2018年8月31日金曜日

体操協会が異例の対応

今朝のワイドショーも昨日に続いて、体操協会のパワハラ問題を各局が競うように大々的に報じた。塚原光男副会長が宮川選手の告発を「全部ウソ」と決めつけたことに対して、具志堅幸司副会長が「18歳の少女が全部ウソを言うことはない。協会として残念だ」とコメントした。

塚原光男副会長がこの日朝、取材を受けて宮川の会見内容を「全部ウソ」とした発言を「最悪の例」として挙げた。「感情的になって全否定したことで、常に『選手のクセに…』と見下している印象を持たれた」とした。「具志堅さんは、身内をかばうのではなく、たしなめる発言をしたことで公平感も出した。この点も素晴らしかった」とした。
レスリング協会、日大アメフト、ボクシング協会においては、協会でこのような見解は一切示されなかった。常識的な判断ができる組織であることに驚いた。
二木会長(左)と具志堅副会長(右)
昨日行われた緊急理事会において、第三者委員会を立ち上げて速やかに調査することを決定したという。
体操女子で2016年リオ五輪代表の宮川紗江(18)が「日本協会にパワハラを受けた」と逆告発した問題で、協会側の立場で30日に会見を行った具志堅幸司副会長(61)がネットを中心に称賛を浴びている。SNSなどでは「スポーツ協会関係者で久し振りにまともな人を見た」などの声が続出。危機管理広報会社・エイレックスの江良俊郎社長は「感情的にならず、合理的な受け答えで世の中の人に納得感をもたらした」と評価した。

記者の目をきちんと見つめながら、投げかけられた質問には冷静に「その通りです」「それはわかりません」とハッキリ答える姿。具志堅副会長の記者会見は、見ている人たちに、好印象を植え付けたようだ。会見終了後、ネット上には称賛の声。ヤフーのリアルタイム検索で話題のキーワードでも「具志堅副会長」がトップ10に入るなど、大きな注目を集めた。

これとは対照的なのが塚本夫妻。そんなことは一切言っていませんと公言してはばからないのだ。第三者委員会の調査で「鉄槌」を降ろしてもらいたいものである。


2018年8月30日木曜日

体操協会お前もか!

昨日(8月29日)午後4時から、女子体操の宮川紗江選手の記者会見が行われた。
この記者会見は、宮川選手のコーチだった速見佑斗氏(34)が暴力行為をしたとして協会から無期限の登録抹消処分となった問題について、暴力があったことは認めながらもパワハラではないと訴えたものであった。

宮川紗江選手の記者会見
 そして、何と協会からパワハラを受けたと衝撃的な発言があったのである。
会見は1時間半に及び、そのVTRを見ると宮川選手は18歳ながら実に堂々と説得力のある会見を展開した。

記者会見の報道記事
驚くことに、体操協会においてもレスリング協会やボクシング協会、それに日大アメフト部等と極めて共通したパワハラがまかり通っていることである。

強化本部長という要職にある塚原夫妻に関わりが深い朝日生命への移籍を勧められたこともあったという。


夫婦で権力を振り回す?塚原千恵子強化本部長
速見コーチから1年以上前に頭を叩かれるなどを暴力はあったことを認め、「コーチが暴力をしてしまったことは許されることではなかったと理解している」とした宮川は、「協会から今までパワハラを受けたという風に感じている。すごく怖かったし、このままつぶされてしまうのではないかということで、周りにも相談した」と話した。

宮川選手の記者会見が終わって間もない午後7時から体操協会側の記者会見が開かれた。

山本専務理事
山本専務理事は、「指導者による暴力行為を認定したときは、たとえ被害者が暴力を許容したとしても、協会として許容することはありません」とした。
「速見佑斗氏処分の検討時、並びに発表後も、本会としては変わらぬ考えに基づいて対処していることを、ここにご報告申し上げます」とし、9項目の見解を発表。「平成25年以来、一貫して暴力撲滅に取り組んでおり、指導者による暴力行為には厳しい態度で臨んでおります」とし、「練習場や試合場には他の指導者や選手がおり、暴力行為を目撃します。その悪影響を看過することはできない」と処分の妥当性を訴えた。 

