2018年5月5日土曜日

かつぎのおばちゃん

昭和20年代~昭和30年代前半はかつぎ文化全盛時代だったといえる。私の家にも2日おきくらいに大きな荷物をしょって玄関で「よいしょ」と降ろした。主に置いていくものは宇出津から運んできた魚である。そのおばさんたちは2,3人のグループで、それぞれテリトリーを持っていた。商品は現金で取引は行われない。物々交換、魚が米に変化するのである。イシルや干物も当然荷物の中にはあった。


原則、米の売買は禁止されていた時代、「米穀通帳」は昭和40年代まで必要だったのである。が、終戦後5,6年を過ぎたころから警察官の取り調べは事実上なくなっていた。
私のおふくろは宇出津出身なので、宇出津の出来事などをよく聞いていたから、かつぎのおばさんが来るのを楽しみにしていた。

昭和30年代でも七尾線の列車の中はかつぎのおばさんがかなりのスペースを占領していた。
汽車を待つおばちゃんたち
中にはおじさんの姿もある
車内はこんな感じ
だいたいおばちゃんたちは威勢がいい。大きな声で笑ったりして会話は賑やかだった。
こんな風景が見られなくなったのはディーゼル化したあたりだろうか。モノと文化を担いだおばちゃんたちの姿がなつかしい。


1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

昭和40年に入る迄魚の行商おばさんは来ましたね
お米と交換てカニや🦀魚🐟を
良く買いました。
大正11ねん生まれの父の祖母が
物心ついた頃に
宇出津から魚を背負い輪島で
歩いてとどける駄賃稼ぎのおばさん達は柳田の山越えで
魚が取れない輪島に運んだ見たいです
柳田 知る限りは大正字だから
おばちゃん達は
重い荷物を背負って頑張って
柳田の子供達を育てたようです