2020年9月30日水曜日

パーゴラ(H=2.0m)から転落、背中・腰部分の激痛が治らず

 アケビの蔓を這わせて木陰にする目的に22年前にパーゴラを設置した。ところが、近年になってやたら勢いが増して屋根瓦の隙間に潜ったり、樋をつたってアンテナにまで伸び出した。

五月末の状態
この夏が過ぎたら伐採しようと決断した。そして昨日、その日がやってきた。午前中はパーゴラの上に登って屋根部分を伐採撤去した。午後もてっぺんに登って、樋の部分を取り払って残っていたパーゴラ上部も伐採して終わった。

そして事件は起きた。パーゴラの上部に腰を下ろして、二つ折りのハシゴの上に足を降ろして態勢を変えようとした途端、ハシゴが転倒すると同時に自身の体ももんどり打ってコンコリートブロック張りの床に叩きつけられた。落下した状態は、仰向いたままだったため、背中を強打、5分間そのまま呻いていた。

苔の上に背中を強打 パーゴラは経年のためバラバラに分解して落下
夜中じゅうあっち向きこっち向きに体勢を変えたが、横向きで寝ると痛みが少なかった。それでも睡眠不足。
で、今朝一番に整形外科医へ。先生に経緯を説明し、レントゲン撮影となった。足を伸ばしてと云われたが激痛が走り膝を立てて撮影した。レントゲンの撮影で板張りのベッドに横たわるのでこれが激痛で飛び上がった。

終わったようなので待合室で診断を待った。ところが、レントゲン技師にもう一度こちらへと呼ばれて、再度腰部分を重点的に撮影した。しばらくして診察室へ。腹を下にして寝そべってくださいと指示に従った。これもきつい。
写真を見ながら診断が下った。年齢的には骨折があっても不思議ではないが、ヒビなし、骨折なしの診断が下りた。背中に傷があるので、毎日消毒します。といわれクリニックを後にした。帰る途中、薬局に寄って薬をもらおうと思ったが、その薬局では常備していない薬だったので、午後、お届けに参りますということで取りあえず午後はジッとせざるを得ない。否、10日くらい痛い々々といいながら過ごさざるを得ないか。

2020年9月29日火曜日

ブランド野菜「金沢そだち」の秋冬ダイコン初出荷

手取川河口である美川から羽咋までの海岸線は砂丘が続いている。長い長い砂丘であるが、これを利用した農作物の栽培は盛んに行なわれており、金沢下安原地内から粟崎地内までが特に大規模に行なわれている。スイカ、五郎島金時等が代表的作物だが、このほど、秋冬ダイコンが初出荷されたという。

下安原地内で収穫された秋冬ダイコン
県内最大の産地の金沢市でとれたダイコンは、砂地で栽培されることから色が白くきめこまやかで「金沢だいこん」として関西の市場などでも高い評価を得ている。
今年は記録的な暑さに加え、8月は雨が降る日が極端に少なかったことから、スプリンクラーを使った水の管理に苦労したというだが、去年より4日早く初出荷を迎えた。
砂丘地集出荷場へ
四十八軒の農家が計五十三ヘクタールの畑で栽培し、十一月中旬までに三千七百トンほどを出荷する。出荷のピークは十月中ごろ。県内のほか関西の市場にも送られる。

集出荷場に運ばれた

出荷初日は2,710ケースが金沢市場へ出荷された。 (なお、県下全体の作付面積は86ha、出荷計画は48万ケース)     しかし、48万ケースとは恐れ入った!