この協会の主張に甚だ違和感を覚えた。何故暴力行為について暴行されたとする宮川選手からヒアリングしなかったのか、暴力行為により選手が怪我を負ったならいざ知らず、たたいた、髪の毛を引っ張ったという行為を第三者から聞いて「無期限の登録抹消」という重い処分をしたのか等々、国民の大多数を納得させるには程遠い協会の主張であった。


今朝のモーニングショーはこの件について大々的に取り扱っている。
夫婦で協会を食い物にしている実態が垣間見えてきた。この問題は簡単に収束しないだろう。

25年も体操協会に君臨している塚原夫妻
30日放送のフジテレビ系「とくダネ!」の番組では、この日朝7時30分ごろ塚原本部長の夫で塚原光男副会長(70)を直撃取材した。


「全部うそ」と決めつけた塚原光男副会長

塚原光男副会長、宮川のパワハラ発言は「全部ウソ」…「とくダネ!」直撃取材に明言

塚原氏は宮川の告発について「今日午後にでもプレスリリースします。ちょっと、なぜ彼女があんなウソ言うのか、ちょっと分からないんでね」と明かした。
また、森末慎二氏がモーニングショーで「やっぱりそーだよなぁ」と共感を呼ぶ発言をした。



さぁ、大見えを切った協会、嘘でなかったら腹を切っても収まらねえーぞ。



2018年8月29日水曜日

ヤマダ電機がドンキに変身!

かつて、自宅から徒歩で20分、8号線沿いの一角にヤマダ電機福久店があった。この店舗ができて5,6年は営業を続けていたが、店舗はいつもガラガラの状態だった。どのフロアーもお客さんより店員の方が多かった。結局この店舗は閉鎖となったが、建物は3年くらい放置されていた。

ヤマダ電機が2013年4-9月連結決算で初めての赤字を発表した。ヤマダ電機の赤字の原因としては、中国出店の失敗、ベスト電器の買収の失敗などがあげられているが、インターネット販売との競争激化で家電製品に利益が出づらくなっている構造上の問題も存在しているという。
現在はグループで国内外に1000店以上の直営店を展開しているが、同業他社との値下げ競争や、インターネット通販の普及で事業環境が悪化したようである。

さて、話を戻すが、一昨年の5月20日、ヤマダ電機だったその建物がドン・キホーテ金沢森本店としてオープンした。

ドンキホーテ金沢森本店
 開店から今年で3年目に入ったのだが、近くても特に買いたいものは無かったので、ついこの間まで行くことはなかった。毎日のウォーキングで1度だけそこに行ったのだが、まだ開店時間前だったので入ることは無かった。
つい先日、女房が「いろんな商品が天井まで積み上げてある、一度行ってみたら」と盛んに勧めるので車で出かけた。

ドンキホーテの商品陳列は天井まで積み上げてあるという話は以前から聞いてはいたが、中に入ると所狭しと商品の山、自分が店舗のどの位置にいるのかさっぱり見当がつかなくなった。



陳列されている商品の種類は「ありとあらゆるもの」である。
商品も多いのだが、来客数も実に多いのである。

食品売り場に限っては一般的な陳列方式だった
チョコなどのお菓子類では、イオンで100円くらいのものが70円前後の値札が付けられていた。
この値段でドンキしか買えないのだが、これでも利益を確保できるのだから経営方針が他の追随を許さないということだろう。

「やっぱり魔境だよな」――。ドンキホーテホールディングスの創業者である安田隆夫氏は、最近よく社内でそう口にするという。“魔境”とは、天井近くまで商品を積み上げた陳列が特徴的な同社の売り場を言い表したもの。特異な店舗づくりで独自の立ち位置を確立してきたドンキが今、“再生屋”として存在感を増しているという。

ドンキが8月上旬に発表した2018年6月期決算は、売上高9415億円(前期比13.6%増)、営業利益515億円(同11.7%増)と29期連続で増収増益を達成した。業績を牽引したのは食品や化粧品、医薬品などだ。特に訪日観光客のリピーターが増加傾向にあり、免税売り上げは前期比56%増の568億円と絶好調だった。

金沢森本店の来客の多さがそれを物語っている。

2018年8月28日火曜日

文化の違いと云えども

昭和50年代、日本人の海外旅行が激増し、旅行客は「日本ノーキョウ」と呼ばれるようになり西洋各国からマナーについて非難されていた。
近年、日本に訪れる海外からの観光客が倍々ゲームのように飛躍的に増加している。
特に、中国、香港、台湾などの中華圏からの旅行者が50%を占めるようになった。


