2017年5月10日水曜日

中国西安に日本人の功績を称える記念碑

今から1300年前といえば奈良時代、平城京が整備され日本の文化が急激に発展した時代である。
身近なところでは白山開山や、那谷寺創建にしてもこの時代である。
平城京が整備された契機は、遣唐使による唐との交流が盛んになり、唐の役人をわが国に迎え入れ、虚勢を張るために平城京を急いで整備した・・・といっても過言ではないであろう。

そんな時代背景にあって717年、天才児と謳われた19歳の青年が遣唐使の船で唐に渡り、唐の太学(たいがく)で勉学に励む留学生になった。
遣唐使の次の船が日本からやってくるのは10年後、青年は2年後の21歳のとき、唐の国家試験で難関といわれる科挙に合格した。もちろん試験は中国語である。如何に頭脳明晰であったか伺い知れる。役人の駆け出しは校書と称される役職であった。親方はあの有名な玄宗皇帝なのだ。

そして30代前半には、左補闕(さほけつ)に任ぜられ、皇帝の側近にまでスピード出世した。
35歳の時、日本へ帰る船が来たのだが、皇帝はこれを許さなかった。ということになっているのだが一説によると、唐の魅力にとりつかれてしまい自ら帰らないと意思決定したのではないかという。

結局55歳になって初めて帰国を願い出た。玄宗皇帝はこれを許し、船で帰途についた。が、暴風雨により船が難破し死亡したと伝えられた。ところがベトナム安南に漂着し命拾いした。再び長安に戻ったが、この年、安緑山によるクーデターが勃発、一時蜀に逃れた。玄宗皇帝が逃亡し唐は徐々に国力が衰え始めたが、話題の主人公は安南の総督などを歴任した。
この人の名は誰あろう阿倍仲麻呂である。結局、72歳の生涯を終えるまで日本に帰国することなく長安にとどまった。

16年前、西安を旅行した際に市内随一の興慶宮公園に行った。この公園はかつて唐時代に宮廷があったところである。
そこには阿倍仲麻呂の功績を称える立派な記念碑が建てられていた。
記念碑は高さは5m前後か 
この記念碑の前で
出世の記録 
数年前から、中国とは尖閣問題でぎくしゃくした関係が続いている。だが、日本人の功績を称えた記念碑が今も健在であることに安堵を覚える。



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