私の小学5年生の時に着工、そして1回目の開通式が高校1年生だった。中学生の3年間と高校1年の開通前まで、柳田村の実家から金沢までの所要時間は7時間、とても日帰りはできない時代を過ごした。柳田から北鉄バスで30分、待ち合わせ40分、宇出津から国鉄バスで穴水まで2時間、穴水駅で輪島発金沢行きの列車待ち合わせが40分、金沢まで3時間。珠洲方面の人たちはさらに2時間も必要であった。それ故に、奥能登住民にとっては鉄道開通が悲願であり1日も早い開通が熱望された。
金沢から列車に乗り、やがて穴水に到着する際には一つ手前の能登鹿島を過ぎる前に、乗客は先を競ってデッキに向かって並んで到着を待った。穴水駅に到着すると全力疾走して飯田行き国鉄バスに乗車を急いだ。先を越されると2時間以上も立っていなければならないからであった。鵜川まで開通したことでそんな苦労がなくなった。
そして昭和35年4月17日、鵜川・宇出津間が開通した。
S35.4.17鵜川駅で十河信二国鉄総裁がテープカットするを眺める益谷衆院議員 (北國新聞社刊 昭和花あり嵐あり より) |
その秋、就職試験受験で国鉄を選んだ理由が、「俺もそんな仕事をして人に喜ばれたい」という思いがあったからである。
処女列車を歓声をあげて迎える宇出津町民 |
S39.9.21松波駅で万感の思いでテープカットする益谷秀次衆院議長 (北國新聞社刊 昭和花あり嵐あり より) |
能登線建設功労を顕彰し遠島山公園に建立された益谷先生像 銘板は吉田茂氏の揮毫により「益谷秀次君」と記されている |
私が能登線建設に関与できたのは益谷先生のお蔭かも知れない。
0 件のコメント:
コメントを投稿