日本政府観光局によれば2017年の訪日外客数は2869万人に達した。国籍別で見てみると、日本を訪れる外国人の25%が中国人であり、香港や台湾を含めた中華圏からの訪日客は全体の約半分となった。
日本を訪れる中国人が非常に多いため、観光地や都市部では日本人の生活に大きな影響を与えていて、中国人観光客が「旅行公害」と呼ばれていると指摘している。たとえば、公共の交通機関が中国人観光客で一杯になってしまい、日本人が迷惑していること、さらに、中国人が去った後には「ごみの山」ができていて、その処理に時間やコストがかかることなどが問題となっていると指摘した。


経済が発展し海外旅行に出かけることができるようになり、中国人旅行客の存在が諸外国の経済に影響を与えるようになってきたが、渡航先に与える影響や現地の規則を守ってこそ、本当の意味での「大国」となることができるとある新聞は主張した。確かに日本各地の空港では中国人が捨てるスーツケースの処理が問題となっているという。ぜひともマナーを守って楽しい旅行をしてもらいたいものだ。


兼六園あたりでも中国旅行社の旗をかかげたガイドを先頭に、20人くらいのグループが観光している姿を何時でも見るようになった。
しかし、どうしたわけか金沢市内のイオンに観光バスが横付けされ、衣類や薬を山のように購入していたのだが、最近は観光バスは滅多に来なくなった。


民泊してごみ箱が満タンになり、周りはゴミだらけという住民泣かせのケースも多いようだ。空港では新しい旅行用バッグに買ったものを入れ替え、古い旅行用バッグが山のように捨てられているという。日本ノーキョーの旅行客はマナーが悪い代名詞のように言われたが、バッグを捨てたり、線路に立ち入ったり、桜の花のついた枝を折ったりはしなかったであろう。
どこでも唾を吐き、まるで喧嘩しているような大声をあげての会話、こんな連中を見ていると腹が立ってしょうがない。

やはり文化の違いだからしょうがないのかなぁ。

2018年8月27日月曜日

十年ひと昔 比較すれば随分変わった

十年経てば周りは大きく変化することを十年ひと昔という。
自分が住んでいる地域でも大いに変化している。
平成20年、金沢駅開業100年記念事業の一環として、建設中の新幹線ウォーキングが実施された。
参加者がわんさか訪れた
駅上部の高架橋 開業まであと7年も
金沢フォーラスや駅前ドームが完成し、駅前は一変したのだが肝心の新幹線はスローペース。1日も早い開業が望まれていた。
吾が町内地域においても大激変しようとしていた。広大な能登金剛跡地に業界大手のマルハンが建設されることになり、その工事が着工された。町会は、進出反対を前面に地元協議を数回開催した。

この協議において、町会は生活道路に面した進入路2か所の設置計画を県道側に変更させることに成功、それなりに成果を上げた。
この斜め前に「シメノ薬局」があったのだが、借地契約更新が地主側の了承を得ることができなかったため取り壊し閉店が決定した。

これが無くなって不便極まりない!
そして、その跡地に高齢者を対象にしたマンション計画の立て看板が設置された。

看板の計画図
このように変革した
町会は金沢市役所に対して、柳瀬川改修工事と並行して進められていた農道整備に合わせ、町内道路と農道を結ぶ架橋を要望していたが、この年、ようやく完成した。これにより、森本駅とのアクセスが格段に良くなった。

完成した橋梁 行きどまり道路が超便利になった
この頃、町会集会所が老朽化したことから、集会所改築プロジェクト検討委員会を立ち上げ、荒屋会館完成に向け全力をあげていた。

町会役員のほか、子供会、老人会、婦人会、民生委員等が熱心に協議した
また、平成18年に中高年齢者を対象にしたパソコン講習会を月2回開催し、インターネット回線のある高林製作所副社長の取り計らいにより、同社会議室を借用してインターネットに関する講習会を実施した。
生ビールサーバーについて副社長の取り扱い方説明
十年前の身辺にあったことを取り上げてみたのだが、10年という年月をこれらの記録を眺めてつくづく「変わったもんだなぁ」と思う。



