいを見て、60数年前の記憶が蘇って感激したものである。
明治村に移転復元された金沢刑務所正門
その明治村には四高階段教室もあった。
四高物理学教室の建物
階段教室
話しを元に戻すが、塀に沿って歩いた道はやがて鶴間坂となる。
鶴間坂は樹木がうっそうと茂り薄暗い。現在もその風景は変わっていない。つづら折りの途中に水飲み場があった。
鶴間坂
樹木の間から田園風景が見えた。現在の旭町界隈であるが、当時は想像外の風景である。
遠くに浅野川の流れ、若松橋、山裾に数件の家が佇む田舎の風景そのものであった。
田んぼのあぜ道を走り回ってカエルを捕獲した記憶とともに、鶴間坂は心に残る風景なのだ。


2017年3月21日火曜日

姿を消す都ホテル

金沢駅前に近代的なビルが誕生したのは昭和38年3月である。
当時の金沢駅周辺といえば駅舎以外は木造家屋が密集した地域であった。
そこに都ホテルが新築され、金沢駅周辺のイメージが一新されたのである。金沢も都会になったもんだなぁと思ったものである。
新築開業した都ホテル
あれからおよそ半世紀余りの54年を経て、このビルの使命を終えるという。
金沢駅地下デパートから地下道で結ばれたこのビルの地下街には、喫茶店や映画館、レストラン、大衆酒場など1度は足を踏み入れた人も多いことだろう。

昭和38年にオープンして間もない頃、同級生3人が卒業以来久しぶりに再会した折、この6階レストランで洋食のフルコースで食事することにした。黒人のウエーターがつきっきりでサービスしてくれたのだが、何だか疎ましくサービス過剰!だと思ったものである。

昭和44年3月、新婚旅行で時間待ち合わせのため喫茶店に入った。ほんわか気分が災いして時計を見たら間もなく列車の発車時刻であることに気付いた。あわてて一目散にホームを目指して駆け出した。息を切らせてどうにか列車に乗ることができたが、「私を置き去りにして走り出すなんて!」と女房の小言が今も時々あるのだ。

昭和60年10月、私は岐阜に単身赴任していたのだが、国鉄改革業務の一環で承継事業体別仕分け業務のため、金鉄局に出向することになった。金鉄局2階に用地調査室という機関が臨時に設置され、そこで業務を執り行った。

昼の昼食はこのビル地下のラーメン屋に通った。不愛想な夫婦が営むラーメン屋であったが、味に定評があっていつも満員であった。
残業を終えると「ちょっと行くかー」と声がかかって、「白山茶屋」へ行くのが習わしとなった。
そこは旅行客や仕事帰りのサラリーマン等で常時満席の盛況であった。「ブリのアラ煮」が特にうまかった。
入り口
いつも満席だった
昭和55年の春には、このビル5階において奥田敬和衆院議員を始めとして、中西陽一県知事、江川昇金沢市長ほか政財界関係者等200人余が集まって「金沢駅付近連続立体交差化事業」の着工祝賀会が盛大に開催された。その席で「バンザーイ」と叫んだことも思い出に残る。

そんな思い出がいっぱい詰まった都ホテルが解体されるという。だが、建物は消えても思い出は決して消えることはないであろう。
思い出をいっぱいありがとう!

2017年3月20日月曜日

人事異動

この時期になると気になるのは人事異動である。
遠くへ飛ばされたらどうしよう、嫌な上司が来たらどうしよう、頼りない部下が来たらどうしよう・・・と、悩みが尽きないのがサラリーマンの常の世界。
もしかして課長に昇進するかも、支店長になるかも・・・と、期待が膨らむのもこの時期ならではである。

現役時代の30代頃のこの時期、局長の異動が噂に上った。仕事帰りの飲み屋では、情報通の人間が主役となる。情報通曰く、「今度の局長は青函局から来るらしい。その局長は部下からとても嫌われているらしい。なんでも、決済を仰ぐ書類はことごとく突き返すらしい・・・」と噂をばらまいた。
そして4月1日、その人が局長に着任してきた。

再び仕事帰りの飲み屋。早速、情報通の出番である。「噂どおりの異動だったが、青函局では局長の転出が決定的となった時、課長、次長は万歳を叫んだらしい・・・」と。
「嫌なのが来たなぁ」と酒が急にまずくなったものである。