2020年9月28日月曜日

上杉謙信が攻めあぐんだ日本五大山城七尾城の発掘調査

 十年ほど前になるか、日本屈指の山城だと評価が高い、七尾城に行ってみたいと思っていた念願が叶った。岐阜城にもロープウエーや歩いて何度か登ったが、七尾城の方が高い樹木が茂り距離が長く時間がかかった。眺望は岐阜城が遙か濃尾平野の地平線まで、鈴鹿山脈、伊吹山と広大な景色が堪能できるが、七尾城は能登島方向しか見えなかった。この七尾城の発掘調査が実施されるという。

調度丸跡
七尾市教委は二十三日、国内最大規模の山城として知られる国史跡、七尾城跡の発掘調査を始めた。標高約三百メートルの本丸跡の二十メートルほど下に位置し、重要な資料が見つかる可能性がある遺構「調度丸跡」を調べ、城全体の構造を把握する手掛かりを探る。城の中枢部分に近い場所での学術発掘は初めて。

上杉謙信が1年余も攻城したが、陥落能わず、畠山家臣遊佐の寝返りにより落城した。謙信が攻城で詠んだ「九月十三夜陣中作」は余りにも有名である。

霜は軍営に満ちて 秋気清し
数行の過雁 月三更
越山 併せ得たり能州の景
遮莫(さもあらばあれ) 家郷 遠征を憶う
本丸跡からの眺望

難攻不落の構え

急勾配の通路と櫓跡
このあたりまで車で行ける
七尾城の名前の由来は、七つの山の尾根にわたって造られているためだという。尾根には、松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・龍尾という名前があり、それぞれ七つの門が造られていた。七つも尾が付いている山とは珍しい!

利家は七尾城主となって当地に赴いたが、時代は山城が平地の城となる時流から、小丸山に新しく城を築いた。あの浅井長政の拠点だった小谷城も、秀𠮷は長浜の琵琶湖畔に設けた。要するに、武器が刀・弓矢から鉄砲・大砲が取って代わったことが要因だろう。

2020年9月27日日曜日

炎鵬の注文相撲

両横綱不在、観客まばらの今場所だが、これが結構面白い。幕尻翔猿の大活躍が一層盛り上げている。昨日は貴景勝との対戦だった。以外に思ったのだが、翔猿は貴景勝の埼玉栄の4年先輩だということ。遅い出世なのだが、貴景勝戦では笑顔さえ見せていた。今後の活躍が楽しみだ。それに、正代の桁外れの強さ。何だか先場所当たりから一気に強くなった感がする。

さて、この稿は炎鵬がメイン。今場所4連敗、研究されてもう勝つことは至難の業という解説がまかり通った。4連敗した際にはひょっとしたら十両陥落?という心配がよぎった。小兵だから負けた様子が惨めである。てめえみたいな小男に負けてたまるか!と相手に全く歯が立たない場面が続いた。が、竜電に勝ったときは本当に嬉しくなった。しかし、その後3連敗。あの不調の琴奨菊には上に乗られて押しつぶされた。ひょっとしたら1勝だけかと心配した。

しかし、その後6戦4勝と通算5勝をあげた。昨日の対戦は本来の炎鵬の戦いだった。

常に炎鵬には多くの懸賞金が懸かる 昨日は6本も
照強の塩撒きは大喝采が起こる

立ち会い直後、炎鵬の注文相撲となった
この注文相撲とは、立会いでぶつかり合う瞬間に身をかわし、相手の体勢を崩して優位に立とうとする戦法。「変化」とも呼ばれる。正面から相手とぶつかり合う相撲を尊ぶ風潮が根強いことや、技能の点で劣ることなどから、特に横綱や大関が大一番の取組で行った場合には批判の対象となることが多い。しかし、反則ではないため、戦法の一つとしてこれを是とする意見もある。

 照強も先場所の朝乃山の足を取ったのも注文相撲だった。

5勝目の勝名乗り
今日は千秋楽。対戦相手は相撲巧者の妙義龍。どんな作戦か楽しみだ。

2020年9月26日土曜日

曼珠沙華の咲く頃

小学生低学年だった頃は、能登の稲刈りは今頃だった。田んぼは河川敷内にあったので、直ぐ傍に堤防土堤があった。 その土堤に鮮やかな色合いの曼珠沙華が咲いていた。赤い花なら曼珠沙華・・・という歌が流行っていたので、おふくろがそれが曼珠沙華だと教えてくれた。2,3本採って家に持ち帰って空き瓶に挿した。この花を見るといつも稲刈りの情景が思い浮かぶ。

