2017年6月27日火曜日

北陸線終着駅上野のあれこれ

急行能登や白山が活躍した時代の話である。
金沢駅を午後10時前後に出発した夜行列車は、信越線を経由して早朝6時に上野駅に到着した。上野は全ての東京以北の始発駅であり終着駅であった。
そのころの東京駅は、大阪・九州方面の始発・終着駅。

中学・高校の修学旅行は関西九州方面だったので、東京は昭和36年に就職して三島の中央鉄道学園三島分教所へ6週間の研修に行った際に、初めて訪れた。本社見学のほか、浅草、皇居等を見物するため2,3度訪れた。

そして能登線建設のため2年半ほど能登勤務をして、昭和38年10月、岐阜工事局本局に転勤の途中、姉の結婚式のため家族全員と上京したのが2度目であった。
たまたま昭和38年の上野駅ホームで列車到着の写真を目にした。


当時の服装や手に持った旅行バッグ、風呂敷づつみ、小荷物運搬車など、とても懐かしい情景を捉えている。
この上野駅は昭和7年に完成したという。


現在の上野駅
この駅にそっくりな駅が中国にあるのをご存じだろうか。
その駅は大連駅である。
中国・大連駅
大連駅の竣工は昭和12年で、ほぼ当時の姿のまま現在に至っているという。設計を担当したのは南満州鉄道株式会社の太田宗太郎。2階が出発、1階が到着というようにフロアを分けた構造になっているところは空港のようであるという人もある。

上野駅の駅舎は大連駅の5年前に完成しているので、大連の方が上野を参考にしたと考えられる。上野駅の設計者は鉄道技師であった酒見佐市という人。上野駅の外壁には腰部分に稲田産花崗石、壁の部分には多胡石や小松石の砕石を混ぜたモルタルが使われている。日本では、大正12年に発生した関東大震災以降、耐震基準が見直され、駅舎の建物にも十分な強度が求められたとされる。
大連に地震が多いという話は聞いたことがないが、まだ大震災の災禍の記憶が生々しく残っていた時代に日本の建築家が第一に考えたのは、やはり安全性だと思われる。大連駅の設計思想が、装飾性を排除した安定感のある凸型の直方体に落ち着いたのも、時代の流れだったのかもしれませんね。


それにしても、現在も二駅とも第一線でそれぞれの国で、十二分に機能を発揮していることは愉快に思うのである。

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