中津川市は中山道中津川宿の賑わいを引き継いで、当時48000人の人口で経済・文化活動が
活発であった。
工事区と寮は中津川橋りょう直近に位置していた |
中津川宿は、東濃最大の宿場として経済の中心地として栄えました。古代より交通の要衝として栄えた中津川は、物資の集積地でもあり、木曽や三河、飛騨方面からの品物が集まり、毎月3と8がつく日には「六斎市」という市が立ちました。
経済の中心であるとともに、中津川は文化の中心でもありました。旅人がもたらす東西の文化を取り入れながら、独自の文化を作りげてきました。そのひとつが中津川独自の食文化。そして幕末の頃は情報ターミナルとしての役割もになっていました。
安藤広重 中津川宿 |
当時、岐阜工事局では名古屋を起点として中央本線の複線化をめざし、神領車両基地設計計画を始めとして定光寺、古虎渓、多治見、土岐津、釜戸、恵那、中津川、及び坂下に工事区を設置して蜂の巣をつついたような状態で鋭意工事を進めていた。
区長が私をスタッフにした経緯を話してくれた。「設計協議で着工が遅れていたが、ようやく話がついた。これから君に恵那工事区境界から1.6kmの区間をやってもらう。すぐ着工したいが詳細設計は全く手を付けていない。1日も早く着工する必要があり忙しくなるが、君にならやれると考え土木課長に頼んだ。後輩を一人付けるので面倒を見てくれ。」というものであった。
担当する区間には大構造物はないが、細かな構造物がわんさか! |
そして寮に入り自分の部屋で寝てみて驚いた。寮は中津川橋りょうの鉄桁の真下にあるため、名古屋方面から列車が通過する度の騒音が半端でないため、初日はうとうとするだけで夜明けを迎えた。大変な所に来たもんだと今後が心配になった。
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