曼珠沙華(彼岸花)
この花が500万本も咲き競っている場所があるという。
500万本の彼岸花 埼玉県日高市にあるという
能登地方の稲刈りはだいたい10月に入ってからだった。親父が10段くらいの稲架にまたがってお袋が稲束を放り上げていた。
高校生になって、この季節には戸室山へアケビを採りに出かけた。このアケビというやつは、細くて高い木に蔓が絡まって実がなるものだから、採るのが命がけとなる。木が折れる限界を肌で感じながらてっぺん付近でぶら下がると、細い木がしなって足が届くので、やっと実が採れる。

俵付近で蕎麦の花が一面に咲いている蕎麦畑がきれいだった。
蕎麦の花
次の年だったか、この季節になってアケビ採りはやめて友達数人と医王山へ行った。
このトンビ岩に登った(2回目)
眺望絶佳の白禿で景色を楽しむことが出来た。
60年も前だなぁ

曼珠沙華でこの季節の色々な思い出が浮かんだ。

2020年9月25日金曜日

超ド級のポツンと一軒家

 ポツンと一軒家という番組は高視聴率だという。この番組を見始めたのは一昨年くらいか。 何せ集落から車1台がやっと通れる荒れた道を30分以上も走って、ようやく到着する場所にそれはある。石川県内でも白山市と珠洲市の一軒家の放送があった。冬場は閉鎖するという黒部の山の中で料理旅館を営んでいる場所にもカメラは行った。

そんな中、これまで見た番組の中で度肝を抜かれた番組があった。今月初めに放送された北海道のポツンと・・・である。
取材班が集落に入り、ちょうどホタテ収穫の片付けをしている人たちと遭遇。さっそく衛星写真を確認してもらうと、「この家は知ってるよ!このあたりには一軒しか家がないから。会ったことはないけども」と、住人のことは知らないまでも家があることは間違いないようだ。

その道のりは、大通りをずっと進む順調なもの。目印の赤い橋もわかりやすく、そこを渡ってしばらく進むと日本庭園のような落ち着いた趣の公園らしき場所が見えてきた。
そこにいたポツンと一軒家の住人らしき男性が家まで案内してくれることに。するとそこには…あっと驚く圧巻の空間が広がっていた。

こ、これを1人で設計施工した?

広大な山地を購入して大公園並みの光景に仕上げた
この人の並外れた構想力、資本、技術等が揃っていないと、これだけの景観は作れないだろう。里にある自宅の奥様の理解も当然必要である。造園協会の研修会場にも提供しているという。それにだ、400m掘って温泉を引いて露天風呂まで完備した。
高級旅館並みの露天風呂である
外山さんは77歳だという。自分と同年齢だが、その行動力にしろ、資金力にしろ、ただただ感服するのみである。爪の垢でも煎じて飲まなければ・・・・・。

2020年9月24日木曜日

吹けば飛ぶような蝶が白山地方から台湾まで飛んでいく

あの蝶が日本から海を越え台湾まで飛んでいくという話しを初めて聞いたとき、そんな馬鹿な、と思った。しかし、中学生の国語の時間に、「てふてふが韃靼海峡を越えてきた・・・」という文章を読んだことがあった。
で、アサギマダラは「旅する蝶」として有名で、春から夏にかけて南から北へ移動し、秋になると南下するようだという。 
この蝶が2千km彼方まで飛ぶという
アサギマダラの不思議は、まず、渡り鳥のように季節によって長距離を移動する習性を持つことだ。しかも集団でそれを行う。何がこの「渡り現象」を誘引しているのかは研究でも特定されていないと聞く。渡り鳥は遙か南方から日本まで往復しているのは知っているし、風にも負けないで飛べると思うのだが、その蝶ときたら、吹けば飛ばされてしまいそうなイメージが強い。強風をどのように避けているのだろうという疑問が強くなる。

