2013年4月25日木曜日

中山道中津川宿(その2)

当時の工事発注方式は、トンネル、長大橋りょうを除き、「明かり」と称する路盤工事については標準図を基に概数を算定して請負契約が締結され、現場事務所において現地調査し、詳細設計を行い施工された。そのため、現場で設計が終わらない限り着工ができない。
現場調査測量⇒詳細設計⇒積算⇒設計変更伺(主管課へ提出)⇒局次長決済認可⇒着工という手順を踏まなければならない。
従って明かり工事担当職員は常に設計変更作成業務に追われ放しとなる。同時に現場検査願があればその都度現場に行かなければならない。日中は外業、夜は遅くまで内業となる。現場事務所勤務は「タコ部屋」同然であった。
組合闘争で36条協議破棄(超勤拒否)中であっても、現場職員は超勤拒否どころではなかった。
40年代前半までは現場職員は100時間以上の超勤手当が支給された。基本給を超えることも珍しくなかった。そのほか現場巡回手当、宿直手当、トンネル掘削手当等が支給された。
余談ではあるが、本局勤務者で新婚さんなどは現場勤務を望んだ。現場に出ると自家用車が買えるくらい生活にゆとりができたからである。
さて、1.6kmの各種構造物設計は緊急課題であった。
一部工事着工
橋りょうを最優先に設計し工事開始
忙しさのため女の子にもつい厳しい言葉が
忙中閑あり、5月の連休のある日、15km離れた恵那峡へ行った。恵那峡は関電大井発電所のダムにより観光開発された所である。
関電大井ダム
このダムを見学して高校2年の時にダムの図面を描いたことを思い出した。
我ながらよく描けている
連休が明けて再び深夜までの作業の日々を送った。

0 件のコメント: