2020年10月16日金曜日

北前船の遺したもの

先週、老人会の旅行会で富山市東岩瀬の北前船船問屋の雰囲気が漂う町並みを見てきたのだが、昨日の新聞に「北前船文化に浸る 日本遺産認定、白山市美川で記念事業」というタイトルの記事が掲載された。 

以下、引用
白山市美川地域で13日、日本遺産「北前船寄港地・船主集落」の追加認定を記念した観光交流事業が始まった。各地で街歩きツアーや企画展が催され、訪れた人が祝賀ムードの中、北前船の栄華が伝わる地域の文化や歴史の魅力に浸った。
観光ボランティアガイド「美川おかえりの会」のツアーには15人が参加し、北前船船頭の旧家や藤塚神社などを約3時間かけて巡った。
江戸時代の豪商・紺屋三郎兵衛寄進の大神輿
美川浜町の同神社御旅所では、江戸時代の豪商・紺屋三郎兵衛が同神社に寄進した市文化財の大神輿(みこし)が公開された。参加者はガイドの案内で保管庫に入った台車(だいぐるま)も見学し、美川仏壇の粋を結集した豪華絢爛(けんらん)な装飾に見入った。 

美川には何度か行ったことがあるが、船問屋の町並みはなかったように思う。
大坂から瀬戸内海を経て下関から山陰、三国港、橋立、美川、宮越(金石)、志賀、輪島、岩瀬、佐渡、酒田、秋田、松前、函館と冬場以外には何百艘の北前船が行き交ったことだろう。各々の港に停泊し、仕入れてきた品々を売りながら、当地の産物を買い入れて次の港で売りさばく、そんなことで、大阪~函館間の一航海で純利益が3億円だったという。寄港地も大いに賑わい、大きな利益をもたらしただろう。

大坂と北海道を結ぶ航路は何故日本海なのか?その答えは東側は海流や風が、船に非常に危険な状態を及ぼすのだという。

橋立は今も豪商の住んだ家々が連なっている。ここへも老人会で行ったことがある。1000石船といえども板子一枚下は地獄なのだが、桁外れの商売には何のブレーキにもならなかったのだろう。今時、このような商売はあり得ない。

銭屋五兵衛も巨大な財を成したが、高田屋嘉兵衛という人物はその2枚も3枚も上をいく。
淡路島出身、極貧の環境で育ったが、船乗りになって大坂から江戸の航路で一旗揚げ、北前船の船頭になった。やがて、寒村だった函館の開発に乗り出して本店を設けた。北海道東部の航路を開発してアイヌと交易を始め、本州各地と交易したという。
高田屋嘉兵衛の銅像
22年前、高田屋嘉兵衛が開発したという函館に魅せられて北海道を観光した。ロシアに拉致され帰還困難の中、ロシア語を勉強し捕虜交換の交渉に成功、ついに1年余で帰還を果たしたという。礼文島には銭屋五兵衛の活躍を記した記念標がある。北前船は凄いのだ。

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