2017年3月23日木曜日

お茶の水博士になりたかった少年

私の小学生時代は昭和20年代後半であった。村は戦後復興需要の木材や炭の生産で活気づいていた。親父は海軍の職業軍人だったが、敗戦により舞鶴から失意のうちに帰郷した。それでも生活のために何かをしなければと考えた結果、村の山林資源に着目して、必ず木材需要が活況になると先を読み、木材仲買業を始めていた。新湊の業者との取引で、かなりの利益を上げたようで、土地を買い、家を建て、5人の子どもを育てていた。

そんな中、村にあった唯一の映画館兼劇場に「どさまわり」の劇団が来るときは、宣伝のためチンドン屋が在所を巡った。一人で鉦・太鼓をリズミカル且つ賑やかに鳴らすのが面白くて、ズーッとついて回った。チンドン屋の後ろで奏でながらついて行く、哀調を帯びたクラリネットの音色がチンドンの音に何故か妙にマッチしていた。
そして夕方、おふくろに観劇代金をねだった。30円くらいだった。今の金銭感覚だとしたら300円くらいだろう。財布のひもは固かった。それでも3回のうち1回くらいは見に行くことができた。

「少年」・「少年クラブ」・「冒険王」、これらは買いたくて読みたくて、発行を今か今かと待ち焦がれた雑誌である。だが、本屋の店先にそれらが並んだ時、おふくろに執拗について回ってようやく1冊が買える80円をもらうことができた。80円は大金だったろうなと思う。
雑誌の楽しみは中身のほか、付録は幻灯機や顕微鏡、日光写真機といった組み立てして遊べるものが付いていたことだろう。少年の夢を叶える優れた付録だったと思える。組み立てを終えて60Wの電球のスイッチを入れ、スクリーンに映像が映った時の嬉しかったこと!

購入したのは決まって「少年」であった。真っ先に開くページは「鉄腕アトム」。100年くらい時代を先取りしたような漫画にはまってしまった。5年生くらいになると、「俺はお茶の水博士のような仕事をしたい」と真剣に考えるようになった。

あれから60数年、お茶の水博士になれなかった現実の自分がここにいる・・・・。


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