2019年5月13日月曜日

小松崎茂のイラスト画

昭和20年代後半は小学生の頃だった。
当時の楽しみは、母親に毎月粘って雑誌を買う小遣い銭80円を貰って、本屋に駆け込んで「少年」を買うことだった。この時代の雑誌といえば「少年」のほか、「少年画報」、「少年クラブ」、「冒険王」などがあったが、付録では「少年」がずば抜けた代物でピカ一の楽しみがあった。


付録で人気の高かったものでは、日光写真機、幻灯機、ピストル、双六など。
表紙をめくると小松崎茂の戦艦、宇宙旅行、未来都市の精彩画だった。



どの絵も臨場感が迫ってきたものである。こんな絵を見て親父の戦争体験談を聞く楽しみもあった。
海軍陸戦部隊として上海上陸作戦に加わった際の話では、「俺は運が良かった。機銃掃射を浴びたが、弾と弾の間に体があったため無傷だった」と聞いて「他の人はどうだった?」と聞いたら、急に口数が少なくなった。

「小松崎茂」の評を引用
当時娯楽に飢えていた少年少女らは、まさに映画を観るように絵物語の挿絵に魅せられた。とりわけ小松崎の描く空想科学冒険物は、今にも動き出しそうにドラマチックな視覚イメージで少年たちの想像力を刺激し、虜にした。小松崎に対しては「大正生まれの宇宙人」とも評された。

少年たちだけではない。
石ノ森章太郎、ちばてつや、松本零士、川崎のぼる、そして藤子不二雄A・・・など、この後来る漫画全盛期を築いた名だたる漫画家たちも、当時は小松崎茂の描く絵物語を愛読し、イメージ豊かなビジュアルが織りなす世界に励まされたという。

やがて1960年代、漫画の台頭に押されて絵物語の人気は衰退してくが、昭和希代の絵師・小松崎茂の勢いは衰えない。得意とする緻密なメカイラストの画力を見込まれ、プラモデルなどのパッケージアート(ボックスアート)を手掛けるようになる。

そして、このプラモデルの箱絵(パッケージ・イラスト)こそが、世に小松崎茂の名を不動のものとする。
タミヤの戦艦・空母・潜水艦・戦闘機、今井科学のサンダーバード、日東科学(現日東科学教材)の1/76スケール戦車、バンダイのロボットと、模型各社のオファーに応えた小松崎のメカイラストは、メーカーの要望と期待以上に迫力のある魅力的なビジュアル表現で模型愛好家を熱狂させ、第1次プラモデルブームを牽引した。

この時の兵器車両や艦船・戦闘機などのイラストから”軍国主義”との批判されることもあった小松崎だが、彼が愛したのはメカとしての機能美、造形美であり、東京大空襲で多くを失い敗戦直後の荒廃を体験した者として、一貫して戦争を忌み嫌い、反戦・平和の姿勢を崩さなかった。
2001(平成13)、心不全で死去。享年86歳であった。

「少年」には鉄腕アトムが連載され、江戸川乱歩の少年探偵団では小林少年、明智小五郎の活躍を「がっぱになって」読んだものである。怪人二十面相も血わき肉躍るおもいで読んだ。

鉄腕アトム

江戸川乱歩シリーズ
そのころ毎日のように、空を見上げると白い点が先頭になってそれに連なる飛行機雲が2条あった。横田基地から能登半島上空を横切り朝鮮半島の戦線に加わったのだろう。
65年ほど前の思い出話しになった。

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