昭和37年も夏を迎えた。軌道工事が着工されて暫くの間は市ノ瀬から宇出津まで毎日国鉄バスで通勤した。車窓からは遠洋漁業から帰港した漁師たちが、2回目の出漁に備える網づくろいに忙殺されている様子が見られた。小木港を出港すると北海道根室を拠点としたサケマス漁であるが、200海里すれすれの漁場のため、ソ連に拿捕される小木港所属の漁船が相次いだ。だが、一航海の水揚げ利益は半端ではなかった。中学を卒業して漁師となった人たちの一航海の報酬は50万円の高額であった。年間100万円の高収入となる。若い漁師たちが競って家を新築した。
一方、私の初任給といえば1万円ジャスト。年収はせいぜい20万円弱であった。この格差がどれほどなのか身に浸みて感じたことがあった。
小木町にしろ、宇出津、飯田とも漁師の収入を当て込んだバーやキャバレーが所狭しと林立していたのだ。ある日、先輩たちに連れられてキャバレーに行った。楽団生演奏付の田舎とは思えない豪奢な内装のキャバレーにホステスが10人以上接客していた。ところがである。かなりの時間が経過してもホステスが誰一人として来ない。キャーキャー騒いでいる所を観察すると、二十歳前後の若いアンちゃんが札びらをかざしてそのうちばらまき始めたではないか。これでは我々の所に来るホステスがあるわけがない。とても太刀打ちできないので早々に退散して寿司屋で苦々しい酒を飲んだ。出漁では、そうしたホステスの集団がしばし別れのテープを片手に、「早く帰ってきてねー」と船影が霞むまで黄色い声は途絶えることがなかった。叶わぬ想いではあるが、そうした光景をもう一度見てみたい。
当時の国鉄職員の給料日は毎月8日と25日の2回支給された。
8日の給料は基本給の4割、25日の給料は残りの6割と超勤手当、旅費等の諸手当、それから所得税等が控除された。寮の食費も後期給料から控除された。エンゲル係数が大きく、収入に対する食費の支出は5割に達していた。
6月と12月に300円づつ年2回昇給した。臨時雇用員の自動車運転手の給料がはるかに高かったのでうらやましく思ったものである。
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