海を越えて移動するチョウの「アサギマダラ」の飛来が、今年も白山市瀬戸の尾口公民館で観察されている。移動経路を突き止めようと、地元住民らは連日、アサギマダラの羽に捕獲した日時や場所を記して再び放す「マーキング調査」に取り組んでいる。 
このように羽根にメモを記入する
アサギマダラは黒く縁取られた水色の羽を持つチョウで、羽を広げた大きさは約一〇センチほど。春に九州などの温暖地で羽化し、夏は本州の冷涼地に渡って繁殖する。本州で新たに生まれた成虫は秋になると、再び温暖地に向け移動する。
尾口公民館には、アサギマダラが好んで蜜を吸う秋の七草の一つ「フジバカマ」約千株が植えられ、ピンクの花を咲かせている。この花に集まったアサギマダラを捕獲しマーキング調査することで、移動先で再び捕獲された際、移動経路や日数などが分かる。過去には、白山市でマーキングされた個体が約二千キロを飛び、台湾海峡に浮かぶ島で再捕獲されたこともあった。 
16年間も観察を続けている中村明男さん
今年はこれまでに約千匹を調査。二十三日午前には、長野県大町市で約一週間前に放たれたアサギマダラが再捕獲された。 
観察を十六年間続け、地元の子どもたち向けに観察会も開いている中村明男さん(71)=白山市瀬戸=は「子どもたちにアサギマダラの小さな体に秘められた生命力の強さを感じてもらえれば」と話している。

アサギマダラの長距離飛行に感心するのだが、16年間も観察しておられる中村明男さんのパワーには凡人にはまねができない。

2020年9月23日水曜日

「蚊帳」の中に螢が舞った頃

小学生低学年の頃だからもう70年も前に遡るのだが、梅雨あけ前の蛍の飛び交う頃、田んぼの土手で捕まえた蛍を蚊帳の中に放した。4,5匹の蛍が蚊帳の中を飛び交うのを眺めながら、いつしか眠ってしまった。その蚊帳の中は4人の子どもと両親が寝たのだが、両親が子供たちと一緒に寝た記憶は無い。

今朝の新聞記事で蚊帳が復活の兆しがあるというのを見て思い出が蘇った。
以下、記事
厳しい暑さの夜、たまには冷房を切り、自然の風に当たりませんか―。近年、節電や健康意識の高まりで蚊帳が再注目されている。国内生産量でトップを誇る蚊帳メーカー「タナカ」(福井市)は、デザイン重視の商品や新型コロナウイルス感染対策にもなる屋外用などをそろえる。田中源美社長(78)は「時代に合った蚊帳作りで魅力を発信したい」と話す。 

懐かしい「蚊帳」
虫の侵入を防ぐために壁や柱からつるす蚊帳は、夏の風物詩とも言える存在。同社によると、一時、需要が落ち込んでいたが、東日本大震災後に節電への関心が高まったことや、エアコンの風で体調不良を感じる人がいることから、近年見直されているという。 

幼い頃の思い出が次々と湧いてくる絵
蚊帳はいつ頃から使わなくなったのだろう。この頃はお盆過ぎにはめっきり気温が下がった。厚手の布団を掛ける頃に蚊帳をしまったのだろう。半透明の蚊帳の中は別世界だった。
今では子供たちは1室づつあてがわれ、そしてエアコン設置が一般的になった。今の子供たちに蚊帳の話しは残念ながら通じない。昔は良かったなぁ。

2020年9月22日火曜日

深夜の願掛け「七つ橋渡り」

 昨日は敬老の日、国民の4人に1人が高齢者だという。自分も高齢者の1人なのだが、不安に思うのは何時まで人の世話にならなくて生きられるかである。そして今日は彼岸の中日、この日の深夜に金沢に長く続いている行事があるということを知った。

