2017年8月16日水曜日

限りなく遠い記憶

人間の最も古い記憶は何歳くらいのものなのだろうか。
だけど、記憶に残ることといえば、余程怖い目にあった時、悲しい出来事があった場合なのだろう。

昨日は終戦の日であった。昭和20年8月15日から起算して72年経ったのだが、当時私は2歳半くらいだった。住んでいた場所は親父が海軍にいたので舞鶴の民家の借家住まいをしていた。3つ上の姉と父母の4人暮らしであった。
2才半でそんなことが分かる筈はないが、これは小学生になったころ、囲炉裏を囲んで親父から聞いた話で知った。

記憶は「空襲警報発令」と何度も繰り返し拡声器から流れる放送であった。「くうしゅうけいほうはつれい」という言葉ははっきりと記憶している。それと「くうしゅうけいほうかいじょ」という言葉も。
母は私をおんぶし姉の手を引いて防空壕に急いだ。防空壕の中は水たまりがあって、暗くてきたないイメージが残っている。

入口のイメージだが、私の記憶では入口の形はぐしゃぐしゃ
中はこんなイメージ
かなり長い時間だったと思うが、ようやく敵機が去り防空壕の外に出た。まだ煙を上げている焼夷弾が道路に多く転がっていた。舞鶴の空襲は数回に及んだとされるが、「空襲警報発令」と放送が流れ避難した記憶は2回である。

それから何か月後なのかはっきりわからないが、汽車に乗っている記憶がある。妙に覚えているのが、何本ものつり革が揺れる様子が面白かったのか、そのつり皮の記憶と汽車のつなぎ目から見える流れる風景とどこかの駅に停車している記憶が残っている。
この記憶は母親と一緒に舞鶴から能登の実家に引き上げる途中の様子だろうと聞いた。


この時、今の時代が来ることを誰が想像できただろう
焼け野原にバラック、それでも子供たちは元気にラジオ体操だ
終戦で職を失った親父は能登の実家に帰って、奥の座敷1間で暮らすことにした。ここでの記憶は、怖いイメージの祖母、馬屋にあった暗い便所、母と入浴中に突然風呂桶が分解して大騒ぎした記憶がある。
親父はお袋の弟を連れて行商を始めた。能登でブリ等を仕入れ、武生の料亭に売りさばいた。その売り上げで釘を買い飯田で売りさばいた。北前船商法とまではいかないが、これがかなり儲かったらしい。列車の無賃乗車もあったようだ。魚にしろ、釘にしろ中間マージンがないので買う人間には安く手に入るメリットがあったのだろう。売り買いの対象物や販売場所の選定を考えた親父の手腕に拍手喝采したい。

親父が濃紺の海軍のコートを着て家を出るとき、「行ってらっしゃい」と見送った記憶が残っている。
そんな生活を2年続け、親父は県道に接した農地を購入して家を建てた。2年間で新築資金を工面したことになる。家の基礎は石なので、所定の位置に据えて櫓をたてて綱を引き石を突き固めた。「よいとまけ」のイメージで石場がちというが、年寄りが派手な衣装を纏い、唄い踊りながら綱引きの音頭を取る。これはやがて5歳になる頃の記憶である。

昭和44年、広島に転勤したのだが、アパートの隣に何とまだ防空壕が残っていた。コンクリートの壁に穴をあけ奥行きのあまりないコンパクトなものであった。
だがそこはホームレスの住み家になっていて気色が悪かった。

終戦記念日にあたり記憶の限界を辿った。

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