2013年4月20日土曜日

トンネル貫通式で美酒に酔う

請負業者の主任技術者から「橋りょうの鉄筋が組み上がったので現場検査をお願いします」と連絡があったので現場に行った。
設計図面を広げ、鉄筋の径、間隔、先端フックの形状、重ね継手等をチェックしていった。
全般的に荒っぽい仕事だと感じたとおり、間隔もまちまち、重ね継手もばらばら、如何にも素人職人の仕事であることが一目瞭然であった。
主任技術者に「全てバラして組み直し!」と指示してほかの現場を巡回し2時間後に事務所に帰った。
帰着すると助役が、「刺青をした下請けの親方が監督を出せと一暴れして行ったところだ。鉄筋をバラせと云われコンクリ仕事もできない、大損だ。監督は細か過ぎる、ぶっ殺してやる、とゆうとった。現場に行くときは気をつけろ。」と指導があった。昔は監督が現場に来るときに足場の上から金槌やペンチが落ちてきたり板切れなどを落とされたこともあった、と聞いた。
このような下請け親方を使っている元請け業者の社員の資質も問題がある。この現場の主任技術者は大阪の出身者で態度が不遜であった。指示を出すと、「あーそっでっか」と、如何にも私を馬鹿にした口ブリに腹が立つことが多かった。
助役から現場代理人に監督者の安全上、刺青した親方を代えよと指示され直ちに措置が行われた。間もなくして主任技術者も交代した。
多治見駅から数百メートル長野方に単線型の虎渓山トンネルが施工中であった。工事が進捗し貫通式が催されるというので、生まれて初めて貫通式に参列することにした。
天井部から滴り落ちる暗くて狭い木材で組まれた支保工の間を通り貫通地点に到着した。
区長による貫通発破のスイッチが押され、タヌキアナと称する空間ができた。こちら側と向こう側から酒樽が担がれ交換された。半裸体の作業員、請負者側社員、工事区職員一同が万歳を三唱し酒樽の鏡が割られ祝杯をあげた。飲めない私にもそれは美酒であった。
祝貫通!前列右端の私とその後ろに上司の助役の姿が
貫通の時ほど仕事の達成感が昂揚する場はない。いつか自分もトンネル担当者となって美酒を味わいたいと思った。
何もわからない状態で着任した私は、4,5か月過ぎる頃には一通りの仕事を理解し任務が果たされるようになった。
そして自分が現場測量をし、図面を描き、積算できるまでになり、現場監督をして構造物が出来上がってきた。
机の上は片付くことがなかった
職員家族慰安会で長良川簗場で鮎料理三昧

着任時の現場状況
大がかりな切土現場
鉄筋をバラせと命じた橋りょう付近
自分で設計から工事管理まで行った成果
土木屋の冥利は自分の設計した構造物が何十年と機能し続けていることであろう。10年後、女房が多治見の茶碗祭りに行きたいというので岐阜から車で多治見に訪れた。ついでに自分の担当した現場に連れて行った。苦労した思い出話をしたが、「フーン」と云っただけだった。女には男の仕事はかわらんだろうなぁと思った。
ある日助役から「君が寮長をやれ」と指示された。任務は宿泊客の予約受付、宿泊代金の徴収である。本局からの「缶詰」作業に寮が使用された。賄のおばさんに宿泊客の人数を告げる役目もあった。
寮生活で馴染めなかったのが「赤だし味噌」の味噌汁であった。北陸の人間にとって味噌汁は白みそでなくてはならない。渋くて苦い味噌汁に加えて、強烈なカルキの匂いのした水道水には閉口した。
22歳の昭和40年が明け、一瞬吾が耳を疑う話が出た。今月中旬、転勤命令が出されると。思わず「エエッ」と聞き返した。
僅か7か月、なぜそんな早い転勤命令が出るのか理由を尋ねた。「何か私に非がありましたか」と。
助役曰く、「設計協議が難航していた中津川工事区で、ようやく住民と協議成立調印され遅れていた工事が着工されることになった。新任の区長が本局担当課長に直談判して、担当職員を多治見工事区の君にしたいと指名したためだ。」と。
新任区長は能登線鵜飼工事区で一緒だった区長であった。その区長から絶大な信任を得たことだが、嬉しいのかそうでないのか複雑な思いで命令に服することにした。

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