今日の深夜0時過ぎにその行事が始まった
その行事とは、「七つ橋渡り」という行事である。
まいどさんのクイズ
七つ橋渡りは、春秋の彼岸中日の深夜、数珠を持ち新しい下着をつけ、一筆書きのように浅野川に架かる七つの橋を川上から川下へ無言で巡る 習俗で、今も幾つかの決まり事と共に伝えられている。
長患いで寝たきりになり、子供や嫁に下の世話にはなりたくないと言う 思いから、明治の頃、浅野川周辺の女性達により密かに続けられて来たという。


ある人曰く、「歳とってから下(しも)の世話にならんように、願掛けと言う形での、風習で、親の代から続いとるもんで、それに乗って続けさいてもらっとる。やっぱ、子に世話してもろがは大変やし。自分で守ってゆけるように願掛けをせんと。お彼岸の中日に願掛けするということや」

橋がある周辺の女性たちによる行事なのだが、近年は男女の区別なくこの行事に参加する人が多くなっているようである。そして、1日々々の健康寿命を伸ばすよう心がけよう!


2020年9月21日月曜日

PR不足の能登長寿大仏、日本三大大仏の高岡大仏より大きいとは!

 今から十年前の平成22年6月、町内シニアクラブがまだ福寿会と称していた頃、能登方面に研修旅行に出かけた。目的地は能登空港見学、明泉寺、中島まつり会館等であった。穴水から中島に向かう途中、峠を越えしばらくして左側の道に入って公園のような場所で降りた。そこは行ったことがない「真和園」という私設の公園だった。10分ほど園路を行くと緑色した大きな大仏が見えてきた。「エッ、こんなところにこんなどでかい大仏が!」と驚いた。そんな噂話も聞いていなかったので全く知らなかった。

そもそも真和園ってだれの所有なのか?と思い、調べてみた。で、穴水町で建設会社をされていた堀内秀雄さん(明治41年~平成21年)という方が「町民の安らぎになれば」と、長い年月と私財を投じて建立されたという。その精神が生かされ、入園料は開設当初から無料となっている。

園内に複数の蓮如上人等の像

席上の横に蓮如上人の詩

三重の塔
そしてドカンと能登長寿大仏が鎮座

大きさに圧倒された
能登長寿大仏を含む真和園は、これだけの施設を有し手入れされているにも関わらず、拝観料は無料なのだ。園内には無料の専用駐車場やトイレもある。
園内は広大 こんな極楽橋もある
能登長寿大仏の総高さは13.7メートル、総重量は32トンにも及ぶ。大仏の高さは8.4メートル。これは日本三大仏のひとつ富山県高岡市にある「高岡大仏」の高さ7.43メートルを超えてるのだ。建立は2003年。2000年代に入ってから作られた大仏で、表面にはまだ新しさが残る。で、能登長寿大仏の「長寿」の名は、建立者が百歳まで生きたことに因んでいるという。

高岡大仏座高=7.43m
能登長寿大仏座高=8.40m 約1mも大きい!

よって、日本三大大仏は奈良、鎌倉、能登長寿と入れ替わるのである。これは遅きに失した感は否めないが、ようやく穴水町は今月12日に、観光の柱として売り出している同町乙ケ崎の阿弥陀如来座像「能登長寿大仏」の案内看板を同町此木交差点付近に設置した。看板は縦7メートル、幅1・5メートルと大きめ。両面に青空の下、鎮座する大仏と日本語、ローマ字で「能登長寿大仏」、下部に「ここから車で10分、5キロ」と記されている。三重塔や極楽橋などもあり、穴水湾岸から大仏に至る1・8キロで遊歩道が整備されている。町の担当者は「大勢の人に立ち寄ってもらい、穴水に大仏があることを知ってほしい」と話した。

 

