2018年9月16日日曜日

信じられないがしかし・・・

昭和58年、金沢駅連続立体交差化工事の前段として乙丸地内から森本駅まで、上り下りの貨物通路線の新設工事が開始された。この工事に関連して、三池地内に現在もある日吉神社の移転が必要であった。移転と云っても若干の移動でOKなのだが、そこに大きなクスノキがあった。その伐採にあたって、本来、石川県金沢鉄道高架事務所が措置すべきところ、国鉄側に伐採してほしいと依頼があった。工区担当助役であった私めは、渉外担当助役に対応方を依頼した。

現地で高架事務所と立ち合いが行われた。渉外担当助役曰く、「国鉄としては神木の伐採は絶対しません。都市側(県・市をいう)で措置されたい」と固くお断りした。

三池町地内日吉神社
工事関係者はジンクスを不思議なほど重要視する。トンネル工事現場には山の神の怒りに触れるので女性は絶対入場厳禁だとか、口笛を吹くと「ヤマが来る」とこれも厳禁だった。何も知らない新卒者がこっぴどく怒られたものである。

羽田空港にもそれに共通する話が伝わるという。
羽田空港は、87年前の1931年8月25日に正式に開港した。今でこそ世界4位、国内最大の旅客数を誇る羽田空港だが、歴史を紐解くと興味深い歴史が横たわっている。

羽田は、江戸時代中期に埋め立てられ、新田開拓が行われてきた場所である。当然塩害や水害に悩まされ続けたが、やがてこれらの被害から開拓地を守ってもらいたいと、伊勢神宮から外宮の神さま・豊受姫命(とようけびめのみこと)を勧請して神社が作られることになった。それが現在に続く「穴守稲荷神社」の始まりである。“堤防に空く穴がもたらす害から土地を守る”という意味を持つ社名だったが、江戸時代、性病に苦しんでいた遊女たちから、自分たちの体を守るご利益があるとして、大変に信仰を集めることにもなった。

戦前までは東京随一の行楽地に  明治時代になるとこれに加え、羽田に温泉が湧き潮干狩りなども楽しめるようになったため、行楽地としても発展していく。穴守稲荷神社の門前町の賑わいを見て、京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)が蒲田からの支線の運用を始めたくらいの人気ぶりだった。



ところが、第2次世界大戦の敗戦直後の1945年9月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は軍事基地拡張のために羽田空港を接収(強制的に没収)し、同時に羽田一帯の土地も軍用地とした。「穴守稲荷神社」と羽田の住民たちには、24時間の撤収時間しか与えられず、ほとんど着の身着のまま荷車を引いて家を後にしたのだという。
この時、社殿や鳥居なども撤去されたのだが、門前に建った赤鳥居だけは撤去できなかった。最初はロープで引き倒そうとしたが、ロープが切れ作業員が怪我をした。続いて工事責任者が病死するなど変事が続いたことから、「穴守さまのたたり」といううわさが流れ、撤去を断念した経緯がある。

羽田空港の大鳥居
結局、1952年にGHQから空港が返還されたのちも、この鳥居は1999(平成11)年までの半世紀以上にわたり羽田空港の真ん中に立ちつづけた。羽田空港は1998年に暫定的ではあるが国際空港としての役割が加わったこともあり、空港全体としての開発が急務となっていたのである。空港駐車場の真ん中にそびえる鳥居は、移転の必要に迫られていたのだ。時代の要請もあり、氏子たちによる丁重な祈願ののち、ようよう鳥居は現地に移された。

とはいえ、現在地も羽田空港の敷地の中であり、穴守稲荷神社と関係があるような位置関係にはない。今でもこの地を訪れた人は「どこにお宮があるの?」と疑問に思われることだろう。なにしろ鳥居の向こう側には、飛行機の離着陸場が見えるだけである。  この「のろいの鳥居」の移転が完了してから、羽田空港は大きく飛躍した。2004年に第2旅客ターミナルビルが、2010年には国際旅客ターミナルビルの運用も始まっている。

こんな話、あなたは信じますか?

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