数か月して予定価格書など設計書類1式をかかえて、課長補佐、係長、私の3人が局長室に決済を仰ぎに出向いた。説明役は係長である。噂の局長なので係長は極度の緊張状態にあった。
十数枚の設計図面を1枚ずつ広げて恐る恐る説明を進めた。「おい君、これは何だ!」と説明を求められた係長は震え気味に説明をした。「うん、そーか」と納得したようだった。
印鑑を取り出して伺い書類の鏡に押印した。最後に予定価格書に目を通して「うん」と頷き封筒に入れ封印した。

それで決済完了なのだが、どうしたのか、いきなり係長が封印した封筒を取り出して、ハサミで封筒の頭を切った。「君は何をやってるんだ!」と局長の怒声が響き渡った。一瞬、きょとんとした顔の係長、そして自分のやったことに気付いて、「すみませんでした」と謝った。
極度の緊張状態が引き起こした珍事ではあった。

こんなこともあり、人事異動の噂話は業務に支障をきたす場合もある。
そんな局長であったが、意外な一面があった。
局長曰く、「私は自衛隊で射撃訓練をしたことがある。射撃で最も大事なことは引き金を引く要領だ。引き金は夜明け前に霜が降りるがごとく静かに引くものなのだ。」と。

その話に局長の人間性を見直すきっかけとなった。

2017年3月19日日曜日

遺産整理士?

今朝のNHKで遺産整理士なるものの番組を放映していた。
始めて耳にした言葉である。仕事の内容を紹介していたが、この時世ならではの仕事ではある。
86歳の孤独死した人の住まいの整理を家族から依頼され、その部屋を整理している場面から番組は始まった。
亡くなってから2週間もたって発見されたそうだが、書棚には愛読書がぎっしりと並べられていた。
家族から「住まいの物を全部処分してください」と依頼されたそうだ。

遺産整理士は全国に17,000人いるという。そして年3,000人づつ増えており、現在脚光を浴びている資格なのだそうだ。
取材された遺産整理士は脱サラでこの仕事を始めたという。サラ金会社の支店長を務めていたが、ヤクザまがいの取り立てなどで虚しさを感じ、子どもが生まれたのを機に脱サラを思い立ったという。

部屋を整理していく中で、満面笑顔の写真や旅行した関係資料は処分するに忍び難く、遺族(長男)にそれを渡すことにした。その遺産整理士は気心の優しい人柄が見て取れた。一応長男はとりあえずのお礼をしていたが、二度と見ることはないかも知れないと言っていた。これほど断絶した家族関係は何が原因か。
それは何十年も前、父親が経営していた会社が倒産して家族が離散したという。
金銭的に相当窮乏生活を強いられた母と子は、父を許すことができなかったのだろう。
それにしても血の繋がった親である。これほど冷たくできるものだろうか。

お寺の敷地にある墓地の入り口に、長い間誰も訪れていない墓を撤去する旨の張り紙があった。
親族は誰もいないのだろうか。いても遠く離れた場所に住んでいると墓参する気持ちが薄くなるのだろう。
こんな事情が重なって、遺産整理士という職業が脚光を浴びてきたと考えられる。なんだかむなしい気持になるのは私だけだろうか。

2017年3月18日土曜日

歴史的遺産との関わり(その2)

山川町に位置する埋蔵文化財センターでは、県内各地の発掘調査で発掘された出土品は、まず水槽に入れられて調査の都度それを取り出して観察する。水槽は大小様々。我々素人は覗いてみるだけである。大勢のパートのおばちゃんたちが忙しそうに調査観察している姿がある。

金沢市内だけでも遺跡は多くある。その中ではチカモリ遺跡が縄文文化の想像をたくましくしてくれる。ここでは巨柱が復元された。最近、真脇遺跡でも巨柱が復元された。
この巨柱なるもの、全国津々浦々の遺跡に残っているのが不思議なのだ。
チカモリ遺跡の巨柱

真脇遺跡の巨柱
全国建設技術者協会の講習会は青森から参加したことは先に述べた。
その講習会で、三内丸山遺跡を訪れた。そこも縄文時代の遺跡で竪穴式住居や大規模な集会所の建物のほか、巨大な柱が立っていた。
三内丸山遺跡全景
縄文時代とは思えないほど大規模空間の建物
佐賀県で開催された講習会でも吉野ヶ里遺跡の見学が組まれていた。
遺跡の中では断トツの規模を誇る
ここにも巨柱があった
長野諏訪神社の御柱も縄文文化の名残であるとする学説がある。
遠く離れた出雲大社でも、とてつもない巨柱の構造物があったとされる。
物見やぐら説もあるが、信仰儀式の場であったとする説も有力なように思う。
巨柱で組まれた建物内部・儀式?
これだけのものを造る縄文人の熱意は何から生まれるのだろう。巨大な礎石の据え付け、巨木の運搬、加工、建てつけ、どれ一つとて道具、機械もない時代に注がれたエネルギーの源が知りたいと思う。
日本人の精神文化の原点を見極めるためにも、縄文時代の巨柱文化の研究が進むことを大いに期待したい。


2017年3月17日金曜日

歴史的遺産との関わり(その1)

国道8号線で金沢から津幡に入って間もなく、のと里山海道方面と富山方面への分岐点に差し掛かる。
この道路は供用開始されてから十数年を経たが、道路建設に先立ってこの付近での埋蔵文化財(加茂遺跡)の発掘調査が必要とされた。その遺跡発掘調査が国交省から石川県埋蔵文化財センターに依頼された。

埋文センターでは発掘調査はするものの、測量や詳細図等の作業は専門業者に依頼することになるが、この設計書(積算書・仕様書等)を作成できる技術者がいないため、石川県建設技術センターに業務委託された。その業務を私が担当することになった。そんな知識は皆無であったので、コンサルタントの担当者から作業方法等を詳細にヒヤリングして設計書を作成した。

埋文センターにおいて発掘調査を進めたところ、土器や布などが発掘されたほか、長さ80cm×幅40cmほどの1枚の板が発掘された。板に墨で書かれた痕跡を詳細に調べたところ、これが一大発見であることが分かった。平安時代前期のおふれ書き、傍示板と云われる官令で、百姓の生活をきめ細かく指示したものであった。
加賀傍示板
解読の結果
百姓は朝早くから日暮れまで働け!酒を飲むな!魚を食うな!酔っぱらってうろうろするな!と記されていることが分かったのである。如何に百姓が搾取・収奪されていたのか伺い知れるのだが、このような「おふれ」を掲げなければならない事情があったということは、正々堂々と掟を破っている百姓たちが大勢いたことになる。「ああ愉快なり」とも云えよう。

埋文センターの南側広場に縄文時代の建物が復元されている。
竪穴式住居の復元
この復元にあたり、工事監理の委託業務でこれにも関わることになった。施工にあたり、京都の歴史研究所から指導していただいた。私の専門は土木技術なのだが、オールマイティにならざるを得なかった。


2017年3月16日木曜日

じじバカ

昨日は高校入試の合格発表があった。
我が家の孫も受験したので、長女が孫と一緒に高校へ向かい、連絡を待った。
12時10分を回っても連絡がないので、妻が「だめやったんかも」と要らん心配をしだした。
20分過ぎ長女からLINEが入った。孫が写真を撮って長女に送り、それを添付して送信してきた。
スマホの写真で受験番号を確認して「やったー」と喜んだ。

星稜Aの合格をしていたのだが、長女曰く「星稜よりずーっと遠い学校だから下見に行って遠いからいやと言わんやろか」と心配していたが、合格発表から帰って来ても遠いからいややという声は聞かなかった。やれやれだ。

孫はやがて16歳となる。思えば誕生から今まで「あっ」という間のように思える。
1歳7か月でパソコンに興味を持った
2歳・開業直前の能登空港
小学1年・新幹線歩いて見る会
中学入学
中3・サッカー大会で
両親が卒業した高校ということで多少はプレッシャーがあったかと思う。
明日高校へ行って入学手続き。入学式までの間、何と宿題が山のようにあるのだと聞く。

休む間もなく次に向かってチャレンジしてくれと祈るじじ馬鹿がここにいるのである。



2017年3月15日水曜日

この月のあの日

6年前の3月11日、10年前の3月25日、奇しくも3月に2度も大地震が発生した。
どういう巡りあわせなのか、2度とも町会の集会所にいた時、それは起こった。

6年前は10人ほどが、完成してまだ1年の新しい会館でカラオケ同好会が開かれていた3時過ぎ、そんなに強い揺れではなかったが「地震だ!」と誰かが叫んだ。
すぐテレビに切り替えニュース速報に見入った。東日本大地震が発生したのだ。

ニュースは切れ間なく流され、30分ほどには津波が押し寄せてくる状況をLIVE放送していた。
津波がすぐそばに迫っているのに車の列がのろのろ動いている。間もなくそれらは飲み込まれてしまった。津波はどんどん家を押し流し、何台もの車がぷかぷか浮いて流れていた。

