2013年2月28日木曜日

奇祭「宇出津のあばれ祭り」

あばれ祭りのクライマックス
昭和37年7月7日から8日の2日間、宇出津は祭り一色に包まれた。
全職員が宇出津寮に集まって祭りを楽しむことになった。会食のあと祭り見物に出かけた。
私と同年代の若者が一心不乱に祭りに身を投じ、自らも楽しんでいる姿を見ると、自分も傍観者ではなくキリコの担ぎ手として仲間になりたいものだと思った。
会食後のひと時
私は母親の実家が宇出津であったことから、幼いころ何度かキリコに乗せてもらった。1基のキリコに子供が20人ほど乗って、太鼓、笛、鉦に合わせて「ワー、イヤサカサッサ」と掛け声をあげるのである。
キリコは各町内から1基づつ繰り出し、全町内50基のキリコが午後8時ころ宇出津埠頭の広場に集結して、5,6基設けられた大松明の火の粉が舞い散る中を、太鼓、鉦、笛の音が俄かに早いテンポに変わり、それに呼応した担ぎ手が勇壮に「ソレーッ」と雄叫びをあげながら小走り状態となって練り行く。昼過ぎからの長丁場、飲みに飲んで体力の続く限り全力を振り絞る。その情景は大観衆まで酔わせてしまう。
これがこの祭りのクライマックスである。
役場職員であろうが、企業の社員であろうが、若い衆は準備後片付けを含め1週間は休暇をもらい、祭りのために涙ぐましいほど献身的に与えられた役割に没頭する。この使命感は、吾々が考えられる範疇よりはるかにその想像を超えたものがある。
現在でもその気質が脈々と受け継がれており、県外に就職している若者は、盆暮れよりも優先して祭りのために帰郷する。休暇の承認をしない企業があると「退職願」を出すほど祭りに入れ込むのである。
翌日はそのキリコに「あばれ神輿」が加わる。海に投げ込み、川に投げ込み、橋脚にこれでもかとぶつけ神輿の原型がなくなるまで壊しまくる。
火に投げ込み
海に投げ込み
そしてまた川に投げ込み
橋脚にぶつけ徹底的に壊しまくる
漁師町宇出津の心意気が息づく祭りが今年も繰り広げられることであろう。

2013年2月27日水曜日

ネギを背負ったカモ

軌道敷設に追っかけられるように連日の作業に懸命となった測量も、ある程度軌道の先端から測量済みまでの距離ができると心に余裕ができた。
あるよく晴れた日に、田ノ浦海岸の急峻な崖をよじ登り立山連峰を眺めた。当時はなかった現在の国民宿舎あたりからの景色が素晴らしかった。
第4田ノ浦トンネル出口付近
同上付近の道床バラスト取り卸し作業状況
昭和37年4月に大幅な人事異動があり、独身寮入寮者が4人となった。新任区長を含め単身赴任者が2人、独身者が2人。
4人が退屈しない遊びといえば麻雀である。「おい、麻雀をしよう」と声を掛けられた。「全然ルールがわかりません」とお断りしたが4人しかいない、教えてやるから「やれ」と業務命令。レートを半分にしてやるからと始めたが、毎夜の勝負が月締めで給料日には相当額の負けの分を泣き泣き支払った。随分高くついた授業料ではあった。5,6か月して百楽荘で一杯やろうと誘いがあった。飲んで騒いで勘定することになり、「いくらですか」と聞いたら、「今回は麻雀の上がりを積み立ててあったから不要」とのこと。何のことはない、全て私の負けの分で支払われたのである。顔面を引きつらせながら「ありがとうございます」とお礼を云った。

