2017年8月9日水曜日

吾が心の甲子園

台風による影響のため1日順延となった全国高校野球選手権大会が昨日から始まった。
今年は第99回だという。毎年この時季、甲子園で繰り広げられる熱戦をテレビ観戦すると、60年ほど前の出来事である「吾が心の甲子園」が蘇ってくる。


昭和35年(1960年)第42回大会、今から57年前に遡る。
福井、石川で北陸代表校を決めるため、福井球場で開催された準決勝戦は武生を6:0で破り決勝戦は敦賀と対戦することになった。その時点から記さねばならない。
3回裏、敦賀に3点を奪われ、6回まで吾が母校は無得点に抑えられていた。が、7回表に猛攻撃同点とし、8,9回と各1点を上げ5:3で逆転勝利し北陸代表を制した。

狂気乱舞の応援団
 金沢へ帰る列車の中では、心は既に甲子園に飛んでいた。金沢駅に到着し駅前広場に向かうと大群衆が待ち構えて万歳を叫んだ。「地元金沢市工」が甲子園という快挙を市民こぞって祝福してくれた。
私は選手ではなかったが、8人の応援リーダーの一人であった。駅広から選手、応援リーダー、ブラスバンドのメンバーがトラック2台に分乗して市中パレードとなった。トラック荷台で応援歌を歌い応援モーションを続けた。
駅前から武蔵、香林坊、片町、広小路とゆっくり通過、沿道は群衆で埋め尽くされていた。

翌日の新聞に出場校が紹介された。


 それからという日は、甲子園に向かう前日まで、グラウンドに整列して早稲田大学の先輩から応援リーダーの立居振る舞いと発声練習の猛特訓を受けた。3日目には声がかすれてしまった。
試合前日、大阪心斎橋近くの旅館に選手団と一緒に宿泊した。

試合当日は今にも雨が降りそうな曇天。前の試合の青森高校の応援をしたところ、青森高校は勝利を挙げ感謝された。
対戦相手は京都平安。後にプロの道に進んだ大崎投手を擁する古豪である。甲子園に入って試合開始前から応援リーダー8人は客席最前列の前にあるフェンスの基礎コンクリートの上に乗って応援団を指揮した。

試合開始!
地元紙掲載
試合経過はスポーツ紙の論評で見てみよう。

 最少得点差1:0で試合終了。応援リーダーはフィールドの様子が分からない。ただひたすらに応援団と向き合わなければならなかったのである。
翌日の朝日新聞朝刊スポーツ欄を見て小躍りした。何と吾が応援リーダーがずらりと並んで応援の指揮をしている写真がでかでかと掲載されたのだ。それも自分が最も大きく写っていたのである。

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後日、校内新聞で甲子園出場特集号が発行された。


西永先生の開会式感激の譜は何度も読み返すほどの名作である。

この大会の3か月前に北信越高校野球選手権大会が長野球場で開催された。そこでは順調に勝ち進み決勝戦へと進んだ。が惜敗したが準優勝ということで帰りの急行白山の列車内は喜びに沸き返り、ブラスバンドと応援リーダーが選手の前で応援歌を合唱し祝福した。

長野球場で 中村トラ右隣に先月急逝した別所君が
「松」のトランペットが響き渡った
誰の目にも触れなかった資料をかき集め、本ブログで公開することにより野球部の皆さん、応援リーダーの皆さん、応援団の皆さんにも当時を思い出していただければ幸甚である。
12年前、山代温泉ホテル百万石で開催した甲子園出場50周年記念祝賀会では、まだブログをやっていなかったのが残念に思う。



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