あれから6年たったが、まだ3万人以上の人たちが仮設住宅で暮らしているという。街並みがあった場所は整地されてはいるものの、見渡す限り人の気配はなく草木もほとんどない。
原発が破壊されたため、まだ立ち入ることができないエリアは広い。
阪神淡路は20年経過して痕跡すら見えなくなった。東北地方もそれくらいの年月がかかるのだろうか。仮設住宅で暮らす高齢者の言葉が重い。「家を建て直す気力が萎えた」と。

10年前の3月25日、その日は日曜日、改築前のオンボロ集会所でパソコン作業をしていた。10時ちょっと前、突然激しい揺れが襲った。一瞬何をすればいいのか狼狽えた。2階で打ち合わせ中だった4,5人の婦人部の方が「きゃー」といって階段を駆け下りてきた。
「この集会所は古いから危ない。すぐ外に出よう」と誘導した。電線が縄跳びする縄のように大きく揺れていた。震度4だったが家に帰るとそんなに被害がないことを確認して胸を撫でおろした。
四国・東海・関東・東北まで広範囲に揺れた
このような大規模な震災ではあったが、死者が1人のみ。3千戸以上も家屋が倒壊したが奇跡的だと思う。

能登有料道路でも崩落が数か所で発生したが死者がなかった。これも奇跡的だ。
3月に発生した2件の大地震。森本・富樫活断層が暴れないように祈るのみだ。



2017年3月14日火曜日

「おまんなぁ、金沢弁ではなしせーまんや」

住み慣れた地域の言葉であっても、その地域を離れ、新しい場所に移るとまたその地域の言葉に慣れ覚え使えるようになる。
だが、転勤を重ねると業務上どうしても標準語を話ざるを得なくなる。
であるが、地元住民と鉄道建設に伴う設計協議を行う場合、標準語で話すと地元の人間からすれば「よその人あるいは役人」に見られる。

だいたい設計協議をまとめ上げるという難問の場合、賛成3、絶対反対3、どうでもいい4の割合が一般的なのだ。
3割の絶対反対者をいかに賛成に回ってもらうか、それは折衝者の誠意と人間性がものをいう。
このことから、「よその人あるいは役人」ではあってはいけないのだ。人間性を理解してもらうためには、地元の言葉で話す、これがコミニケーションを円滑にする鉄則なのだ。

単身赴任でたまたま金沢で鉄道高架の仕事をしていた時の話である。金鉄局で高校同窓会の活動が行われていたのだが、私は組織が別なのでその会員ではなかった。ある日、先輩が局内の同窓会を開くので特別に参加しないかと誘いがあった。十数名の宴会が始まり会話が弾んでいた時、1年先輩が私に「おまんなぁ、金沢弁ではなしせーまんや」といわれたのだ。標準語でしゃべる私に、「なんもおもっしょないがいや」と。

忠告を受け、金沢弁で話しをすることにした。金沢弁で会話を進めていくと全員の気持ちに一体感が生まれるのを感じた。方言の効果は偉大であった。そして、今後この組織の会員になれといわれた。

住み慣れた地域の方言ではあるが、その場所以外でその地域の方言を話せといわれても中々難しい。だが、その地域に行くとどういう訳かすらすらと方言が話せる。摩訶不思議な気がする。

6年間過ごした時の広島弁、10年住んだ岐阜と名古屋、1年の豊橋、聞けば全て理解できるが、今となっては話すことは不可能である。

私は今、金沢弁が普通、実家の掃除に帰って近所の人と話す時は柳田弁となるのである。

2017年3月13日月曜日

「ことば」の文化

地域によって地域独特の「ことば」がある。いわゆる方言である。
しかし、この地域独特の「ことば」は明治以降、軍隊の指揮命令の解釈が混乱する場合があり、これが死活問題に直結する。そんなことから明治政府は標準語なるものを定めた。
にもかかわらず、地域独特のことばは依然として根強く残っている。

本州最南端の佐多岬を旅行した際に乗り合いバスに乗った。数名の高校生が声高に会話していた。
ところが大きな声の会話だったが、全く理解できないのである。時々「ジャイアンツ」という言葉だけが分かり、プロ野球の話をしているのだろうとは分かったが。

輪島地方のことばは能登のどの地域にもない独特なことばとなっており、今も普通に話されている。「そうだろういえっ」という意味は「そうでしょう」。イントネーションも独特である。
ある研究者によれば、輪島の方言は鳥取や島根、あるいは北九州松浦の海士の言葉と共通していると指摘されている。