穴水町がようやく能登長寿大仏のアピールに乗り出した

2020年9月20日日曜日

4連休初日、全国各地に観光客がドッと

 昨日の朝、TVで4連休中の航空機、ホテル・旅館、JRの予約が「満員盛況」と報じていたが、実際、蓋が開いたら凄い人出で賑わったというニュースが溢れた。政府の観光支援事業「Go To トラベル」が始まる中、四連休の初日を迎えた二十三日、新型コロナウイルスの影響で客足が遠のいていた全国各地の観光地は、久々のにぎわいを見せた。

羽田空港の賑わい

京都清水坂にもドッと
金沢駅前も

東茶屋街も久しぶり
これだけ人の動きがあれば、ホテル、飲食店、その他諸々に活気が戻り、それに関わる多くの勤労者の職場が確保される。
非常に喜ばしいことなのだが、手放しで喜べないのである。コロナに感染する人も人出に比例して多くなること必定だろう。

秋田県ははっきりと、「秋田には来ないでください」とアピールしている。この言葉だが、本当に秋田県全体の意見なのか、知事の独裁で県民の意思表示としたのか定かではない。
秋田県の観光に携わる業界も含めた見解なのかどうかである。
かくいう自分は「怖いなぁ」と思っているし、できるだけ外出は控えようと用心深いのである。

2020年9月19日土曜日

2ヶ月ぶりのクリニック

 通風を発症してからもう4年ほど経過した。その薬を2ヶ月毎に出して貰っているのだが、切れそうになったので朝一番に整形外科クリニックへ行って来た。玄関に入ると、いつもの様子と違っていた。下足箱の隣に消毒液が備え付けられ、その横に受付表に記帳するようになっていた。スリッパに履き替えたら直ぐ受付担当の女性が体温測定器でおでこを照らして平温を確認して中へどうぞと案内された。

2ヶ月毎にクリニックへ
血液検査で尿酸値が7以上の場合は要注意という。5月に検査したデータでは5だった。この5が維持できるように投薬されることになる。朝晩1錠づつ欠かさず飲み続けている。医師から、「体調はどうですか」と問われたので、「異常はありません」と返答したところ、「他に都合悪いところは?」と聞かれ、「全くありません」と返答したら、だいたい何だかんだと云われるものだが、それは結構なことですねと話された。会計200円を支払って薬局に向かった。

薬局も玄関ドアすぐに消毒液が。でも検温はなかった。2ヶ月分の薬を貰って380円支払い帰宅した。8時30分に出発して帰宅が9時20分だった。ま、いつもこんなものだ。

2020年9月18日金曜日

元町会長の号泣

 竣工祝賀会で忘れられない出来事があった。公式の祝賀会を終えた後、2階和室で町内住民が祝いあったのだが、その席に平成4年に町会長に就任され、5年間務められたMさんがおられたので酒を注ぎに行った。Mさん曰く、「町会長、あんたでなければこんな立派な会館は建たなかった」とおっしゃったので、「いやいや、一番の功労者は何と言っても積み立て制度を立案決定されたあなたがおられたからですよ」と云ったら、顔をくしゃくしゃにして何と号泣されたのである。そして、「そうおっしゃってくれるのはあんただけや」と。

竣工の数ケ月前に開いた役員会において、「どうにか竣工の日を迎えられる目処がついた。そこで会館の利用は、長期間積立金の協力があったので、広く住民に開放すべきと考え、その方策として各種サークルを発足させ利用促進を図りたい」と提案した。方針が決定し直ちに会員募集活動を開始した。数あるサークルで人気が高かったのは、クラフト同好会、料理同好会、カラオケ、囲碁、生け花、グラウンドゴルフ、茶道等であった。各同好会の代表世話役は町会長が指名したのだが、10年経過した現在も代表者の方が頑張っておられる。また、会館利用開始とともに導入したのが、いつでも利用可の精神で会館の当番制を取り入れ、常駐体制としたが、2年程前から高齢化が顕著となってやむを得ず取りやめとなった。が、同好会活動はまだまだ盛んに行なわれている。

