2018年5月6日日曜日

三助の仕事の流儀


江戸時代から銭湯には客の背中を流す従業員、いわゆる「三助(さんすけ)」がいた。釜たきや温度調整を担う番頭たちが、銭湯の裏方仕事と並行して担当していたという。番頭がいなくなり、背中流しの仕事もなくなったが、近年、復活の動きが出ているらしい。


 ●気配り目配り大切
「トタン屋根の家も建ち始めていたが、まだ焼け野原のようだったなあ」。東京都世田谷区の坊山義信さん(83)は、石川県から上京してきた当時の街並みを覚えているのだとか。大田区の銭湯で働き始めたのは敗戦の数年後。最初は釜たきの材料となる建築廃材を拾い集めた。やがて、親子ほど年の離れた先輩の見習いとして釜たき番に。そのころ、複数の銭湯で流しの仕事を経験した。

「三助(さんすけ)」とは、銭湯で入浴する客の背中や髪の毛を洗う仕事を行う男性のことである。
「三助」に背中を流してもらいたい客は、番台で申し出て料金を払い、札をもらう。浴室に札を置いて入浴していると、番台から、背中流しを希望する客がいる旨を受けた「三助」が洗い場に入り、客の希望を聞いて背中を流したり、髪の毛を洗ったりする。


「三助」は男湯女湯問わず仕事を行い、銭湯で働く男性の中では、最も給料のよい仕事であったといわれている。銭湯に行って、その道のプロフェッショナルに背中を流してもらうことは、風呂好きの日本人にとっては最高の贅沢であり、「三助」という仕事は昭和の中ごろ隆盛を誇ったという。 銭湯とは切っても切り離せない職業であるがゆえ、銭湯が無くなっていくとともに、「三助」も自然消滅していくのだろうか?


庶民が気軽に利用できるようになり、全盛期を迎えるのが江戸時代。庶民が暮らす長屋にはもちろんのこと、商人の家でも風呂などなく、人々は当たり前のように銭湯に行く。
水の確保が難しかったという点もあるが、「火事と喧嘩は江戸の花」といわれる江戸において、薪に火をつけ湯を沸かす行為に対する危険性もあったというのが、風呂を持たない理由のようである。 
国立国会図書館所蔵の「肌競花の勝婦図」によれば、堂々と女湯で仕事をしている三助が描かれている。

江戸っ子は銭湯が大好きだったといわれているが、1日に4回も5回も湯に入る人もいたそうで、木製の定期券を持ち、それを所持してせっせと通っていたのだそうだ。江戸風俗研究家の故杉浦日向子さんによると、「江戸のお湯はものすごく熱かった。そういう熱いお湯に日に何度も入るので、江戸っ子は肌が薄くなって、テラテラに光を帯びて、脂気が抜けて、独特の肌合いをしていた」(『杉浦日向子の江戸塾』PHP文庫)とのこと。「三助」に頼んで背中を流してもらっていたのでは? と。

江戸後期の銭湯は、2階がサロンのようになっており、そこで碁をさしたり、お茶を飲んだりおしゃべりに花を咲かせたりといった楽しみがあった。この頃銭湯は、湯につかるだけではなく、人々の交流の場で文化的な場所でもあったという。


復活の兆し
銭湯のオーナーは関東、関西に関わらず石川県出身者が多いということは既に触れた。
銭湯が加速度的に減少している中で、三助が復活の兆にあるという。めでたし、めでたしというところか。




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