2021年5月31日月曜日

心は昭和47、8年に飛んでいた

年中大型連休がズーッと続いている身分、現職時代では天国のような時間を過ごしている羨ましい自分がここにいるのだが、今朝の思い出の道具は3D写真。時は昭和46年12月、現場勤務を志願して大野工事区という事務所に転勤した。で、3D写真で事務所があった辺りと、借り上げ宿舎や新幹線建設現場を思い出せる位置を定めた。

右端上部には厳島が見える
やがて50年の歳月が流れるのだが、何と赤い屋根の現場事務所が現在も残っていた。この建物は民間に払い下げられて家具屋に使用されたと聞いたが、今も残っているとは!である。非常階段の降り口のすぐ傍に自分の席があった。写真の右端は山陽本線。現場事務所から徒歩5分の位置に借り上げ宿舎があって、昭和48年には次女が誕生し四人で昭和50年3月まで暮らした。至近距離に鉄橋と踏切があり、列車が通過する度の凄い音で馴れるまでは睡眠不足が続いた。
角度を変えて担当した現場を見た
左下が大野トンネル入り口、直線区間から左にカーブして廿日市トンネルとなる。
左端の高速道路はまだ建設されていなかった。大野トンネルは断層破砕帯にぶつかり難航し、高架橋は地下の巨石でスパン割変更をしたり、おまけにオイルショックに突入して工事費の変更処理等々で深夜までの業務が続いた。余りの多忙に真剣に転職を考えた程だった。

左下は大竹トンネル入り口、上部は大野トンネル出口
この写真は大野工事区に転勤する前に、線増第3課という勤務箇所でトンネル工事の発注業務や橋梁の設計業務を担当していたのだが、写真部分の恵川橋梁設計で心血を注ぎ、息つく間もなく大竹トンネルの工事用道路の設計を任された。この道路は工事終了後、保守用道路として使用されているようである。自分の設計した構造物が今も機能していることが嬉しく思う。語り出せば終わりそうにない。

0 件のコメント: