2018年3月15日木曜日

青函トンネル30年記念に思う

時は昭和36年6月、私は国鉄部内の中央鉄道学園三島分教所での初等教育を終え、岐阜工事局線増課に勤務することになった。線増課は5月に土木課から分離独立する形で、北陸本線の複線化工事を担当することになった。北陸本線は北陸トンネルが完成し、富山以北の複線化工事が最盛期を迎えつつあった。糸魚川付近の親不知トンネル、頚城トンネル工事がこれから最盛期に向かう頃である。私の担当係は風波トンネルであった。だが、私は2カ月間しかこの係に在籍しなかった。能登線小木工事区助役だった人が、私が能登出身者ということを誰からか聞いて小木工事区に引っ張り込んだという話を後で知った。

さて、その親不知トンネル工事は請負ではなく直轄で行われていた。直轄工事はトンネル工事の研究発展を進めるため行われ、国鉄部内では戦後においては岐阜工事局だけが紀勢線や疋田、倶利伽羅、北陸トンネル等で順次施工された。
親不知トンネルの直轄部隊は昭和39年7月、青函トンネル建設のため青森に移動した。

前置きが長くなったが、このほど青函トンネル開通30周年を迎えるという。
総工事費約6900億円を投じ、延べ約1400万人が約24年間かけて完成させた青函トンネル(全長53・85キロ)は、13日に開業から30年を迎えた。本州と北海道を結ぶ大動脈に、新幹線という新しい役割が与えられてから2年が経過した。


青函トンネルが完成して役目を終えたのが青函連絡船である。私が最も悔いが残っていることに、この青函連絡船に乗る機会を失ってしまったことがある。

30年前にはあった青函連絡船
青函連絡船が昭和62年3月12日に使命を終えて、その12年後、私は北海道を旅した。函館では函館港に係留されている摩周丸に乗船した。


平日だったせいか見学者は殆どいなくて閑散としていた。

操舵室で舵を握った
そんなことがあって、その1年後になるが、業務研修で青森に出張したのだが、青森駅からメモリアルシップ八甲田丸が係留されている桟橋にも行ってみた。


青森駅から桟橋まではかなり距離がある。連絡船に乗る人の気持ちもこうであったかと想像しながら桟橋まで歩いた。そんなことで函館~青森間を乗ったつもりになっているのだが・・・・・。

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