2020年8月18日火曜日

7分間の檜舞台

昨日を以て高校野球交流大会が終わった。勝ったチーム16校、負けたチームも16校である。石川県から2校も出場したが、善戦むなしく両校とも負けてしまうという残念な結果となった。その戦績をネットで見ていたのだが、ある記事に「主務」という単語を初めて目にした。何のことだろうと読んでみるとそれは航空石川のある選手のストーリーだった。それは、とても感動的な物語だった。

主人公は菊池 直哉選手だった。
彼は、甲子園を夢見て岐阜から入学したという。50メートル6秒2の俊足を生かした守備に光るものがあった。全国から有望選手が集まる中、主将を任された1年生大会が岐路になった。センターの浅い守備位置から二塁までの送球がワンバウンド。それが引き金となり、思い通りに投げられなくなる「イップス」に陥った。真下にバウンドする送球に「お前、ふざけてんのか」。冗談めかした周囲の言葉が笑えなかった。
主将から主務に そして夢舞台で
「もう、野球をする自信がない」。両親に打ち明けた。部も学校もやめるつもりだった。だが、コーチに辞意を伝えた数日後、中村監督から提案を受けた。「主務をやってみんか」 
葛藤も、プライドもあった。一方で「今やめるのは違うな」とも思った。粒ぞろいだが、「俺が俺が」のチーム。甲子園に行くには、一歩引いた存在が必要に思えた。
腹をくくった。「俺にしかできんこと、やろう」。1年前の夏のことだった。
生活が一変した。慣れない仕事に戸惑う中、自分が打つノックの打球に「実戦と全然違う」と、仲間は容赦ない。悔しくて、数百球を打ちこんだ。手のひらは選手時代より固くなった。

今年1月、中村監督からノックバットをもらった。「自分の、持ってなかったやろ」。認められた気がした。縁の下で支えたチームに選抜切符も舞い込んだ。徐々にやりがいを見いだし、雪深い能登半島の雪が溶け始めるころ、主務の肩書は誇りに変わった。 監督が2007年に指導に携わってから3度の甲子園で、部員がノッカーを務めたことはない。だが、今回は違った。「誰よりもチームのことを理解している」と、部員として初めてノッカーを任された。 
7分間の檜舞台だったがその誇りは一生の宝物
夢のような7分間の最後は、最も練習を重ねたキャッチャーフライ。「自分の高校野球、全部出し切れた」。上空で見事な弧を描き、捕手のミットに収まった。

甲子園を夢見て岐阜から航空に来たという。挫折を乗り越え今まで監督しかしなかったノックを菊池選手に任せた監督も素晴らしいではないか!
交流試合、開催万歳である。


0 件のコメント: