2013年3月17日日曜日

かくして能登線宇出津・松波が開通

昭和38年10月1日(火)、宇出津駅において開通式が行われ、自民党副総裁益谷秀次氏、中西陽一県知事ほか地元関係者が見守る中、国鉄総裁代理藤井松太郎技師長がテープカットのセレモニーが行われ、祝賀列車が松波駅に向かって出発した。
祝賀列車が到着する松波駅では全町民が熱狂的に祝賀列車を迎え歓喜に沸いた。

その前日、否、当日未明にかけて知られざる悪戦苦闘が繰り広げられたのである。
9月30日、現場職員は早朝から開業準備に忙殺された。
後片付けに追われる小木駅構内
開業祝賀の飾りつけ・小木駅
能登白丸駅にも日の丸や飾りつけ
請負業者が全駅の清掃、飾りつけが終わった確認作業を完了したのは黄昏となる時刻であった。
一旦寮に帰って夕食を取っていたとき、乗降場関係を担当していた3年先輩の技術掛が、「小木トンネルの側壁にクラックがあるので、剥離しないか気にかかる。急結剤とセメントとバケツを用意したが、側壁補修位置が高くて届かないと思う。ディゼル機関車を持っていけばアーチクラウンまで手が届く。どうだろう、機関車も運転できるし一緒に行ってくれないか。」と頼まれた。これは上司の命令ではない。技術屋としてこのまま保守局に引き継ぐのはプライドが許さない、という考えに感動さえ覚え「義を見てせざるは勇なきなりだ、付き合うよ。」と返答した。
松波構内に留置してあった機関車に乗り込み、再び無資格無免許でディゼル機関車のエンジンを始動させた。闇が広がる線路を一路6km先の小木トンネル現場に急いだ。
現場に到着し、機関車の屋根に上って点検ハンマーでクラック部分を叩いて剥離するか否か確認作業を開始した。
すると鈍い音がしたので手でその部分を触ってみると、明らかに浮いた状態となっていることが分かった。その部分を二人がかりで抜き出して急結剤とセメントを混合して穴の開いた部分とコンクリート塊にそれを塗り穴に埋め戻した。
そのまま手で押さえること20,30分。もういいだろと手を放すとじわじわ出てくるではないか。しばらくしてどうにか収まったので、次の補修部分を探し同様の作業を繰り返した。作業は開業日10月1日午前3時を回っていた。全ての補修箇所を点検し補修をするのは時間的にここまでと判断し、後ろ髪を引かれる思いで現場を後にした。午前4時、松波構内に到着し構内終点方から土工線に出ようとしたとき、既に営業線扱いとなって脱線機が正位にセットされていた。これでは大変なことになるので脱線機を反位にして一刻も早く構外に出なければならない。しかし、その解錠は駅長に頼むしかない。やむを得ず駅舎傍の宿舎の門を叩き、目を擦りながら出てきた駅長が、「何、まだそんな作業をしていた?そんな話は聞いていない。これは大問題だ!」と怒りをあらわにした。経緯を話しようやく退避が遅れた理由を理解してもらい脱線機を反位に操作してもらうことができた。
考えてみれば、既に営業線となっていた線路を無資格で機関車を運転したことになる。50年を経た今だからオープンにできる話ではある。

寮に帰って何気なく手を見ると手のひら全体が皺だらけとなって、指にクギに刺されたような穴が数か所あることに気付いた。原因は強アルカリ成分の急結剤とセメントによるものであった。先輩はもっと症状が酷かった。祝賀会は疲労困憊のため参加を見合わせた。翌日の新聞で熱望した地元住民の歓喜する模様が大きく報道された。「俺はやったんだ!」と感激しながらしばらく新聞にくぎ付けとなった。
その日、工事区長から「事前通知書」が手交された。「10月15日付、岐阜工事局土木課勤務を命ずる」と。

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