そんな成り行きで、がらんとした事務所、人の気配が全くなくなった寮で6日間を過ごすことになった。寮の食堂に白黒TVが設置されており、暫くの間は退屈しなかったが、大晦日には耐えきれなくなって実家に帰省している弟を呼び出すことにした。1泊して弟が帰って行ったので暇をもてあました結果、ジープのキーを持ち出してエンジンをかけてみた。クラッチ操作を何度も繰り返して感覚をつかんだので、道路に出てみることにした。道路(県道)は普段でも交通量は少なかったが、正月休みは国鉄バスがたまに通行するだけ。それでも対向車が来ないようにと、祈る気持ちで運転の練習をした。次の日、あくる日も路上で運転の練習を行った。(50年以上も前なのでペナルティは時効?)
昭和37年正月休みはこのように過ぎた。
休み明けから軌道工事着工の準備が進められ、測量作業を続けなければならなかった。
このような状況から代休の話はどこかに飛んで行ってしまった。
3月になり本部から「会計検査官が能登線に入るので遺漏のないように」と連絡があった。
九十九湾めぐりの観光船乗り場付近にあった倉庫にはセメントが相当数保管されていた。これは工事用の支給品で、帳簿上は全て支給されてしまったことになっている筈の帳外品であった。
資材倉庫があった付近の最近の状況 |
とにかく、会検受験が迫っているので一刻も早くセメントを運び出して倉庫を空にしなければならない。よって、仮置き場所に移せと指示があり、適当な場所探しを始めた。そして選定された場所は国鉄バス停留所数か所のベンチの下に決まった。
3月下旬、宇出津駅構内に貯蔵品(犬クギ、継ぎ目板、モーターカー用のガソリン、軽油)等を格納する大きな倉庫が建てられ、出先機関として見張所が設置された。DL、モーターカーの運転手が2人、道床バラスト運搬に必要となる誘導手3人、事務員1人、宇出津寮の賄さん等が臨時に雇用された。宇出津駅裏手の宿舎が改築されて独身寮として整備された。
軌道材料のマクラギ、レールが宇出津構内に続々と到着しだした。
松波工事区閉鎖に伴い、50代の技術掛兼工事士が着任し、軌道工事の総括担当者となったので、事実上、その人が私の直属上司となった。職務経験や年齢的には助役の資格は十分に備わった人ではあったが、私生活の状況から管理職とすることが見送られたように思われた。
4月に入りお世話になった1年先輩と助役が珠洲工事区へ転勤となった。助役は区長に栄典された。
松波工事区長を兼務していた区長が岐阜の本部に転勤となり、本部から新区長と乗降場新設関係を担当する3年先輩が技術掛として、また、3年年上の事務掛が着任した。
4月になり花見季節となった。花見は小木町の外れにある九十九湾に面した日和山公園であった。
この人たちは51年後の今も元気なのだろうか |
日和山公園で花見・右端にアマメハギ保存会長の天野さん |
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