2013年2月25日月曜日

脱線機を反位にしてレール運搬開始

宇出津構内蛸島方の岩屋町踏切と第2宇出津トンネル入り口の間に、営業線と建設線の境界が設けられていた。境界には脱線機がレール上に設置されており、万一列車がオーバーランした場合に建設線に入らないよう脱線させる装置である。
建設着工は先ずその脱線機を反位にする梃操作から始まった。これにより土工線(建設中の線路をいう)に動車(DL、MC)が資材を載せて通行できるようになる。
能登線の1/3、L≒18kmの軌道敷設工事に着手
半世紀前の軌道敷設工事は次の手順により施工された。
1.宇出津駅構内資材ストックヤードからモーターカーにトロッコ2両を連結しレール、マクラギ、レール付属品類の資材を運搬
2.おおよその間隔でマクラギを並べる
3.並べたマクラギにレールを運搬据え付けし、ゲージ(左右レール頭部内面の間隔:1067mm)を測定確認しながらイヌクギで固定する
4.軌きょう(道床バラストがない状態)のマクラギ下に15cmのパッキンを入れ道床厚を確保したのち運搬してきたバラストを軌きょう内に掻き込む
5.道床バラストを搗き固めながら、軌道を線路中心線に合うように整形する
以上の作業を繰り返しながら延伸していく工法である。
手順3.レール運搬据え付け状況・白丸駅付近
宇出津駅から土工線にバラスト運搬が連日実施される
手順3のうちゲージを確認しながらレール固定作業・第5宇出津T出口付近
手順4.道床バラスト運搬取り卸し・内浦町市ノ瀬地内
手順4.道床バラスト掻き込み・内浦町市ノ瀬付近
手順5.道床搗き固め整備
レール空伸ばしは一路松波へ・能登小木付近

以上の工程を繰り返しながら昭和38年10月まで能登線18kmの軌道敷設工事に邁進した。

2013年2月24日日曜日

倉庫のセメントを直ちに持ち出せ!

「君は実家がすぐ近くだから帰ろうと思えばいつでも帰れる。現場事務所には365日、当直、宿直は必ず置くことになっているので、遠方の者のために留守居役を頼む。正月休みが明けたら代休を与える。」
そんな成り行きで、がらんとした事務所、人の気配が全くなくなった寮で6日間を過ごすことになった。寮の食堂に白黒TVが設置されており、暫くの間は退屈しなかったが、大晦日には耐えきれなくなって実家に帰省している弟を呼び出すことにした。1泊して弟が帰って行ったので暇をもてあました結果、ジープのキーを持ち出してエンジンをかけてみた。クラッチ操作を何度も繰り返して感覚をつかんだので、道路に出てみることにした。道路(県道)は普段でも交通量は少なかったが、正月休みは国鉄バスがたまに通行するだけ。それでも対向車が来ないようにと、祈る気持ちで運転の練習をした。次の日、あくる日も路上で運転の練習を行った。(50年以上も前なのでペナルティは時効?)
昭和37年正月休みはこのように過ぎた。
休み明けから軌道工事着工の準備が進められ、測量作業を続けなければならなかった。
このような状況から代休の話はどこかに飛んで行ってしまった。
3月になり本部から「会計検査官が能登線に入るので遺漏のないように」と連絡があった。
九十九湾めぐりの観光船乗り場付近にあった倉庫にはセメントが相当数保管されていた。これは工事用の支給品で、帳簿上は全て支給されてしまったことになっている筈の帳外品であった。
資材倉庫があった付近の最近の状況
どうしてこのような帳外品があるのか後で知ることができた。当時はセメントは高価で貴重品。土木構造物に使われるコンクリート用のセメントは、業者がコンクリート配合計算上でセメント所要量を算定してその都度請求し国鉄が支給していた。ところが、コンクリートは必ずボリュウム計算より食い込みが発生する。この対策のため、セメントをストックする必要があり実績を上回った使用報告が必要不可欠となる。結果、帳外品が倉庫にストックされることになる。
とにかく、会検受験が迫っているので一刻も早くセメントを運び出して倉庫を空にしなければならない。よって、仮置き場所に移せと指示があり、適当な場所探しを始めた。そして選定された場所は国鉄バス停留所数か所のベンチの下に決まった。

