2021年10月25日月曜日

日本第二位の規模を誇った金沢製糸場の栄枯盛衰

 昨日の「晴天を衝け」で、富岡製糸場が開設されたのが明治5年、この年に3年務めた大蔵省を辞めた人間渋沢栄一を活写していた。横浜焼き討ち→幕府転覆を目論んだ渋沢だったが、平岡円四郎の眼力で一橋家仕官に取り立てられ、即、栄一の能力が全開、パリ万博派遣団の一員になった。パリ在住の一年半は渋沢栄一の才覚が遺憾なく発揮、帰国して役人に取り立てられた。このあたりは脚色もあるだろうが、大隈、西郷などの重鎮と堂々と渡り合い、民で生きる覚悟を決めた経緯が面白い。そんな歴史に触れたのがこの異色の大河ドラマである。実に切り口が面白く展開するではないか。

さて、ドラマに出てきた富岡製糸場を見学したことがあった。

明治5年完成の建物は現在も新築したなりのようだった

入り口頂部に明治5年と刻まれたレンガがある

案内人の説明に熱がこもっていた
近代化を急ぐ日本がここに凝縮されていた。
この製糸産業で富岡に次ぐ規模の製糸場が金沢にあったという。富岡開設の2年後だから急いで設置したのだろう。運営ノウハウも富岡で学んだという。

明治7年、長谷川準也(後の2代目金沢市長)らが設立した金沢製糸会社によってそれは開設された。官営模範工場の富岡製糸場を範としており、当時は富岡製糸場に次ぐ全国第二の規模であったという。だが、典型的な武士の商法だったといわれ、金沢製糸会社は経営の失敗もありわずか数年で解散したが、石川県の殖産興業の先駆けとなったのは間違いない。
設置された場所は中央小学校の敷地。

玉川公園・三谷産業付近にある中央小学校
学校敷地だから工場のスケールが推察できる。

工場規模は富岡製糸場に次ぐ
養蚕や繭の知識がいまいち、それと武士の商法のお手本的経営により行き詰まり閉鎖されたという。
それでも、津田駒のご先祖が設立に参画しており、現在も繊維関係の業務が展開されている。加賀藩には渋沢栄一のように華々しく生きた人間はいなかった。が、そろばんサムライ
の子孫は陸軍の会計長までしたというではないか。

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