2017年12月2日土曜日

金沢にあった国内ナンバー2の製糸工場

私は平成10年に勤続38年、かつ、単身赴任生活12年の職場を退職し、金沢市内の職場にトラバーユした。
登庁は自宅前バス停から金劇前で下車して犀川河川敷の芝生を踏んで歩き、桜橋たもとで道路に上がり庁舎に行った。
帰宅は往路とは全く別の道を歩んだ。幸町から竪町商店街、香林坊の横断歩道を渡り109の地下に入りビルを出ると鞍月用水と併行する道を歩いた。この界隈の佇まいは私のお気に入りである。400mほど歩くと中央小学校前に至る。

中央小学校と鞍月用水
実はこの小学校の場所に、明治初期に金沢製糸場という富岡製糸場に次ぐ大規模な工場ががあったことを最近知った。
その歴史を辿ると
明治維新で武士が職を失うと金沢の経済は急速に衰えた。旧金沢藩(明治2年)の版籍奉還で加賀藩から改称したのだが、士族長谷川準也はそうした金沢で殖産興業を志し、弟の大塚志良とともに社員(出資者)を募り、金沢製糸会社を設立した。金沢製糸会社の資本金3万円のうち、2万円は内務省から、500円は石川県から給付された士族授産資金であったという。この資金提供は薩摩藩出身の石川県令内田政風が、同じく薩摩藩出身である大久保利通の主導で設立された内務省に働きかけたことにより実現したと考えられている 。

工場の開設にあたり、金沢の大工津田吉之介が富岡製糸場に派遣され、製糸機械の製作法を研究するとともに、女工が送られ製糸機械の操作法を習得した。工場の建設には、津田吉之助のほか、鍛冶職人の太田篤敬らがあたり、明治7年3年現在地の敷地に開設された。

動力は敷地横を流れる鞍月用水の水を取り入れ、「径九尺」の水車を回し得られていた。半木製の折衷式繰糸機が100台、女工200余人を擁し、富岡製糸場に次ぐ規模であったという


壮大な工場であった
富岡製糸場を彷彿させる
このような大規模製糸工場が、たったの5年で閉鎖したという。原因は「武士の商法」にあった。

生糸の知識に乏しく、経営能力に欠けていたことから、全国的な好況下でも損失を重ねた。明治8年、ニューヨーク駐在の副領事は、米国絹業協会に対し日本産生糸の実物見本を送り、品質を問い合わせているが、その回答の中で、金沢製糸場の生糸は、製糸の性質は上、綺麗で節がなく繊度も揃っているものの、細すぎてアメリカ市場には向かないとの評価がされている。

金沢製糸会社は、明治12年の生糸価格の下落を契機に解散に追い込まれた。金沢製糸場は、同年、官貸金を得て操業を続けたが振興せず、明治18年に石川県の直轄となり、明治21年閉鎖された。一方、明治10年代後半から繭の生産量と品質が高まり、女工の製糸の技術力も向上した。また石川県下で養蚕業や絹織物業が発展するなど、石川県での産業革命の基礎となった。 

武士の商法について面白い話を聞いたことがある。駿河静岡市も徳川直轄の城下町として栄えた。そこも金沢に劣らない殿様商法なのだという。ある人が長靴を買いに行ったところサイズの合う長靴がなかったので取り寄せてほしいと店主に頼んだところ、「ここは取り寄せという面倒なことはできない。よそへ行ってくれ」と言われた・・・と。

金沢の商売人と気風が共通していると思う。そんなことから、今の金沢の商人は越中商人の足元にも及ばない。

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