3月下旬、宇出津駅構内に貯蔵品(犬クギ、継ぎ目板、モーターカー用のガソリン、軽油)等を格納する大きな倉庫が建てられ、出先機関として見張所が設置された。DL、モーターカーの運転手が2人、道床バラスト運搬に必要となる誘導手3人、事務員1人、宇出津寮の賄さん等が臨時に雇用された。宇出津駅裏手の宿舎が改築されて独身寮として整備された。
軌道材料のマクラギ、レールが宇出津構内に続々と到着しだした。
松波工事区閉鎖に伴い、50代の技術掛兼工事士が着任し、軌道工事の総括担当者となったので、事実上、その人が私の直属上司となった。職務経験や年齢的には助役の資格は十分に備わった人ではあったが、私生活の状況から管理職とすることが見送られたように思われた。
4月に入りお世話になった1年先輩と助役が珠洲工事区へ転勤となった。助役は区長に栄典された。
松波工事区長を兼務していた区長が岐阜の本部に転勤となり、本部から新区長と乗降場新設関係を担当する3年先輩が技術掛として、また、3年年上の事務掛が着任した。
4月になり花見季節となった。花見は小木町の外れにある九十九湾に面した日和山公園であった。
この人たちは51年後の今も元気なのだろうか
日和山公園で花見・右端にアマメハギ保存会長の天野さん
花見が終わり、いよいよ軌道敷設工事が開始された。

2013年2月21日木曜日

御用始めまで留守居役を命ず

職場と一体化した寮生活は通勤時間ゼロ分、これ以上の職住至近距離の職場はない。だが、土曜日半ドン、日曜日休みの当たり前のことが現場事務所では通用しないことがわかってきた。
助役は毎日早朝7時頃から出勤し計算機を回す音が聞こえると、あわてて寮から事務所に行かなければならないし、自分の仕事がなくても夜遅くまで上司が残業していると、それを無視して寮に入る訳にもいかなかった。請負業者が現場検査を願い出れば、日曜日であっても出勤するのが当然の習わしがあった。
職住が風光明媚な九十九湾の一角に位置するといえども、2km離れた床屋に行くのにトンネルを3本くぐらなければならなかったし、店屋は雑貨屋の1つだけ。月日を重ねていくうちに生活パターンに対するストレスが溜まっていった。
現場事務所があった場所にガソリンスタンドがH16.5.15撮影
そんな中、10月14日の鉄道記念日を迎えた。この日には全国の鉄道管理局等で永年勤続表彰式が執り行われ、その日前後に職員家族慰安会が行われた。遠隔地の現場事務所では独自で家族慰安旅行会などが開催されたが、小木工事区では家族慰安会として、独身者にも家族3人までの参加ができるとして、事務所にほど近いホテル「百楽荘」で食事会が開催されることになった。実家に帰ってその話をしたところ、親父、妹弟の3人が参加することになって喜んでくれた。平成16年5月、能登線が16年度末(平成17年3月31日)に廃止されることから、高校同窓生3組夫婦6人で「さらば能登線見納め会」を開催した。その際に、当時から営業を続けているそのホテル「百楽荘」に宿泊し当時のことが懐かしく蘇り感慨に浸った。
さらば能登線見納め会・ホテル百楽荘にてH16.5.16撮影
11月中旬、本部(岐阜工事局)において軌道敷設工事の発注が行われ、請負業者のOBが現場代理人を伴って挨拶に訪れた。提出された施工計画書によれば、12月初旬から着工の工事工程表が綴じ込みされていた。これに伴い、助役より宇出津から「線路中心測量」を直ちに開始せよと命が下った。
この作業は20m間隔に軌道中心杭を設置してその杭頭に中心点を示す釘を打ち込む。また、曲線の始終点に「役杭」と呼ばれるΦ10cm長さ80cmの腐食防止が施された焼き杭を地中深く打ち込み設置した。測量機器は20″読みのトランシット、スチールテープのほか竹製で延長20mの竹チャインを使用した。作業パーティは私のほか1年先輩、ずい道手の3人であった。測量経験が皆無な私としては、先輩にその方法を聞いたり、測量マニュアル関係の書籍で勉学に没頭した。
鉄道曲線の常識であるR(曲線半径)、BTC(緩和曲線始点)、BCC(円曲線始点)、ECC(円曲線終点)、ETC(緩和曲線終点)、IP(直線交点)、IA(交角)、TCL(緩和曲線長・三次放物線)、TL(接線長)、偏埼角δ等々の用語を早急に理解し、測量を実施に移さなければならなかった。
時は氷雨のシーズン。測量作業は北風が吹きすさぶ冷たさに手が凍え、トランシットが激しく風に揺さぶられて視準点が定まらない。その対策として宿舎の雨戸を外して現場に運び、器械の横に立てて風を遮った。野帳は濡れ、携帯用の算盤をはじく手も震えがちだった。
そんな日が続いたがそのうち、田ノ浦海岸付近に進んだ。ふと水平線に目を移すと思わず吾が目を疑った。水平線上に山々の稜線が信じられないほどくっきり浮かび上がった立山連峰の雄大な姿が横たわっているではないか。悪天候中の辛い測量作業がこの光景でどれだけ心を癒されたことか。この風景に感激した思いが忘れられず、10年ほど前に立山を描いた絵画を購入し居間に飾った。

九十九湾に浮かびあがる立山連峰・旧内浦町HPより
天候によってはこのように見える場合もある
そうこうしているうちに昭和36年も師走を迎えた。28日、大掃除を終え御用納めとなり単身赴任者は家族の元に帰った。そして、「君は御用始めで皆が帰ってくるまで留守居役だ」と。

2013年2月19日火曜日

能登線宇出津・小木間を単車で走破!

着任して間もなく、制服等一式が貸与された。
夏服上下、アノラック上下、地下足袋、長靴、軍手、制帽、脚絆、襟章、算盤、製図機器、雨合羽など一気に自分の持ち物が増えた。秋口になるとラシャ地の立派な冬服が追加貸与された。
機関士などが乗務する際に着用している作業衣は工事区職員には貸与されなかった。
制帽は駅員がかぶっているものと同じものであったが、技術系の業務には不向きで滅多に使用しなかった。一度だけ着用して単車に乗って宇出津に行ったとき、郵便配達員と間違えられた。
算盤の裏には「鉄道省」という刻印があって、年代物を感心して眺めた。
脚絆を着用してみたが馴れないと中々ビシャッと決まらなかった。数歩も歩かないうちにバラバラと足首まで下がってしまった。何度も着用を試みたがうまくいかず、それ以降一度も着用することがなく、1年後には10cmくらいに切断して「靴磨き」化していた。
そのほか、過剰と思われるが夏バテ防止用としてビタミン剤、食塩まで支給された。

現場事務所に配備されていた単車は、メグロ125ccの排気量の割には馬鹿でかくて重く、クラッチが故障している代物であった。それでも誰も乗り手がいなかったので、免許取得してから自分専用のように乗り回した。休日には柳田村の実家までよく通った。
そのうち、トンネル補強工事が終わり、宇出津から小木まで路盤が全通したので、軌道工事が開始されない間にこの区間を単車で走破してみたいと思うようになった。ある日、意を決して決行することにした。宇出津構内の岩屋町踏切から進入し第2宇出津トンネルに入った。トンネル内を走行しているうちに、側壁に沿って設置してある側溝の蓋の上を走ると快適に走行できることがわかった。
前方に第2宇出津トンネル入り口が
宇出津小木間は能登線でもトンネルが多い区間である。数箇所のトンネルが連続する田の浦海岸付近の走行は特に景観が素晴らしく爽快であった。宇出津駅から能登小木駅建設予定地までの延長10kmの単車による走破であった。

