2013年3月26日火曜日

龍宮城から帰った浦島太郎

昭和38年10月15日、工事区長から「岐阜工事局土木課勤務を命ずる。土木第六係勤務に指定する」と記載された辞令が渡された。赴任は一週間以内に行うことが慣例となっていた。
たまたま、東京に住んでいた姉が結婚することになり、神田神宮で挙式する日がその一週間以内に合致していた。故に能登から親戚縁者10人が上京するのに合わせて同行することにした。
私の汽車賃は赴任乗車証発行により不要であった。東京で2泊して岐阜に向かった。随分得をしたように思った。
ところが1週間後、経理課に呼び出され、「君は7月に寒冷地手当が支給されている。冬期前なので全額戻入しなければならない」と。
実はその寒冷地手当で何と扇風機を購入していたのだ。そんなことで数千円の赴任手当は消えてなくなった。

独身寮は木造2階建て、34年から新規採用者が増え始め、35,36,37年採用者が特に多かったため、60数名が入寮してすし詰状態となっていた。客間や卓球室にまで寮生が入り、私は10畳間3人部屋に入った。
寮でのひととき
同部屋の一人は七尾出身の2年先輩、もう一人は長野佐久市出身の1年後輩であった。
土木課第6係の業務は中央本線高蔵寺・古虎渓間の複線化工事を担当していた。係長、主席、課員は能登線現場から帰ってきた人が多かった。そこは軌道工事とは無縁の世界。愛岐トンネルという複線断面の工事管理と発注業務を主としていた。私は再び右も左もわからない仕事を担当することになった。
係の旅行会・浜名湖舘山寺にて

2年2か月間の能登線建設に従事した者にとって、龍宮城から帰ってきた浦島太郎そのものの状態になった。暫くの間は1年後輩に仕事の方法を教わりながら業務を行った。

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