2018年8月26日日曜日

最近見かけなくなったもの

あの車が来た時には、親指を中にして握りしめないと何か良くないことが起きる、と、まことしとやかに誰もがそう言っていた。
あの車とは何?答えは宮型霊柩車である。そういえば最近全く見かけなくなったなぁと思う。

あの車の豪華絢爛的車内
その理由は何だろう。
理由1.沿道住民の苦情が多い
  2.斎場付近住民が毎日その車を見て死を連想する
  3.使用料金が極めて高い
ある市役所は、斎場への宮型霊柩車の入場を禁止しているという。


昨年1月、宮型霊柩車製造会社の草分けメーカーの「セガワ」が業績不振で1億円の負債を抱えて破産したという。



オリジナルカーで知られる自動車メーカー、光岡自動車(富山市)の担当者も「現在、宮型を使っている葬儀社は限りなくゼロに近いだろう。当社も宮型の製造をやめてしまった。豪華な装飾を施した宮型霊きゅう車が街から姿を消した一方、見た目は普通の自動車と変わらない“ネットにつながる霊きゅう車”が主流になる日も、そう遠くなさそうだ。

一方、減少の一途をたどる日本国内とは対照的に、アジアの仏教国では派手な金色装飾の宮型霊柩車が脚光を浴びつつある。モンゴルでは「走る寺」と歓迎され、社会主義時代に寺が破壊されるなど迫害を受けた仏教のイメージアップにも寄与しているという。

日本葬送文化学会会員で葬祭業者「アラキ」(千葉県八街市)の荒木由光(よしみつ)社長(68)は平成15年以降、中古の宮型3台をモンゴルの国営葬儀社に寄贈。学会のモンゴル視察で、ある僧から「あの宮殿のような車を譲ってほしい」と言われたのが始まりだった。 


同国は土葬や風葬が根付いていたが、当時は墓地不足などから火葬が見直されていた。ただ、棺を積む車は軽トラックと簡素なものしかなく、「金ぴかの宮型が死者を盛大に弔う同国の国民性と合致したのかも」と荒木社長は振り返る。


当時、ウランバートル市長から感謝状を受けるなど自治体にも歓迎され、マスコミ取材も殺到。現在、寄贈を受けた国営葬儀社では宮型から予約が埋まっていくほど人気だという。 
もう1年前くらいになるが、ウランバートルで日本の中古霊柩車が大人気となっている模様を放映していた。何と、タクシーとしても人気があるのだとか。中古車の需要はアフリカでも高まっているという。

宮型霊柩車外観
精巧かつ緻密な造りは日本独自の技術があって初めて可能なのである。美術品として眺めればその価値は高いだろう。



2018年8月25日土曜日

池江璃花子が6冠の大記録樹立!

ジャカルタで開催中のアジア大会で、昨日、池江璃花子選手が史上初となる6冠に輝いた。池江選手は高校生だが、インタビューにしても実に大人びた応答をこなしている。



大会第7日の24日、競泳女子の池江璃花子(ルネサンス)が50メートル自由形を大会新記録で制し、日本選手1大会最多記録を更新する6個目の金メダルを手にした。


また、続いての競泳で男子50メートル平泳ぎは、小関也朱篤(やすひろ)(ミキハウス)が優勝し、平泳ぎ3冠を達成。女子200メートル個人メドレーは、大橋悠依(イトマン東進)が銀、寺村美穂(セントラルスポーツ)は銅。競泳は全日程を終え、日本は前回を上回る19個の金メダルを獲得した。

3冠の小関也朱篤選手
ソフトボールの日本は、決勝で台湾に7―0で五回コールド勝ちし、5連覇を達成。上野投手は貫禄十分だった。ボート男子軽量級ダブルスカルは、武田匡弘(関西電力)、宮浦真之(中大)組が金メダルを獲得した。

本大会は正にゴールドラッシュである。女子バドのトップ争いは中国と熾烈な戦いを制して半世紀ぶりに金メダル。今の今、男子マラソンの競技中であるが、久しぶりに金銀獲得の予感がする。
ただ、女子レスリングが惨敗。やはりパワハラした覚えがないという栄監督の再登場が必要か?