今改めて考えてみると、現在と10年前の自分の行動力を比べてみると、この年になるととてもあの頃のまねはできないなぁ・・・である。

旧集会所取り壊しで借家、それに伴う引っ越し、それに会館竣工に伴う各種届け業務が目白押しだった。


これは、会館の不動産取得税減免申請書だが、減免の作文が大変だった。しかし、幸いなことに、幸町の県税事務所に町内の住民がおられたので円滑に事務処理が進んだ。市民課の担当者、勤住協の理事長、県税事務所の係長、建築設計会社の社長、大勢の皆さんのお力を賜って建設事業を終えることができ感謝に堪えない思いを忘れてはいけない。

2020年9月17日木曜日

予定価格と競争入札

建物の詳細設計が固まったのは、平成20年が暮れようとしていた頃だった。詳細設計が決定し、予定価格の算定を建築設計会社に依頼した。平成21年3月、予定価格算定書が町会に納品された。建設工事費は4,800万円。これに対して貯金残高は2000万円+α。差し引き2,800万円。これをどのように調達するかが最大の課題となった。

市民課へ補助金交付申請の協議をすること数回、ようやく交付金額が提示された。その額は1,200万円、そして、市民課担当者曰く、「県の補助金申請はどうされますか」と問われた。県から補助金が交付されるとは全く知らなかった。そして、「市から県に申請できますよ」と云われたので、渡りに舟、「是非お願いします」ということで申請書にハンコだけ押して市にお任せした。

結局、交付金は市から1,200万円、県から500万円と決定した。
不足額=2,800万円ー1,700万円の1,100万円だった。このほか、テーブル、イス等の調度品関係費用も必用だった。
そのため、町内から寄付金を募ることにした。近隣関係者からも協力して貰うことができ、総額230万円が寄せられた。

平成21年春、建設業者5社を選定して見積もり依頼をした。その結果、予定価格より1,500万円も低い3,300万円で落札した。これには鈴木建設の熱意にほかならなかった。最高額が4,500万円、その差1,200万円も!これには町会として大助かりであった。
建築設計会社と工事管理契約を締結し、いよいよ起工式(地鎮祭)を挙行することができた。

起工式

歴代町会長も参列
平成20年8月から翌21年3月まで、鈴木建設の誠意ある仕事により荒屋会館の竣工をすることができた。

2020年9月16日水曜日

間一髪、危機を逃れる!

平成20年、町会長歴3年目、1年で辞めると公言していたが、パンドラの箱を開けてズラかることは周りが許さなかった。建物の詳細設計に入り、それと平行して市役所と補助金に関する打ち合わせを進めることになった。補助金申請協議において、地権者である石川県
勤労者住宅生活協同組合(以下、勤住協という)の同意書が必用になった。昭和37年から分譲が開始されたが、施工者は労組系である労金傘下の勤住協であり、集会所敷地を造成し町会に貸与していたのである。
勤住協が入居(4階)していたビル
ここで筋書きどおり、地権者の新築同意書を提出すれば仕事としては円滑に進む。
以前住んでいた山王団地の集会所も勤住協が地権者だった。
しかしである。地権者はいつまでも地権者であるのか?という疑問が湧いた。万一、地権者の都合で立ち退きを迫られたら・・・と懸念したのである。

意を決して、勤住協に土地譲渡のお願いをすることにした。文書を作成し、勤住協に出向いた。そうしたら奇遇、何と中学の同窓生が理事長だったのである。鉄骨造、三階建て、の集会所案を示し、土地譲渡をお願いした。
理事長曰く、「趣旨は分かった。だが、これには理事会にかけ承認が必用となる」と。
4ヶ月後、承認の旨連絡が入り、即、所有権移転登記手続きを済ませた。この時、平成21年3月だった。

