2013年3月25日月曜日

能登線余談その3(最終章)

平成16年、この年、のと鉄道穴水・蛸島間が年度末を以って営業を停止することが決定された。それでも存続を求める地元の声は止むことがなかった。
しかし、存続を求め関係各機関へ奥能登から訪れる陳情団の中に、マイカーに乗って来る人が珍しくなかった。マイカーの普及と道路網の整備が進み、鉄道利用よりも車の方がはるかに便利になったことを如実に現している。のと線宇出津・穴水が1時間、穴水・金沢2時間、急行でも2時間半の鉄道に対してマイカーで2時間弱では軍配はどちらかが明白。
だが、高齢者、通学者は埒外にされてしまう。しかし、そのための経営を民営会社に負わせることもできない。
昭和62年、国鉄は分割民営化された。それまで採算性を棚上げして全国隅々まで鉄道事業を続けてきた。その結果、累積債務が27兆円。その金利が毎年3兆円。関空建設費が3兆円という。毎年関空を作り続けていかなければならない天文学的といえる借金を抱えていた。

さて、話を元に戻そう。
能登線が廃止決定されて、その前に乗り納めに行こうと思い立った。女房もつきあうと云ってくれた。ある日、その話を高校のクラスメイトにしたところ、ワシも付き合うと言ってくれた。もう一人のクラスメイトも女房も一緒につきあうと。結局、3組夫婦6人で「さらば能登線、見納め会」と銘うって5月15日乗り納めを行うため早朝金沢を出発した。このメンバーは以前から2度も海外旅行をしている仲間である。私には過ぎた仲間である。私個人のために付き合ってくれるという仲間を、これからも生涯の友として大切にしていきたいと思っている。
途中、「夢一輪館」で手打ちそばを
思い出の詰まった宇出津駅にて
乗り納めの列車(1両は列車と云わないか)が到着
列車の最前部に立ち、前もって工事記録写真を整理したものをファイルに入れ、通り過ぎる景色とそれを見比べながら終点蛸島までの1時間を楽しく、懐かしく、これで最後となる列車の旅を楽しんだ。
機関車を運転したこともあった田ノ浦海岸付近・当日撮影
同上箇所の建設工事状況
蛸島に到着して珠洲焼資料館、能登ハーブ園を周り、かつて数回訪れたことのある九十九湾断崖上に建てられた眺望の優れたホテル「百楽荘」に1泊した。60代の女将さんに昭和36年頃の話をしたところ非常に喜んでもらえた。当時、20代の姉妹がおられレコードを借りに行ったこともあった。
その一人が女将さんであった。能登線存続の活動を精力的に行っているという話を伺った。
エレベーターで九十九湾上の四阿造りの宴会場へ
翌日、真脇遺跡を経由して能登空港に寄り道した。
もう鉄道の時代は終わったと身に染みて感じた能登空港で
能登線が開通してからでも東京へ行く場合は8時間を要した。それがわずか1時間。このギャップは埋めようがない。金沢から小松空港経由しても2時間半はかかる。
能登は便利になったと痛感する。
能登線は消滅した。しかし、私の青春時代に築いた能登線は奥能登の発展に欠くべからずの鉄道であったことは紛れもない事実であろう。

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