2017年6月22日木曜日

心に引かれ尊敬できた上司、怨念今も冷めぬ上司

46年間もサラリーマンをやっておれば、いろんな上司や同僚、部下との出会いがあった。
ここでは数知れない上司との出会いについて記してみよう。
豊富な経験と部下の能力を見極め、仕事の方法、仕事の量、必要となるその期間について的確な指示を行うのが上司の役目である。

特に記憶に残る上司の一人に、多治見工事区勤務時代の上司である助役であった。
彼は海軍兵学校の最終卒業年次組で、頭脳明晰、指導力、人とのコミュニケーション能力も抜群であった。
理路整然としていて納得できる指導、第三者と仕事上の利害関係が生ずれば率先してホローしてくれた。独身寮で寝食を共にしてもセンスのいい好感の持てる人物であった。
だが、能登線建設の鵜飼工事区で短期間一緒だった区長が、中央本線中津川工事区長に赴任すると同時に私をスカウトしたため、5カ月という短期間で別れを余儀なくされてしまった。決してスカウトされてうれしく思わなかったのである。
その助役とは上司と部下になる関係はこれ以降なかったのである。

その9年後、広島県大野工事区勤務で上司だった人はやはり助役であった。ちなみに私は主任という立場であった。
彼は旧制岐阜中学卒。在学中に学制改革があり、高校3年生として残ることもできたが卒業の道を選び国鉄に就職した。技術畑に飛び込み優秀な技術者になっていた。
国鉄技術陣で主にトンネル畑を歩み、大野工事区赴任の前は六甲トンネルの難工事を担当した助役であった。
確固たる信念の持ち主で、断層破砕帯に遭遇し掘削面崩壊となっても的確な指示で請負者を指導した。オイルショックで業務量が爆発的に増えたが、この人と仕事をしている時が楽しかった。
この後長野県に転勤され、塩尻・諏訪間の塩嶺トンネルの難工事を担当された。その2年後、国鉄最高褒賞である功労賞を受賞された。だが、受賞後体調を崩され現職のまま亡くなられた。

もう一人尊敬する上司がその大野工事区におられたのである。役職は現場機関トップである区長。
時季は昭和49年の年末であった。現場は50年3月岡山・博多間開業に向けて列車の試運転が行われており、工事は列車運転がない夜間作業で実施されていた。夜明け前までの深夜工事監督業務は体が冷え切って震えながらの仕事であった。夜明けに仕事が終わり事務所に帰るのだが、事務所のストーブ全てに区長自ら火を入れて職員を迎えてくれた。
信頼関係も厚かった。

広島の仕事が終わり岐阜市へ転勤したのだが、1年後に豊橋工事区に転勤命令が出た。職名は助役。仕事は新幹線の保守基地増強工事であった。
保守基地工事の一つに分岐器組み立て台新設工事というのがあった。
工事用資材は材料置き場から在来線で積み込み、新幹線を亘って現場まで運搬する業務があった。トロリー(トロッコ)運転手続きは在来線保線指令や新幹線指令の許可を取らなけらばならない。これが煩雑で中々許可が出ない。どうしようか悩んでいたところ、新幹線豊橋駐在助役から「全部私に任せなさい」と思わぬ展開になった。
その助役は私より10年ほど先輩の高校の同窓生であった。この人も心から尊敬した上司である。

一方、今でも怨念が晴れない上司もいる。端的に人間性を表現するとすれば、「出世はゴマすりである」ことを実践して国鉄関連会社の部長にまで上り詰めた人である。年休は全て上司との接待ゴルフにあてたことを自慢していた。飲みに行くとあれがどうの、これがどうのと因縁付けて延々と語る。
上司に対する態度が良くないとケチを付けて説教するのである。「俺の顔をもっと立てろ」という要求なのだ。あまりにも不愉快なので「バカバカしい話は不愉快だ。帰る」と座を蹴ったこともあった。要するに自分に対してもっとゴマをすらんかい!ということなのだ。私は根からそんなことは大嫌いなので、私が退職するまで嫌がらせは続いた。今もその怨念は晴れない。

清算事業団が廃止されることから、国鉄を55歳で退職し県に再就職した。人事課長の面接を受け採用されたが、純粋な県職員ではなく県の出資会社で社団法人の職員となった。
その社団法人は県職員の出向者で構成されていた。
その出向者が私の給与等の処遇を見て不満を抱いたらしい。何でそんなに給料が高い?こんな思いを持つ職員はやはり「いやがらせ」をするものである。
現場管理で外出中でも昼食時には必ず帰れ!と指示を出した。大聖寺や小松へ出張していてもそうしろという。これは私という人間を頭から信用せず、単純な嫌がらせなのである。
これには耐え忍ぶしか方法はなかったのである。失業すれば即、大学と高校の娘の経費捻出に支障が出るのだ。この人間も嫌な上司なのかも知れない。


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