能登でも地域によって独特のことばがあって、イントネーションも違っている。
「あののきゃ」は珠洲、「そんながびっちゃ」は旧柳田村。宇出津地方も漁師町の伝統があって、独特のイントネーションがあり、すぐ出身地が判別できるのである。「てんごするな」などはその例である。
金沢と能登のことばも全くと言っていいほど相違している。東北地方の出身者は、何十年たっても「なまり」は抜けない。「こっちいりゃぁ」、「エビふりゃぁ」は名古屋。

先の海士ことばと同様に、船で往来している地方は県が違っても同じことばを話している。
私が豊橋に勤務していた時に、若い人が電話で実家の誰かと話していた。魚津出身の若い人は宇出津のことばそっくりなのであった。蛸島、宇出津、七尾石崎は見分けがつかないくらいだ。

宇出津地方で「はんかくさい」ということばが使われる。函館五稜郭の土産物売り場に北海道の方言を書いた暖簾があった。そこに「はんかくさい」があって、非常に驚いた。金沢でも何のことかわからないのにだ。北前船の影響?それとも北海道開拓で能登の人たちが移住した?

方言は実に奥が深い。だが、テレビの影響で若い人達は方言を話さなくなってきた。ことばの文化の衰退を憂い淋しくもある。

2017年3月12日日曜日

長崎から船に乗って佐世保についたー♬(その2)

朝8時30分までに長崎港旅客ターミナルに集合した受講者100人前後は、チャーター船桟橋に向かった。
船のチャーター主は講習会の主催者である全国建設技術者協会である。

この協会は、全国の地方公務員(県及び市町村)の土木技術職員で構成されている。協会は毎年全国主要都市において、行政上必要な技術と知識の向上を目的とした講習会が分野別で概ね10か所で開催されている。

平成10年、県の外郭団体に転職したのだが、その機関の職員は年2回、自分が関心のある講習会に参加しても良いと聞かされたので、講習内容は二の次として、北海道から沖縄まで行くことを密かに決意。そして平成10年度は青森・盛岡、以降、郡山・新潟・東京・岐阜・明石大橋・しまなみ海道・広島・佐賀と回って今回の長崎・佐世保となった。退職までに北海道を除いては沖縄までと、密かな計画は成し遂げることができたのである。

さて、チャーター船は小型なので満員御礼といった状態で佐世保まで6時間の船旅。長崎港を9時に出航した。
航路
長崎は造船の町。三菱造船所で戦艦武蔵が建造されたところでもある。その造船所で豪華客船ダイヤモンドプリンセスが建造中であった。
ダイヤモンドプリンセスのすぐそばを通った
暫く行くと架橋工事現場が見えてきた。
現場見学も講習会の目的
船はやがて湾外へ
もうすぐ湾外となる場所でこれも建造中の豪華客船サファイアプリンセスを見ることができた。
完成した吊り橋を過ぎて湾外となった
湾外を出て5時間ほどは大海原。さすがこれには退屈した。
ようやく日本海と大村湾が繋がる海峡に差し掛かった。海峡は狭いので干満の差による潮流は、渦を巻き飛沫を上げて豪快だという。我々が通過したときは小さな渦ができている程度であった。
西海橋通過
船はハウステンボスがかすかに見えるところでUターンした。
バイパスの橋脚が工事中であった
現在はバイパスが供用されている
やがて佐世保湾に入った。海上自衛隊の自衛艦が何隻も見えてきた。
佐世保港に到着
佐世保市は、かつて旧海軍四軍港(横須賀・呉・佐世保・舞鶴)の一つとして鎮守府が置かれ、現代でも自衛隊や在日米軍の基地として伝統を受け継ぐ、造船および国防の町として知られる。また、西海国立公園に指定されている九十九島や日本最大級のテーマパークであるハウステンボスに代表される観光都市でもある。

海岸の直ぐ近くに佐世保駅がある。ここは高架化したばかりで、駅やショッピングセンターもぴかぴかの状態であった。
ホテルから佐世保湾の眺望
あくる日はトンネル工事現場を見学してから九十九島めぐりの観光船に。
観光船
九十九島全景
晴天に恵まれ素晴らしい景色を堪能することができた。
午後になり現地解散。列車に乗り長崎空港へ。そこから伊丹→新大阪→金沢と全行程が終わった。


2017年3月11日土曜日

長崎から船に乗って佐世保についたー♬(その1)

