2018年6月26日火曜日

百姓の持ちたる国

先週(23日)に町内老人会の旅行で井波の瑞泉寺を訪れた。瑞泉寺には初めて行ったのだが、百姓の持ちたる国の拠点であったということは、加賀の歴史を研究している法光寺町の吉村さんという方から聞いたことがあった。そんなことで、一度は行ってみたいなと思っていた場所なのである。
実際にお寺に足を踏み入れると、想像していた以上に壮大な規模なので驚いた。
本堂に入ると今までに見たこともない大広間、欄間の彫刻、格天井等々に固唾を飲んで見入った。だが、写真撮影は禁止である。ところがネットで探すと数枚あった。
吾々が訪れた時はイスが用意されたいた
ご本尊を祀る仏壇正面の写真は貴重
観光客が工事中の本堂を写した
一向一揆とは、戦国時代に浄土真宗本願寺教団(一向宗)の信徒たちが起こした、権力に対する抵抗運動で蓮如が本願寺教団を大きくした。
1474年 一揆衆が富樫政親と組み加賀へ侵入、蓮台寺城を落とし富樫幸千代を討つ。
1488年 富樫政親が一向一揆に敗れ、加賀が一向一揆が支配する国となる。 
これより100年間、加賀は「百姓の持ちたる国」となるのである。
1580年  信長軍侵攻により尾山御坊落城。鳥越・二曲城落城
1581年 瑞泉寺は佐々成政が攻め寄せ炎上消失
その17年後、関ケ原の合戦前になるが、広く寄進を募り再建された。


この地図でもわかるように、瑞泉寺は越中の国にあるといえども、実質は加賀の国の影響下にあった。

この地図は現在の瑞泉寺の平面図であるが、佐々成政の侵攻により焼失した瑞泉寺の位置とは異なっている。焼失して12年後に再建され、明治中期にも町内の類焼により焼失したという。
民百姓の寄進で明治時代中期に再建された

建築構造上、この部分を木鼻と称するが、それに彫刻を施すのは極めて稀だという。
井波の街並みは昭和時代に戻った雰囲気である。瑞泉寺が焼失するたびに、職人が育ったのだろう。
昭和時代にタイムスリップ
吾が町内のシニアクラブが粋な旅行企画をしてくれたことに感謝しよう!

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