2013年3月28日木曜日

国内最先端を誇るトンネル施工技術集団

我が国の鉄道の歴史は明治5年、新橋・横浜間の開通から始まった。政府は西欧列強並の国力を築くため、全国の鉄道網構築に注力した。明治後半といえば新橋・横浜間が開通してわずか30年前後だが、極めて短期間に日本列島に現在の骨格である主要幹線が開通した。能登線61kmが開通するのに10年余を要した。これと比べれば、注力されたそのエネルギーの凄まじさが実感できる。
日本列島は山岳地帯が多い。それ故に急峻な地形に鉄道を敷設するにはトンネルや橋りょうが多くなる。そうしたことから我が国の土木技術開発は国鉄が担ってきた。
昭和37年3月、当時としては我が国最長の北陸トンネルが完成した。その計画設計と工事管理を岐阜工事局が担った。岐阜工事局では紀勢線、神岡線、北陸本線親不知トンネルなどを請負ではなく直轄方式を導入し、施工技術発展向上の研究開発に努力し貢献した。
昭和39年4月、鉄道建設公団発足により青函トンネル工事が着手された。この技術陣は岐阜工事局直轄部隊が主力となった。
そんな職場風土が漲った岐阜工事局でも、愛岐トンネルは難工事の一つであった。工事区長はトンネル一筋の筋金入りであった。
その区長から地滑り観測システムの説明があった。山の頂上部の亀裂の動態を3基の計測器により測定しており、一定以上の変動がある場合、列車信号機に連動させ列車停止の赤信号を現示させると同時に、工事区事務所に警報ブザーが鳴動するというものであった。
私の業務は、変動記録計器の記録紙交換とインク補充、亀裂の目視確認であった。説明を受け現地に案内してもらうことになった。
曲がりくねった急な崖路を登ること約30分、息を切らせてようやく頂上に到達した。そこに地割れした部分を跨いで3本のピアノ線が張られていた。用紙の交換、インク補充の方法を教えられ下山した。
精神的に緊張する任務に責任感と不安感が同居した。
定光寺工事区で
くつろぎタイム・トンネル工事担当の先輩、後輩と

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