高校生だったS33年頃に聞いた話だったが、8月2日午後0時半過ぎから富山空襲が始まり、金沢から北方の空が真っ赤になっていたという。想像力が乏しかったせいか、そんな話をきいても「フーン」と答えただけだった。その数年後、能登線建設で宇出津にいた際に、穴水から通勤していた臨時職員から、「富山駅で仕事をしていた時に空襲があった。駅周辺には死体が山ほどあった」と聞いたのだが、その時も「フーン」と答えただけだった。
これまで富山市には業務上で2,3回、町内老人会の旅行で総曲輪や駅周辺に行ったことがあった。昨日のTV番組で中部地方の空襲について放映された。そして、富山の空襲について初めて詳細を知ることができた。実際に空襲を経験した人たちの話を聞いたのだが、本当に泣けてくる内容だった。
![]() |
総曲輪通り付近空襲後の状況 右奥のビルは富山大和 |
![]() |
駅・商店街・住宅密集地等は殆ど焼け野原になった |
700tを超える爆弾が投下されたという。1日後に米軍の飛行機が飛来して爆撃の成果を確認していたという。空襲から2週間後に終戦になった。もう少し早く降参していれば2700余人の多くの命を失わずに済んだものを・・・と歯がゆく思った。
0 件のコメント:
コメントを投稿