宇出津・羽根間位置図
田の浦海岸全景・手前は遠島山公園
現在は線路が撤去されてはいるが、走破を試みる奇特な人間は永遠に現れはしまい。

2013年2月18日月曜日

軽免許講習会で免許取得

事務所職員が現場調査監督等で外出する場合は、国、県等の公務員と同様に公用車(ジープ)に乗車して目的地に行くことが義務付けされていた。しかし、現場が広範囲となり行きたい時に公用車がない場合が多くなってきたため、第2種原付バイクが配置されていた。私は第1種原付免許しか所有していなかったので、旧能都町交通安全協会が軽自動車免許講習会を開催することを聞き、この講習会に行かせてもらいたいと申し出た。許可が出て8月中旬、夏休み中の宇出津小学校で講習会が開催されそれに出席した。勤務は公務扱いにしてもらった。
講習会は軽4輪と軽2輪を対象に開かれ軽二輪で受講することにした。今から考えれば軽4にすべきだったと思うが、当時、軽四なんて高嶺の花に思い二輪にした。
講習期間は10日間、実地と学科が半々に行われた。実地は250ccのスクーターだった。グラウンドに描かれた輪に沿って回転したり右左折時の合図方法の指導、停車合図の仕方を実習した。
両足を揃えてカーブを切る運転が難しかった。
屋内講習は法令、構造について学んだ。最終日に免許試験が実施され当日合格判定となり、軽免許(二輪)を取得した。そのおかげで現在自動二輪(制限なし)が運転できることになっている。
宇出津港全景・最奥に能登町役場がある
昭和36年当時の宇出津駅の状況
当時の能都町は物資の集散地として大賑わいを見せており、とりわけ宇出津港は杉、アテ等の木材や薪炭が近在から集積され、岸壁に所狭しと山積しており富山新湊、伏木港に船積み運搬されるのを待っていた。また、イカ釣り船団、大敷網漁業基地としても活況を呈していた。
その頃は能登商船の七尾宇出津便が定期就航していた。(所要時間2時間半)
写真に見る宇出津港の新港はその当時には構想すらなかった。あんなところがと思われる丘陵地が開発され住宅地となっており、右下にあった宇出津水産高校も移転して今はなくなっている。小木町市之瀬からこの町に来年(昭和37年)から1年ほど移り住むことになる。

2013年2月17日日曜日

直ちにトンネル補強工事を施工せよ

小木トンネル位置図①~②L=963m
小木トンネル入り口・H16.5.15撮影
変状調査の結果、側壁コンクリートが地山の土圧により強度限界を超えているため、放置すると側壁崩壊を招く恐れがあった。地山の地質は能登半島に多く見られる凝灰岩である。小木地方はこの凝灰岩を切石加工して土木建築資材として多用されていた。
ところが小木トンネル一帯はその風化岩で構成されており、一旦空気に触れると脆くなり、かつ水分を含むと膨張し粘性状に変化する。安定していた地山がトンネル掘削により空気に触れ、水分が加わって次第に膨張したことによりトンネルの変状を招いた。恐らく変状した部分は断層破砕帯と考えられる。
この対応策として施工基面から逆さアーチ状の厚さ40cmのコンクリート版を施工してトンネル両側の側壁下部に定着することになった。(専門用語でインバートコンクリートと称される。)
このほか、小浦地内の擁壁が変状しつつあることが発見され、現場調査が開始された。調査測量を実施し対策を検討した結果、変状しつつある擁壁を格子状のコンクリート梁(バットレス擁壁という)により表面を覆う補強工を施工し、変状を防止する工事が開始された。路盤工事施工時には地すべりが発生し難航した区間だったと聞いた。
これらの詳細設計、積算作業は30歳代の工事士と1年先輩が受け持った。私に設計をするように指示されたのは、宇出津構内に工事用として配置されるDLとモーターカー2台の保守点検に必要となる点検坑(ピットという)であった。この設計が入社して最初の土木構造物設計となった。設計図が完成して恐る恐る区長に見てもらったところ、「設計図というものはすぐ仕事ができるためのものだ。レールジョイント位置などの現場をよく見て設計してある。よし!」とお褒めの言葉を頂いた。
だが、積算作業は入社4、5ヶ月の自分にはその仕組みさえ理解できなかったので、助役が担った。
やがて初冬を迎えようとする11月、宇出津松波間軌道敷設工事が発注され、私の本来業務が始まろうとしていた。
部内誌「岐工情報NO40」より抜粋
市嶋局長のあいさつ
改めてこれらの機関誌に目を通すと、昭和36、7年頃の国内の経済状況等を伺い知ることができる。