たった今(10時45分)、男子マラソンで日本歴代4位の2時間6分54秒の記録を持つ井上大仁(25)=MHPS=が2時間18分22秒で、日本勢で1986年ソウル大会の中山竹通以来となる優勝を飾った。井上、ラスト50メートルで競り勝つ「勝った瞬間、喜びが爆発した」という。


32年ぶりの快挙 金の井上選手
ラスト50メートルで競り勝つ
園田隼(29)=黒崎播磨=は4位だった。

夕方から短距離が始まる。桐生、山縣、ケンブリッジの力走が見ものである。



2018年8月24日金曜日

七尾湾の1枚の写真

調べものをしていたら、数ある写真の中で1枚の写真に眼が釘付けとなった。
その絵を眺めていると、自分もタモを持って走り回っている少年になっていた。場所は七尾湾に面した野原のような林のような場所である。


実際にこの場所で虫取りをしたことはないのだが、自分の家の近くの林や森、あるいは河川敷など駆けずり回っていた頃を思い出した。
この写真の場所はどこなんだろうか。七尾湾が見える小高い場所のようなので、能登島なのかもしれない。つい微笑みが湧いてくる写真である。
七尾港は、能登半島のほぼ中央、能登地方の中心都市である七尾市に位置し、能登島を天然の防波堤として古くから栄えた港である。

昭和30年代前半、まだ能登線が開通していない時代だが、七尾港から宇出津、飯田行きの能登商船があった。この汽船に何度か乗ったことがあり、この航路の歴史を調べてみた。
七尾町本町の松井善四郎が石川島造船所から18トンの汽船を購入して春陽丸と命名し、七尾・宇出津間に、明治18年(1885)定期航路が開かれたのが最初。これは石川県における蒸気船航路の最初であろう。奥能登へは、当時、鉄道も通じていなかったので、行き来は、ほとんど船に頼るしかなかったので、七尾は重要な交通の拠点であった。この定期航路の経営は、翌年、日要社に引き継がれ、日要社は後にさらに能登汽船に合併された。

昭和30年頃の七尾港
汽船が発着する桟橋は御禊川の河口付近にあった。現在の食祭市場あたりだろうか。

明治後期、七尾は開港指定運動を展開することになった。
その背景には明治21年北陸鉄道会社の設立、七尾鉄道開設工事の進行があった。

また、政府が明治29年(1896)の帝国議会に開港外貿易港を指定する法律案を提出し、国際経済への進出を計ろうとしたこともある。 

一方、宇出津は江戸中期より盛んになった西廻り航路の寄港地としても機能しており、北前船と呼ばれた商船が頻繁に発着し、町はそれらとの商取引で賑わった。
奥能登地方は陸路の開発が遅れ、明治に入って以降も通運は海路に頼っていた。明治18年には七尾との間に定期航路が開設され、半島南部や加賀地方との物資の流通が盛んになり、この地域では先進的な町であった。

乗船券
七尾は万葉の時代から「香島津(かしまづ)」とよばれる港として栄え、北前船の時代には 回船問屋も多く寄港地として隆盛を極めたという。
七尾は、能登の産物の集散地で活発な廻船活動を展開していた。
江差の関川家の客船帳には、津向屋仁兵衛など16人の七尾の船主が登場する。
明治初期の七尾港は、いつも百艘ほどの船が出入りしていたという。

藩政時代と同じく、南は下関から大坂、北は新潟・秋田・松前の各地を往来し、米殻・清酒・建具・藁工品などを移出し、帰路は鰊の〆粕、木材などを北陸地方へ運んだ。
津田嘉一郎が明治12年に2千石積の大船(和徳丸)を新造したのを最後として、
和船の新造を見ることなく、西洋型の汽船時代に入り、北前船は姿を消す。


何年か前、食祭市場の駐車場に車を置いて一本杉通りに行ってみたことがある。


橋を渡るとそこは異次元の世界に入り込んだような錯覚に陥る。
風格のある商家が向かい合って延々と立ち並んでいる。
ある商家に入って展示品に見入っていたら、おかみさんとおぼしき方が「どうぞ2階を開放していますから見て行ってください」といわれ2階に上がった。
天井、床の間、壁、どれも素晴らしい材料が使用されていて、往時の繁栄ぶりの一端が伺うことが出来た。そんな繁栄も鉄道開通で北前船が無くなるにつれて、七尾は徐々に寂れていった。