事変は6月に発生した。何と、勤住協が破産!と驚愕する記事が新聞に掲載されたのである。正に危機一髪、8月から旧集会所撤去、新集会所基礎工事に入ったところだった。
9月に勤住協破産の詳細が発表された。
そういえば、所有権移転関係書類を受け取りに行った際、理事長が有償であれば500万円くらいは助かっただろうに・・・とつぶやいていたのが忘れられない。



2020年9月15日火曜日

パンドラの箱(2)

集会所改築プロジェクト検討委員会はほぼ4ヶ月に1回程度開催した。メンバーは町会役員のほか、子ども会育成部、青年部長、老人会長、民生委員、新設されたサロン代表、町会長経験者等の二十数名で構成された。
旧集会所使用状況
検討委員会で発言のあった事項は次の通りであった。
(質問事項)
1.現在位置は狭すぎる(100平米前後)。町内に下水道整備に伴い調整池として機能していない設備がある。この場所に北小公園を移設し、その跡地に移転してはどうか。そうすれば、ゆとりのある間取りが可能、駐車場も数台は可能となる。
2階は床が抜ける恐れがあり使用禁止中、台風で屋根が飛ばされたこともあった老朽化が顕著な旧集会所
2.1案について反対である。目の前が公園になるのは子どもの声が迷惑である。
(回答)
ア.理想的な提案だが、公園移転費の負担、集会所敷地の整備費、建築面積増大の費用等々、資金面に負担が大きすぎる。借入金の返済負担で、さらに何年も積み立てを継続しなければならなくなる。
イ.昭和37年から分譲開始となった当団地住民は、高齢化が進んでおり、既に十数年積み立てをしているので、これ以上改築を伸ばすことは避けなければならない。さもないと、積み立てだけして新しい集会所を見ずに亡くなる場合が増加することも考えなければならない。

これにより、現在位置で基本設計を進めることにした。

2020年9月14日月曜日

パンドラの箱

集会所改築事業は開けてはいけないパンドラの箱だった。なぜなら、通常の町会業務の他に改築関係の業務がドカーンと加わる為だった。前任者は自分がやらなくても次の町会長が・・・と逃げのスタンスを取ったのである。全世帯毎月500円の積立金は全額が定額貯金になっていた。引き継ぎ資料に郵便貯金通帳が10冊前後もあった。当時の金利は夢のような8%!10年で倍増したのだ。で、平成19年時点で1,800万円前後だった。そこでパンドラの箱を開けてみようと思い立った。建築規模を既存建物と同等として改築費用を試算したのである。

その結果、銀行から1,000万円程度の借り入れをすれば改築可能と判断した。町内の信金で相談してみたのだが、町会という組織には融資できないと断られてしまった。そういえば、隣の町会長が会館新築の際には、それぞれの役員が個人的に融資を受ける形を採ったという話しを聞いた。いざという場合はそうしようと腹をくくって改築業務を進めることにした。
第1回集会所改築プロジェクト検討委員会
そこで、改築を全住民の総意とするため、集会所改築プロジェクト検討委員会を発足させ、計画を煮詰めることにした。その委員の一人に金沢市内でも著名な建築設計会社の社長がおられた。その社長には完成まで面倒を見ていただいたのだが、パースの作成を依頼したところ、無料で成果物を頂いたのである。町会長歴2年目の平成19年秋のことだった。

2020年9月13日日曜日

あぁ、10年ひとむかし!

10年前、個人的な自分史でも特筆される出来事があった。それは、町内住民の長年に亘る悲願が達成した日である。2010年4月4日、前年8月に着工した町会集会所「荒屋会館」の竣工祝賀会が行なわれた。

竣工祝賀会町会長挨拶
地元の馳浩衆議院議員の祝辞
そして、この日の「はせ日記」は町会として永久保存すべきことが記されたのである。
この日記に会館完成までのいきさつが詰まっているのである。
祝賀会前日の荒屋会館
前年8月まで44年間町会の活動拠点として機能した集会所
総経費4,800万円、平成4年から積み立てた資金と県、市からの補助金、及び、寄付金で賄うことができた。
その記録は次回としたい。