2013年2月15日金曜日

カンテラを持ってトンネル変状調査

事務所の建物に寮が一体化して併設されていた。寮は客室2間、個室4、宿直室、食堂があり、入寮者には3食とも賄いさんが用意してくれた。
区長と工事士が松波宿舎、助役は宇出津宿舎から通勤、現場監督専門職のずい道手が穴水宿舎から通勤、事務掛が単身赴任で入寮中、私より1年先輩の技術掛と私が加わって3人での寮生活となった。
工事区のほかに小浦に見張所(事務所の出先機関)が設けられており、助役の1人が13工区竣工残務整理が終わり次第、間もなく岐阜に転勤予定となっていた。
着任当時、15工区を担当した松波工事区でも路盤工事がほぼ竣工しており、ここでも残務整理が終わり次第閉鎖される状態であった。
当時の能登線建設は松波以遠で路盤工事の最盛期を迎えており、鵜飼、飯田の2箇所に工事区が設置されていた。
穴水・蛸島間の工区と請負者
能登線建設概要
宇出津から松波まで路盤工事がほぼ完成しており、昭和36年秋から当該区間の軌道敷設工事が着工予定されたため、その技術担当要員として任命されたことになったのである。
入社して4ヶ月の右も左も解らない私としては、1年先輩に頼ることが多かった。同じ能登出身者ということもあってか、懇切丁寧に指導していただき現在も尊敬の念を抱いている。
7月末のある日、助役から「明日、トンネルの変状調査をするからカンテラを持って現場に行くように」と指示があった。明日といえば日曜日だが・・・・、と不満に思ったが上司の指示は絶対、当日、カンテラにカーバイドを入れトンネル現場に向かった。向かったトンネルは能登線で2番目に長い小木トンネル。
入口(蛸島方)から500mくらいの場所に到着して側壁を観察すると、あちこちにひび割れが発生していた。
この変状が進行しているのかそうではないのか判断するため、モルタルを饅頭のようにして数箇所貼り付けた。
10日後その状況を確認したところモルタル饅頭に亀裂があって、変状が進行中であることがわかった。

2013年2月14日木曜日

能登線建設現場事務所に着任

昭和36年7月中旬、能登線の終着駅宇出津に降り立ち、現場事務所から差し回されるジープを待った。到着したジープは進駐軍の払い下げウイリスジープ(映画コンバットでお馴染みの)を改良した銀色塗装のワゴン車だった。自分の全財産である手荷物の布団袋1個、柳ごうり1個を駅手荷物引渡窓口から受け取り、迎えのジープに積み込み事務所に向かった。宇出津の街を通り過ぎるとすぐ峠を越え、かつて幼児の時に1度だけ海水浴に訪れたことのある田の浦海岸に出た。
自分にとって、この先は未知の地域であった。
眺望絶佳の田の浦海岸
羽根、小浦、真脇の集落まで風光明媚な海岸線が続いていた。道路に並行して路盤工事が終わった能登線建設中の現場が続いた。
真脇を過ぎると峠にさしかかり、やがて1車線しかない狭くて長いトンネルをくぐり抜けると小木町に入った。小木港は遠洋漁業の発進基地として賑わっていた。家並みに挟まれた狭い道路を走行して港に出るとすぐにトンネルが3本続く。九十九湾の入江にある2箇所の造船所を過ぎるとかなり長い市之瀬トンネルにさしかかり、桑名商店という雑貨店の前の国鉄バス市之瀬停留所を通り過ぎると間もなく現場事務所があった。
事務所は上部中央の入江の奥に位置していた
現場事務所から九十九湾の眺め
日本国有鉄道岐阜工事局小木工事区という看板が掲げられた事務所の玄関に入り、昭和38年10月までの能登線建設工事の業務に就いた。