NHKのブラタモリという番組が好評である。半年前に金沢を訪問していたが、我々でも知らない場所や歴史を紹介していた。
先だっては、長崎を採り上げていた。番組を見ながら平成15年に開催された、全国建設技術者協会主催の講習会で長崎・佐世保に行ったことを思い出した。

それは平成15年10月、小松から博多まで飛行機、博多から電車で長崎。長崎到着が午後3時頃であった。講習会は翌日からの1日と船旅1日、佐世保1泊の3日間。前泊なので到着した3時から、駅を起点に市内を歩き回ることにした。
長崎駅
私にとって長崎駅といえば思い出深い駅である。高校の修学旅行で終着駅長崎に到着した。そして駅前に出た途端、バスガイド十数名の編成でブラスバンドによる校歌が演奏された。エエッ、こんなところに校歌がと驚きかつ感激したのであった。観光バス会社の粋な計らい!

さて、駅を出て先ず海岸を目指すことにした。ホテルがこの海岸近くだったので荷物を置いて身軽になった。
旅客船乗降ターミナルビル付近
この付近を暫く歩くと海岸を埋め立てた公園があった。現在、そこは「長崎出島」が復元されて景色が一変したそうだ。
1kmほど海岸に沿って歩き、旧上海銀行に立ち寄った。銀行は廃業していたが、カウンター等の設備が残されていて、往時のままの状態で見学できるようになっていた。江戸末期から昭和中期まで営業していたのだろうか。

坂を登り突き当りが大浦天主堂。内部に入り見学したが、それはとても荘厳な建物と施設であった。
そこを出て左に曲がるとグラバー邸入り口である。傾斜地を造成して建てられた建物なので、敷地内のエスカレーターで庭園に着いた。その一角にある邸宅に入った。
ここは修学旅行でも来た所なのだが、内部がどうだったのかはすっかり忘れていた。
グラバー邸外観

グラバー邸から外の風景を望む
竜馬の船中八策が展示されている
ある部屋には大きな食卓テーブルの上に食器類が並べられており、江戸末期の西欧人がこんな贅沢な生活をしていたのか・・・と思った。
庭園から長崎港が一望できるのだ
ここから次に向かったのはオランダ坂。
オランダ坂
オランダ坂の途中から左に折れると外国人居留地の建物が残っている。
外国人の住居群
しばらく坂を登ると頂上となって下り坂となる。
思案橋を過ぎ中華街に入った。人通りが多く賑わっていた。ここを通り抜け山裾の寺院群へ行った。先ず、崇福寺へ。
山門
ここの大雄宝殿と第一峰門は国宝建築である。興福寺・福済寺とともに「長崎三福寺」に数えられている。
本堂内部
本堂の内部は日本の寺と随分相違する。やはり中国の寺なのだなぁと納得するのである。
隣接する3つのお寺を見学して、「長崎は坂の町」を体験することにした。
こんな話を聞いたことがある。何で自転車に乗れないんだと聞いたら、長崎出身なんですと答えられたという。現地を歩いて見て、これでは自転車なんていらんわなぁ・・・と納得した。

狭い石段を暫く登ったところに亀山社中の記念館があった。

記念館に入場しようと中に入ったら、あいにく「本日休館日」と張り紙。しぶしぶ諦め、さらに長い石段の坂道を登った。ここの住人はマイカーも持てず大変だなぁと思いながら。
山の頂上まで住宅がびっしり。頂上に公園があった。その公園に隣接して竜馬の銅像が建てられていた。長崎港を見下ろしている姿。実際に本人も大望を抱いて眺めた景色なんだろうなぁ。
竜馬像
司馬遼太郎著の石碑
ここから近道へ行くことにした。
住宅はなく墓地が点在していた
翌日、2kmほど歩いて講習会場へ。講習のテーマが何だったのかすっかり忘れた。
夕方となって長崎で最も高い山、稲佐山で夜景を見ることにした。ロープウエーの乗り場が分からないので、通りがかりの年配女性に道を尋ねたら、何と親切なんだろう、「案内しますよ」と。
そして稲佐山の展望台に立ち、長崎の夜景を堪能した。
稲佐山からの展望
港の風景と山の頂上まで煌めく灯は素晴らしい。
この数年前、函館山の夜景を眺めたのだが、冷え切った空気の中で扇状に広がる煌めきはさらに素晴らしかった。
翌日は旅客船発着ターミナルからチャーター船で佐世保港に向かうことになっている。