時は昭和35年7月に遡る。場所は福井県立球場のダグアウト屋根の上。その球場では第42回全国高等学校野球選手権大会北陸代表決定戦の熱戦が繰り広げられていた。石川代表の金沢市工対福井代表敦賀、9回裏金沢市工2点リードで後攻敦賀の反撃も2アウトながら最終バッターの一挙手一投足を固唾を飲んで注視しながら応援席は静まり返っていた。ただし、自分を含め5人の応援リーダーだけはその状況を背にしてスタンドを眺めて次のアクションに備えていた。一瞬、大歓声が沸き起こり、ついに悲願の甲子園初出場の切符を手にしたことがわかった。
狂喜乱舞の応援リーダーと沸き返る応援団 |
金沢駅に到着すると、凱旋軍を一目見ようと大群衆が駅前広場を埋め尽くして大歓声を轟かせていた。選手と応援リーダーが2台のトラックに乗り込み、ブラスバンドの奏でる校歌と応援歌に合わせながら応援モーションを繰り広げ、凱旋パレードを見ようと沿道に連なった市民の歓呼に答えた。この達成感、爽快感は永遠に忘れ去ることはない。応援リーダーをしていて良かったとつくづくそう思うのである。
当時、北陸代表は石川と富山または石川と福井で代表決定戦が行われていて、石川県から甲子園に行くにはこの2県に阻まれ非常に高い壁があった時代背景がある。県民、市民は今回の優勝をその鬱憤晴らしとして心から喜んでくれたと考えられる。
その日から晴れの大舞台に臨む日まで、応援リーダーは夏休みを返上して母校グラウンドで、早稲田大学応援リーダーを招聘して特訓を受けた。
甲子園の対戦相手は古豪京都平安、後にプロに入団した大崎投手を擁した強豪チームであった。
金沢から土井市長を始め市議会議員団ほか1000人の大応援団が繰り出した。
応援リーダーにとっても晴れ舞台 |
翌日の朝日新聞スポーツ面を見て驚いた。大サイズで自分の応援している姿が掲載されていたのだ。
右端に自分の姿が |
平成22年7月1日、当時の選手、応援リーダー、応援団が山代温泉ホテル百万石に集い、甲子園に出場した50年前の感動を深夜まで語り合った。
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