2013年2月12日火曜日

金沢21世紀美術館での鉄道展

平成22年8月11日、小4、小1の孫を連れてマルビーで開催された「鉄道展」に出かけた。
そこにはジオラマ、電車運転のシミュレーター、旧国鉄時代に使用されていた電車やSLの部品、各種模型、SLの投炭体験場などかなりの規模で会場がセットされていた。
そこに思いがけない幼少の時を彷彿させる展示物に釘付けになった。
このようなものが良くぞ保存されていたものだと感動を覚えた。
5才の時に見た1冊の絵本
この絵本を見たのは母親に連れられて宇出津の親戚に行ったとき、面白そうだとたまたま手にして眺めた絵本だった。特急つばめ最後尾の展望車から手を振っている子供は、その時の自分と同年齢に描かれていた。
自分にはこんな体験は夢の世界、何とも羨ましい情景なのかと脳裏にその記憶が刻み込まれていた。当時、汽車を見るには宇出津から国鉄バスで2時間かけて穴水まで行かなければならなかったし、柳田村からは輪島まで北鉄バスでやはり2時間かかった。そんなことで、憧れの汽車を見たり乗るまで小学6年の修学旅行まで6年間も待たなければならなかった。
旧国鉄時代が懐かしい車両模型
昭和50年2月、展望車ではないが新幹線最後尾運転席に自分の姿があった。
新広島・博多間試乗
こんな形で幼少期の自分の夢が実現できるとはそれこそ夢にも思わなかった。

2013年2月9日土曜日

我が人生最大の歓喜!

社会人としてスタートした模様を述べたが、それ以前に我が人生において最大級となる歓喜の記憶が鮮烈に残っていることを記録しなければなるまい。
時は昭和35年7月に遡る。場所は福井県立球場のダグアウト屋根の上。その球場では第42回全国高等学校野球選手権大会北陸代表決定戦の熱戦が繰り広げられていた。石川代表の金沢市工対福井代表敦賀、9回裏金沢市工2点リードで後攻敦賀の反撃も2アウトながら最終バッターの一挙手一投足を固唾を飲んで注視しながら応援席は静まり返っていた。ただし、自分を含め5人の応援リーダーだけはその状況を背にしてスタンドを眺めて次のアクションに備えていた。一瞬、大歓声が沸き起こり、ついに悲願の甲子園初出場の切符を手にしたことがわかった。
狂喜乱舞の応援リーダーと沸き返る応援団
県予選を勝ち進み、福井球場に遠征した2試合の勝利の末に勝ち取った「甲子園初出場」の偉業であった。ダグアウト屋上のリーダーは欣喜雀躍しながら全身に歓喜を噴出させ、スタンドの応援団と一体となって優勝を喜び合った。
金沢駅に到着すると、凱旋軍を一目見ようと大群衆が駅前広場を埋め尽くして大歓声を轟かせていた。選手と応援リーダーが2台のトラックに乗り込み、ブラスバンドの奏でる校歌と応援歌に合わせながら応援モーションを繰り広げ、凱旋パレードを見ようと沿道に連なった市民の歓呼に答えた。この達成感、爽快感は永遠に忘れ去ることはない。応援リーダーをしていて良かったとつくづくそう思うのである。
当時、北陸代表は石川と富山または石川と福井で代表決定戦が行われていて、石川県から甲子園に行くにはこの2県に阻まれ非常に高い壁があった時代背景がある。県民、市民は今回の優勝をその鬱憤晴らしとして心から喜んでくれたと考えられる。
その日から晴れの大舞台に臨む日まで、応援リーダーは夏休みを返上して母校グラウンドで、早稲田大学応援リーダーを招聘して特訓を受けた。
甲子園の対戦相手は古豪京都平安、後にプロに入団した大崎投手を擁した強豪チームであった。
金沢から土井市長を始め市議会議員団ほか1000人の大応援団が繰り出した。
応援リーダーにとっても晴れ舞台
天にも登る心地で一心にリーダーの務めを果たしたが、快腕大崎投手の好投で1:0で敗北した。
翌日の朝日新聞スポーツ面を見て驚いた。大サイズで自分の応援している姿が掲載されていたのだ。
右端に自分の姿が

