2013年4月24日水曜日

中山道中津川宿(その1)

昭和40年1月15日、多治見工事区から中津川工事区に着任した。

中津川市は中山道中津川宿の賑わいを引き継いで、当時48000人の人口で経済・文化活動が
活発であった。
工事区と寮は中津川橋りょう直近に位置していた
【経済の中心地・中津川宿 国境の宿・落合宿】(検索資料による)
 中津川宿は、東濃最大の宿場として経済の中心地として栄えました。古代より交通の要衝として栄えた中津川は、物資の集積地でもあり、木曽や三河、飛騨方面からの品物が集まり、毎月3と8がつく日には「六斎市」という市が立ちました。
経済の中心であるとともに、中津川は文化の中心でもありました。旅人がもたらす東西の文化を取り入れながら、独自の文化を作りげてきました。そのひとつが中津川独自の食文化。そして幕末の頃は情報ターミナルとしての役割もになっていました。
安藤広重 中津川宿
関が原の合戦後、天下統一を果たした徳川家康は、江戸を基点とする5つの街道の整備に着手した。その中で、江戸と京を結ぶ街道が東海道と中山道だった。海沿いを通る東海道に対し、日本の屋根といわれる山岳地帯を通る中山道は、東海道の裏街道として整備された。東海道は比較的平坦な道が多く歩きやすい代わりに、大名行列などの交通が多く、また大河越えや舟渡しなど、天候に左右されやすい道でした。中山道は急な山道を通ることが多いのですが、天候に左右されることなく旅程がたてやすい道でした。そのため、滞ることを嫌うお輿入れ行列は中山道を使うことが多く、別名「姫街道」とも呼ばれた。また、「上松」「馬籠(まごめ・孫目)」など、縁起のよい地名があることも、中山道を好んで使った理由といわれている。中津川市内には、木曽路の入り口として、商業の中心地として栄えた中津川宿、美濃国と信濃国の国境にある落合宿、島崎藤村の小説「夜明け前」の舞台となった馬籠宿の3つの宿場がある。

当時、岐阜工事局では名古屋を起点として中央本線の複線化をめざし、神領車両基地設計計画を始めとして定光寺、古虎渓、多治見、土岐津、釜戸、恵那、中津川、及び坂下に工事区を設置して蜂の巣をつついたような状態で鋭意工事を進めていた。

区長が私をスタッフにした経緯を話してくれた。「設計協議で着工が遅れていたが、ようやく話がついた。これから君に恵那工事区境界から1.6kmの区間をやってもらう。すぐ着工したいが詳細設計は全く手を付けていない。1日も早く着工する必要があり忙しくなるが、君にならやれると考え土木課長に頼んだ。後輩を一人付けるので面倒を見てくれ。」というものであった。
担当する区間には大構造物はないが、細かな構造物がわんさか!
工事区境界から現場を踏査した。大小橋りょうが6か所、踏切道路付替え数か所、横断水路、河川付替え、排水溝、法面工、美乃坂本駅乗降場改築等々、これを後輩と二人で設計から工事管理までやらなければならない。多治見工事区で担当した比ではなく気が遠くなる思いをした。

そして寮に入り自分の部屋で寝てみて驚いた。寮は中津川橋りょうの鉄桁の真下にあるため、名古屋方面から列車が通過する度の騒音が半端でないため、初日はうとうとするだけで夜明けを迎えた。大変な所に来たもんだと今後が心配になった。

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