昆布海産物處しら井屋
現在は観光客で賑わう
汽船に乗って1時間くらい経過すると、地についていない揺れ方で気持ち悪くなった時もあった。乗船時間は2時間半、やがて眼に入ってくる風景は甲のお椀を伏せたようなこんもりした森が見え、それが過ぎ去ると宇出津の遠島山公園の崖は、到着1時間前から見えるのだが「なかなかへしない」時間であった。
崖下にある水産高校を右に見て宇出津港内に入る。もうこんな風景は見ることが出来ない。水産高校も取り壊されて立派なマンションが建っている。昭和の化石も年季が入って来たー。


2018年8月23日木曜日

小学生がお坊さんになる儀式

現在、空き家になっている能登の家の2軒隣が、佛性寺というお寺である。小学生の頃、高齢の住職がボランティアだったのだろう、近所の子供を集めて孫悟空とかいろいろなフイルムを使って幻燈機で映像に合わせて話をしてくれた。
そのお寺に自分より4歳年下の長男がいたのだが、彼が小学4年生の時に京都東本願寺に行って得度してきたと聞いた時、「もう坊さんになった?」と不思議に思ったものである。

今月4日、その得度式の模様が新聞に掲載された。

真宗大谷派の僧侶になる儀式「得度(とくど)式」が4日、本山の東本願寺(京都市下京区)であった。夏休み中の子どもたちも式に臨み、お坊さんの仲間入りをした。

宗祖・親鸞が9歳で得度したとされることにちなみ、同派では9歳から得度できるという。この日は9歳の小学生36人を含む109人が白い浄衣(じょうえ)姿で参加。大谷暢裕(ちょうゆう)門首代行(66)から頭にかみそりをあててもらい、僧侶になった証しの墨袈裟(すみげさ)と法名を授かった。


通常、得度式は1月・12月を除き毎月1回(7日)に行なわれているが、8月は夏休み期間ということもあり、多くの子どもたちが受式するため、2回行なわれることが通例となっている。御影堂、阿弥陀堂両堂を使用しての夏の得度式は、13年ぶりとなるという。

写真を見ると、女児の姿もあることから、浄土真宗でも尼さんになるのかな?、尼さんになるわけないだろうなぁとか、これからどんな人生を歩むのか、幸多からんことを願った。

2018年8月22日水曜日

準優勝おめでとう!

県大会はもちろん、甲子園の決勝戦までの全試合を一人で投げ抜いてきた金足農業吉田輝星投手、5回、足に力が入らず桐蔭打線に滅多打ちされ始めた。「俺、もうだめや」と内野手に初めて弱音を吐いたという。おりしも炎天下、疲労が頂点に達したのだろう。
とうとう降板した。観客から惜しみない大拍手が沸き起こった。観客の8割以上が金足農業の応援団になったという。


昨日の秋田市、否、秋田全県下では試合開始の1時間前から人通りが絶えてしまったという。
にぎわい交流館に集結した市民応援団
試合結果は大敗となったが、誰もその非をとがめるどころか大健闘の感涙に咽んだ。
吉田は試合後、「序盤は粘れたが、四回ぐらいから下半身が思い通りに動かなくなった。そこを大阪桐蔭がコンパクトに狙ってきた」と相手をたたえた。


「地域に支えられて、決勝の夢の舞台までこられた。チームメートに何度も救われた。最高のチーム、最高の夏でした」と今大会を振り返った。
秋田県出身(秋田工OB)で元中日監督の落合博満氏(64)はこの日、ロッテ戦のイベントで訪れた東京ドームで、吉田について言及。「1人で6試合で、バテバテだっただろう。12点取られても評価が下がるわけではない。見た中ではドラフト1位、俺が監督なら(獲得しに)いく。一級品の投手ですよ」と、故郷の後輩を高く評価した。
試合終了 悔し涙にくれる吉田投手

こんなことがあったという
中学時代から吉田と金足農業に行くぞと6人のチームメイトが
東北勢決勝戦のチャレンジ戦績
沢山の感動をもらった
22日現在、金足農高に寄せられた寄付金が何と1億9千万円も。感動を貰ったお礼の気持ちが全国各地からも。
選手の皆さん、休養をしっかり取って普段の元気を取り戻してください。