平成22年7月1日、当時の選手、応援リーダー、応援団が山代温泉ホテル百万石に集い、甲子園に出場した50年前の感動を深夜まで語り合った。

2013年2月8日金曜日

社会人としてスタートした頃

私が社会人としてスタートしたのが昭和36年3月2日だった。卒業式が1週間後に迫った時期であったが、雇用者側の都合で早く出頭せよと指示があった。
当時は人手不足が深刻な状況で、雇用者としては他所に行かれては困るのでそのような措置を取る事業者が多かった。
現在の就職難から考えれば夢のような時代であったことがわかる。
国鉄岐阜工事局・能登線建設担当チーム
入社直後の役所の泉水の前で記念写真を撮ることになった。係長は映画「戦場に架ける橋」で有名になった泰緬鉄道建設に従事した強者で、ミャンマーで使っていた帽子を当時も愛用していた。
入社間もない21名の新入社員は3、4ヶ月間学生服のままであった。
卒業式のためなら一旦金沢に帰ってもいいと許可が下りて、どうにか卒業式に出席することができた。
4月になると部内教育機関である中央鉄道学園三島分教所に入所を命ぜられた。教育期間は6週間であったが、楽しい思い出が多い。
卒園旅行で富士五湖めぐり
卒園した6月下旬、能登線建設担当の小木工事区勤務を命ぜられ7月中旬九十九湾のほとりにあった事務所に赴任した。

2013年2月7日木曜日

能登の世界農業遺産

ユネスコの無形文化遺産に「能登のあえのこと」がある。
12月5日に農家が「田の神様」を自宅にお招きするのだが、神様は盲目とされているため田から玄関まで手を携えてお入りいただき、一休み後にお風呂に案内するときも「そこは高くなっていますからあぶのうございます。」と声をかけるのである。
お風呂から上がられたら座敷にお通ししてお酒や馳走をふるまう。これを約2ヶ月後の2月9日に田にお帰りになるまで続けられることになる。
子供の頃、そんな仕草をしている親父の姿を見て、本当に神様がいるのか半信半疑だった。「とうちゃん、ほんとに神様おってが」と聞いたとき「見えないだけでほんとにおってがや」と。
ごく一般的に行われていた「あえのこと」は農民が出稼ぎ労働力として必要になった高度経済成長期から、その伝統行事もごく少ない農家に限られていた。
紫錦台中学同窓生の吉村保存会会長
平成20年、無形文化遺産の指定候補にあげられて、能登町国重地区住民が保存会を立ち上げ吉村さんが会長を担われることになった。定年退職でようやく帰郷がかない、伝統文化保存に注力できるように環境が整った。これからのご活躍を期待したい。
能登町にはこのほか「アマメハギ」という伝統行事がある。
職場が同じだった時もあった天野会長
この人とも、かつて能登線建設工事関係で職場が同じ時があった
小木工事区時代
このように知人が奥能登の伝統文化保存に尽力されている姿を新聞記事で見ることができ、まるで自分のように誇らしくさえ思えてくる。

2013年2月6日水曜日

38豪雪時の成人式

先月13日、金沢市千坂公民館主催の校下成人式に来賓者として出席した。
この日は北陸地方では希な好天に恵まれ、各会場に向かう晴れ着姿の新成人たちが乾いた歩道を歩いていた。会場では厳粛な空気の中、粛々と式典が進行していった。
そんな光景を眺めて、もう50年前にもなる自分の成人式の情景が蘇ってきた。
それは歴史的な豪雪であった昭和38年1月15日に行われた成人式である。
会場である旧柳田村の中学校に向かう時に20cm程度の積雪があったが、8年ぶりに再会した小学校の同級生と夜に山手に位置した料亭で二次会をすることになった。
宴が終わり玄関を出ようと戸を開けたとき、雪が膝以上に積もっており信じられない光景が目に入ってきた。まるで雪上を泳ぐようにして家までようやくたどり着くことができた。
その日から2週間以上も雪が降り止むことがなかった。
過疎化なんて考えられない時代
豪雪時の宇出津新町商店街
能登地方では日本海側から山間地にかけて積雪量が多いが、富山湾に面する内浦地域は殆ど積雪することがない。しかし、この時は宇出津の街も屋根雪を下ろさなければならなかった。
50年前の私の成人の日はかくの如しであった。